「終夜はこれからどうするの?」
「仕事」
団子屋の前で問いかける明依に、終夜はあっさりと言う。
吉原の街は、修繕に改革に大忙しだった。
屋形船で会った吉原の解放に外部から協力してくれる四人は、誰かしらが毎日主郭に足を踏み入れている。
終夜は〝無駄な時間〟と言いながら会議に参加していた。
唯一話が合うのが、吉野の身請けが確定している天辻らしい。
今の終夜を見て思い出すのは、〝宵〟の姿だ。
主郭の地下に連行され、終夜に拷問を受けた時。
帰ってきてすぐに宵は仕事をしていた。
今となって思えばあの行動ももしかすると、宵という人間の演技の内だったのかもしれない。
しかし、終夜と重なっていた。
かつて兄と慕い、自分が殺した暮相に対して終夜がどう思っているのか。明依は知らない。
「少し休んだら?」
「休んで事が進むならそうしてる」
可愛気のかけらもないのは、復活しても相変わらずだ。
動いていないと落ち着かないのだろう。その気持ちはよく理解できた。
「後で書類の確認に誰か行かせるから」
「うん」
「じゃあ、またね」
明依が返事をしてすぐ、終夜は雪の頭を撫でて去っていく。
主郭へ帰るのだろう。
満月屋は途中まで同じ方向なのだから一緒に行けばいいのに。
それをしないところが終夜らしいと思いながら、終夜の背中を見送った。
これでもう終夜と会う事はないのかもしれない。
抗争が終わってから終夜と会うたびに、そう思う。
吉原が解放されればきっと終夜は、もう表に出てくることはないのだろうと思うから。
全ての運は終夜が生きている事で使い果たした。
こんな広い街で、偶然巡り合う幸運を自分が持っているはずがない。
終夜の存在が側にいないと、ふと気付く日が来るのかもしれない。
きっと終夜は、お別れの言葉すら言わせてくれないだろうから。
「明依ちゃん、雪ちゃん」
二人が視線を移すと、そこにはひらひらと手を振る清澄がいた。
清澄は目立たない小さな戸から外に出てくる。
「清澄さん。また店を変えるんですか?」
「そうそう。まだ下見だけどね」
清澄の本職か副職かわからない小間物屋は、本当によく変わる。
前回は主郭の近くだったが、また移動する事にしたらしい。
「今のうちに決めておかないと。いい所は埋まっちゃうからね」
清澄はそう言いながら、店の中を覗く。
明依は抗争の最中、終夜が清澄の店の前に立てかけられた傘を壊した時の事を思い出していた。
あの時、終夜が一本別の道で襲われていたとしたら、清澄の傘を終夜が手に取ることはなかっただろう。
あの傘を手に取ることがなければ、終夜が日奈に昇格祝いの簪を渡したことには気づかなかったかもしれない。
偶然というのは時に奇跡を起こすのだと、改めて感じていた。
「変わったらちゃんと教えてくださいね。清澄さんがいないと、私の仕事は話にならないんだから」
「ちゃーんとわかってるよ」
明依は吉原解放のために妓楼の全体像の把握に奮闘していた。
吉原を解放しようと思うのなら、主郭はもちろん、それぞれの妓楼が別々の方向を向いている事はどうしても避けなければいけない事だった。
そして主郭には楼主の詳細情報はあるが、遊女の詳細情報はない。
主郭と妓楼との信頼関係の回復を図る為に、明依が主郭側の人間として自分の足で吉原中の妓楼を回って情報をまとめる為に動いている。
だから遊女が関わる施設を担当している清澄の存在が欠かせない。
しかし、主郭を訪れても不在にしている事が多いため苦労していた。
他に並行して個人的に進めている仕事も、野分や清澄の力を借りているため、わがままを言えるなら常に会える環境にいてほしいというのが本心だ。
「いい店になりそうだな」
炎天はそう言いながら三人の側で立ち止まり、清澄が背にしている建物を眺めた。
「炎天がそういうなら、ここにしようかな」
清澄は場所にこだわりなどないのだろう。
たくさん来る客を時々間引くことが出来れば、後の事はどうでもいいに違いない。
「終夜と団子は食えたか?」
炎天は清澄の店になる予定の場所から明依と雪に視線を移した。
「食べられました。終夜が来てくれたの」
「そうかそうか。よかったな」
