「……何?この距離」

 隣に腰を下ろした明依に、終夜は不服そうに言う。
 明依はそう言われて改めて終夜との間にあけた距離を確認してみたが、大した距離ではない。

 他人同士ならごく自然と取る距離だった。

「距離って?」
「肩貸してって言ったんだけど」

 何にもわかってないな、という感じで言う終夜に明依がムスッとしていると、終夜は微笑みを浮かべてから口を開いた。

「もっと近く」

 念を押すようにそういう終夜の様子が、まるでわがままを言う子どもの様に見えて。

 また心の中で、悲しい気持ちと嬉しい気持ちが同時に生まれる。
 そろそろこの感情に、名前が欲しい。
 そうすれば今より少しは、気持ちのやり場があるのに。

 明依は終夜と同じように壁に背を預けて、すり寄る様に身を寄せた。

 吉原の外。海で身を寄せて花火を見た時よりもずっと、近い距離。
 ピタリと身を寄せた明依の方へと、ずるずると壁に沿うようにして頭をずらした終夜は、明依の肩に頭を乗せて止まった。

 終夜との距離が近い。
 それが心臓の鼓動を速くして、身を固くした。

「……緊張してる」
「うるさいから」

 ぼそりと楽しそうに言う終夜に、明依は恥ずかしさを隠して強い口調で言った。
 しかし終夜はそれに対して何を言う事もなく、規則的な呼吸を繰り返している。

 右肩に感じる終夜の重さが心地よい。
 心地よすぎるから、泣きたくなる。

「しんど」

 ぼそりと呟いた終夜の言葉で、薙ぎ払ったように見える世界が変わる。

 心地よく浸っていた世界から引きずり出されたみたいに。

「旭と日奈は、俺が殺した」

 死ぬ前に罪を刻み付けようというのか。
 終夜は、はっきりとした口調で言う。

「でも、俺は正しい事をしたのかもしれないって思ってる。旭と日奈を、手にかけた事」

 覇気のない終夜の様子、規則的に聞こえる呼吸。
 死に向かう事は、精神的にもそれから身体的にもつらい事なのだろう。

 だから終夜は旭と日奈を殺した。
 じゃあ終夜は。

 そこまで考えて恐ろしくなった。

 もしも、この部屋の外の拷問道具の中から殺傷道具を取ってほしいと言われたら。
 もしも、それを使って俺を殺してくれと言われたら。

 絶対に、出来ない。
 終夜を手にかける事なんて、出来ない。

 黙り込んでいる明依を見て、終夜が喉元で笑って「わかりやす」と言った。

「自分だけ楽に死のうなんて、思ってないよ。俺は生きているうちに、この苦しみ以上の罪を犯したんだから」

 一体終夜はどんな気持ちで、旭と日奈を手にかけたのだろう。

 きっと終夜は旭と日奈に聞いたのだと思う。〝楽になる?〟と。
 二人はきっと、その言葉に同意した。

 もう死に向かうだけだと知っていても、今すぐに終わらせたいくらいに、辛かったから。
 終夜はいったい今、どれほどの苦しみを味わっているんだろう。

 終夜が日奈と旭に差し出した様な一見無慈悲に見える救いの一手さえ、差し出すことが出来ない。

 これは自分が弱いからか。
 それとも、先ほど言った様に終夜が慣れてたからなのか。

 どちらにしても、終夜が苦しんでいる所を黙って側で見ているだけ。
 終夜の死に際まで、何一つ二人の関係性は変わらない。

「ごめんね」

 ぼそりと呟いてから明依は目を閉じて、肩に乗っている終夜の頭に自分の頭を乗せる様に傾けた。

「……終夜、ごめん。ごめんなさい」

 私が吉原に来たせいで、私が流れに身を任せなかったせいで、私が選んであげられなかったせいで、今も無力なせいで。

 終夜を苦しめ続けている。

「いい女はこういう時、ごめんじゃなくてありがとうっていうんだよ」

 それならありがとうは、凄く残酷な言葉だ。
 苦しみも喜びも、いい事も悪い事も全部清算して、真っ白な状態に戻す、区切りの言葉に聞こえるから。

「いい女じゃなくていい」
「可愛くな」

 戯れる様に言う終夜の言葉に、飄々とした余裕はない。

 今まで終夜に、多くの事を望みすぎていたのだと思った。

 終夜と深く関わろうとするたびに、痛かった。
 日奈の顔を思い出して。

 許されない事だと、自分自身に強く言い聞かせていた。
 今となっては、それさえ些細な事に思う。

 例えば終夜が、日奈の事が好きなのだとしても。
 心の中に刻んで、一生涯忘れられないのだとしても。

 それで一向にかまわないと思った。

 生きてさえいてくれたら、それだけでいいのに。
 
「吉原を頼んだよ」

 もう間もなく、終夜とは二度と会えなくなってしまうのだろう。
 明依は唇を噛みしめてから、口を開いた。

「言ったでしょ。遊女は気まぐれなの」

 みっともなく泣きわめいてしまえれば、どれだけ楽か。

 これは戯れ。
 精一杯の強がりで包み隠した、〝いつも通り〟。

 意図して作った、いつも通りだ。

 終夜は発する言葉を知っていたのだろう。
 息を漏らす様に笑うと、口を開いた。

「じゃあ俺は心配性だから――」

 予想していなかった言葉に、明依は傾けていた頭の位置を元に戻して終夜を見た。
 終夜は懐に右手を突っ込んだ。

 終夜が取り出したものを見て、自分の目を疑う。

 視覚にだけすべての意識を向けていた。
 息を呑んでから、その先の呼吸を忘れるくらい。

 しかし意識のほんの少しを割いて、終夜がこれから紡ぐであろう言葉を待っていた。

「――明依に呪いをかけていく」

 終夜が手に持っているものは、まさに呪いだと思った。

 この世界で一番きれいで、一番残酷な、呪い。

 終夜が手に持っているのは、一本の簪。

 シンプルな簪だった。
 飾りは、白い水風船がデザインされた珠が一つだけ。

 日奈と旭の三人で珍しいと、綺麗だと言った、白い水風船。
 終夜と二人で夏祭りの吉原を歩いた日。終夜が何度も挑戦して取ってくれた、白い水風船。

 何度も見た。何度も触れた。
 何度も、何度も。飽きる事もなく、何度も。
 だからわかる。

 簪についた水風船は、夏祭りで終夜からもらった水風船と、全く同じ色柄をしていた。

「もうずっと前だけど、『白い水風船って綺麗だよな』って旭が言ったんだ」

 必死に妓楼の中や吉原の街を探しても見つからなかった。
 その白い水風船と同じ柄をした珠がついた簪が、終夜の手に握られたまま鈍い光を反射する。

「多分俺はその時、テキトーに返事をしたんだと思う。夏祭りの吉原を二人で歩いた時、明依が白い水風船を見ていて思い出した。そして確信した。旭はあの時、明依と日奈との思い出を見ていたんだって」

 水風船なんて、誰も盗むはずがないと思っていた。
 