炎天はそう言うと、雪の頭を豪快に撫でた。その表情は、とても優しい。
「しかし。アイツの人を信用しないところはどうにかならないのか」
炎天は先ほどの優しい表情を引っ込めて、不服そうな顔で言った。
終夜が他人を信用しない事なんて、今に始まった事ではない。
終夜は最初から、誰の事も信用なんてしていないのだ。
深くかかわったであろう自分でさえ、本当に、ごくたまに、信用されているのだなと感じるくらい。
炎天と終夜の間には、それだけの距離があった。
きっと互いに苦手意識があって、測りかねていたに違いない。
だから炎天の言葉は、二人がたとえビジネス上の関りだからなのだとしても、少しずつ近づいていることを証明していた。
「信用はどーでもいいけどさ。アイツ、俺の事、雑に扱い過ぎなんだけど」
そう言いながら、着物の袖に手を入れて歩いてきたのは時雨だった。
「また何かされたの?」
「さっきそこですれ違った。ホワイトボードのペンのインクがきれたから百均で買ってこいって」
そういう時雨が袖から抜いた手を開くと、しっかりと110円が握られていた。
「普通110円だけ握らせるか?子どものおつかいかよ」
時雨は心底不服と言った様子で言う。
大の大人におつかいを頼んで、110円だけきっちり差し出されている事が面白くて、明依は思わず笑った。
時雨は「笑いごとじゃない」と言う。
「忙しいからね。ウチの頭領さまは」
清澄は時雨をなだめて言う。
まだ解放されていない吉原の外に出すなんて、終夜はよほど時雨を信用しているのだろう。
きっと時雨は、それをわかっているのだ。
終夜は裏の頭領となったことで、時雨は頭領になることを免れた。
二人はなんだかんだと言いながら、一つの目標に向かって頑張っているらしい。
今日は天気がいい。
天気がいい日は気分がよくて。仕事が残っているものの、気晴らしに少し歩きたい気分だった。
「少し散歩して帰ろうか」
「うん」
清澄と炎天に穏やかな笑顔で見送られて、吉原の街を歩く。
観光客のにぎやかさはない。
その代わり、この街に住む人たちが、街の修繕をしたり、楽しそうにくつろいでいたり。中には本気の喧嘩を繰り広げていたり。
昔の時代を知らないが、江戸の街というのはこんな雰囲気だったのかもしれない。
吉原の街は広い。
見た事のない道がまだたくさんある。
「お前さん、黎明大夫か!」
「はい、そうです」
煙草屋の店主と思われるしゃがれた声の男は声を張り上げた。
「おい!お前!!ちょっと来てみろ」
バタバタと店の中に入って声を張り上げる男の声に、「なんなのー?」という機嫌の悪そうな女性の声が聞こえてきた。
「忙しいんだから!」
そう言いながら、店と個人的な空間を仕切る障子を開けた、妻と思われる女は不機嫌さを隠さずに旦那を見た。
「見てみろ、ほら!!」
そう言われて視線を移した女は、明依を見て目を見開いた。
「満月屋の!黎明大夫じゃないか!」
女は履物も履かずに降りてくると、圧に押されて一歩下がろうとする明依の肩をがっちりと掴んだ。
「あの抗争の日、お前さんが必死に主郭まで走っていくのを見たんだよ」
女はそう言うと、掴んでいる明依の肩を擦った。
「無事だとは聞いてたんだけどね……。あの規模だったろう。心配してたんだよ」
「あれ!無事だったのかい」
隣の店の女将が前掛けで手を拭きながら、明依の側に歩いてくる。
「もうこの人が心配してねェ。死んだって話が耳に届かないんだから無事なんだろってみーんなで言ってたんだけど、余りにも心配するもんだから、こっちまで気になっちまって」
「どいつもこいつもテキトーな噂流すんだから、信用なんかできやしないよ」
互いに突っぱねるような口調で言う女性二人だが、明らかな信頼関係が見えていた。
吉原の抗争が終わってから、こうやって声をかけられることが多くあった。
一度もあった事のない人達が気軽に声をかけてくれる。
明依は吉原で自分が恵まれているという事をひしひしと感じていた。
その分、吉原にいる限りはできるかぎりの事をしようと、慣れない事務作業でもあともう少しだけと踏ん張ることができていた。
明依は礼を言ってその場を去った。
吉原に来て5年以上が経ったが、今が一番、自分が恵まれた環境にいる事を感じているかもしれない。
「吉原の街が自由になったら、明依お姉ちゃんはお外に行くんでしょう?」
「……どうして?」
雪の問いかけは、さも当然と言った様子で。
だから明依は驚きながらも、雪の口調の中に日奈の面影を感じて、知らないふりをした。
「雛菊姐さんが言ってたから。〝解放〟されたら、明依お姉ちゃんにはこの街の事は全部忘れて、いろんな所を見てほしいって」
二人は側にいて見守ってくれているのだろうか。
『だからこんな地獄の檻の中じゃなくて、いつか吉原が変わった先で幸せになってほしいって思うのは、当然だろ』
旭はいつか、そう言った。
『今度は明依と二人でここでの事をいろいろ思い出したい』
『旭の分まで渋る明依を引っ張って、いろんなところに連れて行くの。怖いならずっと、私が明依の手を握っていてあげる』
旭はもういない。日奈も、もういない。
手を引いてくれる人はもういない。
だから自分の足で、歩き出さないといけない。
それがきっと、二人の望みなのだろう。
吉原の外側でたくさんの物を自分の目で見て、吉原の街での出来事を忘れて、悲惨だった街の事を自然と忘れて。
心の整理がついたころにこの街に戻ってきて、〝懐かしい〟という感情を感じる。
終夜は吉原の解放が終われば、もっと深いところにもぐる。
人前に姿を現すこともなく、この街に沈む。
それが本当の意味で、互いの人生から消える時。
「そうだね。もう少し先の話かな」
「もし吉原の外に出ても、たまには遊びに来てね」
吉原の制度は大きく変わろうとしている。
松ノ位がいなければ妓楼にいられない、という雪の様な特別な子の制度も変わる事だろう。
遠回りをして帰る最中に思い出したのは、雪にはじめてこの街を案内したときの事だった。
懐かしい気持ちになるのは、その出来事を自分の中で消化できているから。
いつか吉原の事も、日奈の事も、それから終夜の事も、その存在自体を消化することが出来るのだろうか。
〝懐かしい〟と心の底から思う日がいつか、来るのだろうか。
「仕事」
団子屋の前で問いかける明依に、終夜はあっさりと言う。
吉原の街は、修繕に改革に大忙しだった。
屋形船で会った吉原の解放に外部から協力してくれる四人は、誰かしらが毎日主郭に足を踏み入れている。
終夜は〝無駄な時間〟と言いながら会議に参加していた。
唯一話が合うのが、吉野の身請けが確定している天辻らしい。
今の終夜を見て思い出すのは、〝宵〟の姿だ。
主郭の地下に連行され、終夜に拷問を受けた時。
帰ってきてすぐに宵は仕事をしていた。
今となって思えばあの行動ももしかすると、宵という人間の演技の内だったのかもしれない。
しかし、終夜と重なっていた。
かつて兄と慕い、自分が殺した暮相に対して終夜がどう思っているのか。明依は知らない。
「少し休んだら?」
「休んで事が進むならそうしてる」
可愛気のかけらもないのは、復活しても相変わらずだ。
動いていないと落ち着かないのだろう。その気持ちはよく理解できた。
「後で書類の確認に誰か行かせるから」
「うん」
「じゃあ、またね」
明依が返事をしてすぐ、終夜は雪の頭を撫でて去っていく。
主郭へ帰るのだろう。
満月屋は途中まで同じ方向なのだから一緒に行けばいいのに。
それをしないところが終夜らしいと思いながら、終夜の背中を見送った。
これでもう終夜と会う事はないのかもしれない。
抗争が終わってから終夜と会うたびに、そう思う。
吉原が解放されればきっと終夜は、もう表に出てくることはないのだろうと思うから。
全ての運は終夜が生きている事で使い果たした。
こんな広い街で、偶然巡り合う幸運を自分が持っているはずがない。
終夜の存在が側にいないと、ふと気付く日が来るのかもしれない。
きっと終夜は、お別れの言葉すら言わせてくれないだろうから。
「明依ちゃん、雪ちゃん」
二人が視線を移すと、そこにはひらひらと手を振る清澄がいた。
清澄は目立たない小さな戸から外に出てくる。
「清澄さん。また店を変えるんですか?」
「そうそう。まだ下見だけどね」
清澄の本職か副職かわからない小間物屋は、本当によく変わる。
前回は主郭の近くだったが、また移動する事にしたらしい。
「今のうちに決めておかないと。いい所は埋まっちゃうからね」
清澄はそう言いながら、店の中を覗く。
明依は抗争の最中、終夜が清澄の店の前に立てかけられた傘を壊した時の事を思い出していた。
あの時、終夜が一本別の道で襲われていたとしたら、清澄の傘を終夜が手に取ることはなかっただろう。
あの傘を手に取ることがなければ、終夜が日奈に昇格祝いの簪を渡したことには気づかなかったかもしれない。
偶然というのは時に奇跡を起こすのだと、改めて感じていた。
「変わったらちゃんと教えてくださいね。清澄さんがいないと、私の仕事は話にならないんだから」
「ちゃーんとわかってるよ」
明依は吉原解放のために妓楼の全体像の把握に奮闘していた。
吉原を解放しようと思うのなら、主郭はもちろん、それぞれの妓楼が別々の方向を向いている事はどうしても避けなければいけない事だった。
そして主郭には楼主の詳細情報はあるが、遊女の詳細情報はない。
主郭と妓楼との信頼関係の回復を図る為に、明依が主郭側の人間として自分の足で吉原中の妓楼を回って情報をまとめる為に動いている。
だから遊女が関わる施設を担当している清澄の存在が欠かせない。
しかし、主郭を訪れても不在にしている事が多いため苦労していた。
他に並行して個人的に進めている仕事も、野分や清澄の力を借りているため、わがままを言えるなら常に会える環境にいてほしいというのが本心だ。
「いい店になりそうだな」
炎天はそう言いながら三人の側で立ち止まり、清澄が背にしている建物を眺めた。
「炎天がそういうなら、ここにしようかな」
清澄は場所にこだわりなどないのだろう。
たくさん来る客を時々間引くことが出来れば、後の事はどうでもいいに違いない。
「終夜と団子は食えたか?」
炎天は清澄の店になる予定の場所から明依と雪に視線を移した。
「食べられました。終夜が来てくれたの」
「そうかそうか。よかったな」
炎天はそう言うと、雪の頭を豪快に撫でた。その表情は、とても優しい。
「しかし。アイツの人を信用しないところはどうにかならないのか」
炎天は先ほどの優しい表情を引っ込めて、不服そうな顔で言った。
終夜が他人を信用しない事なんて、今に始まった事ではない。
終夜は最初から、誰の事も信用なんてしていないのだ。
深くかかわったであろう自分でさえ、本当に、ごくたまに、信用されているのだなと感じるくらい。
炎天と終夜の間には、それだけの距離があった。
きっと互いに苦手意識があって、測りかねていたに違いない。
だから炎天の言葉は、二人がたとえビジネス上の関りだからなのだとしても、少しずつ近づいていることを証明していた。
「信用はどーでもいいけどさ。アイツ、俺の事、雑に扱い過ぎなんだけど」
そう言いながら、着物の袖に手を入れて歩いてきたのは時雨だった。
「また何かされたの?」
「さっきそこですれ違った。ホワイトボードのペンのインクがきれたから百均で買ってこいって」
そういう時雨が袖から抜いた手を開くと、しっかりと110円が握られていた。
「普通110円だけ握らせるか?子どものおつかいかよ」
時雨は心底不服と言った様子で言う。
大の大人におつかいを頼んで、110円だけきっちり差し出されている事が面白くて、明依は思わず笑った。
時雨は「笑いごとじゃない」と言う。
「忙しいからね。ウチの頭領さまは」
清澄は時雨をなだめて言う。
まだ解放されていない吉原の外に出すなんて、終夜はよほど時雨を信用しているのだろう。
きっと時雨は、それをわかっているのだ。
終夜は裏の頭領となったことで、時雨は頭領になることを免れた。
二人はなんだかんだと言いながら、一つの目標に向かって頑張っているらしい。
今日は天気がいい。
天気がいい日は気分がよくて。仕事が残っているものの、気晴らしに少し歩きたい気分だった。
「少し散歩して帰ろうか」
「うん」
清澄と炎天に穏やかな笑顔で見送られて、吉原の街を歩く。
観光客のにぎやかさはない。
その代わり、この街に住む人たちが、街の修繕をしたり、楽しそうにくつろいでいたり。中には本気の喧嘩を繰り広げていたり。
昔の時代を知らないが、江戸の街というのはこんな雰囲気だったのかもしれない。
吉原の街は広い。
見た事のない道がまだたくさんある。
「お前さん、黎明大夫か!」
「はい、そうです」
煙草屋の店主と思われるしゃがれた声の男は声を張り上げた。
「おい!お前!!ちょっと来てみろ」
バタバタと店の中に入って声を張り上げる男の声に、「なんなのー?」という機嫌の悪そうな女性の声が聞こえてきた。
「忙しいんだから!」
そう言いながら、店と個人的な空間を仕切る障子を開けた、妻と思われる女は不機嫌さを隠さずに旦那を見た。
「見てみろ、ほら!!」
そう言われて視線を移した女は、明依を見て目を見開いた。
「満月屋の!黎明大夫じゃないか!」
女は履物も履かずに降りてくると、圧に押されて一歩下がろうとする明依の肩をがっちりと掴んだ。
「あの抗争の日、お前さんが必死に主郭まで走っていくのを見たんだよ」
女はそう言うと、掴んでいる明依の肩を擦った。
「無事だとは聞いてたんだけどね……。あの規模だったろう。心配してたんだよ」
「あれ!無事だったのかい」
隣の店の女将が前掛けで手を拭きながら、明依の側に歩いてくる。
「もうこの人が心配してねェ。死んだって話が耳に届かないんだから無事なんだろってみーんなで言ってたんだけど、余りにも心配するもんだから、こっちまで気になっちまって」
「どいつもこいつもテキトーな噂流すんだから、信用なんかできやしないよ」
互いに突っぱねるような口調で言う女性二人だが、明らかな信頼関係が見えていた。
吉原の抗争が終わってから、こうやって声をかけられることが多くあった。
一度もあった事のない人達が気軽に声をかけてくれる。
明依は吉原で自分が恵まれているという事をひしひしと感じていた。
その分、吉原にいる限りはできるかぎりの事をしようと、慣れない事務作業でもあともう少しだけと踏ん張ることができていた。
明依は礼を言ってその場を去った。
吉原に来て5年以上が経ったが、今が一番、自分が恵まれた環境にいる事を感じているかもしれない。
「吉原の街が自由になったら、明依お姉ちゃんはお外に行くんでしょう?」
「……どうして?」
雪の問いかけは、さも当然と言った様子で。
だから明依は驚きながらも、雪の口調の中に日奈の面影を感じて、知らないふりをした。
「雛菊姐さんが言ってたから。〝解放〟されたら、明依お姉ちゃんにはこの街の事は全部忘れて、いろんな所を見てほしいって」
二人は側にいて見守ってくれているのだろうか。
『だからこんな地獄の檻の中じゃなくて、いつか吉原が変わった先で幸せになってほしいって思うのは、当然だろ』
旭はいつか、そう言った。
『今度は明依と二人でここでの事をいろいろ思い出したい』
『旭の分まで渋る明依を引っ張って、いろんなところに連れて行くの。怖いならずっと、私が明依の手を握っていてあげる』
旭はもういない。日奈も、もういない。
手を引いてくれる人はもういない。
だから自分の足で、歩き出さないといけない。
それがきっと、二人の望みなのだろう。
吉原の外側でたくさんの物を自分の目で見て、吉原の街での出来事を忘れて、悲惨だった街の事を自然と忘れて。
心の整理がついたころにこの街に戻ってきて、〝懐かしい〟という感情を感じる。
終夜は吉原の解放が終われば、もっと深いところにもぐる。
人前に姿を現すこともなく、この街に沈む。
それが本当の意味で、互いの人生から消える時。
「そうだね。もう少し先の話かな」
「もし吉原の外に出ても、たまには遊びに来てね」
吉原の制度は大きく変わろうとしている。
松ノ位がいなければ妓楼にいられない、という雪の様な特別な子の制度も変わる事だろう。
遠回りをして帰る最中に思い出したのは、雪にはじめてこの街を案内したときの事だった。
懐かしい気持ちになるのは、その出来事を自分の中で消化できているから。
いつか吉原の事も、日奈の事も、それから終夜の事も、その存在自体を消化することが出来るのだろうか。
〝懐かしい〟と心の底から思う日がいつか、来るのだろうか。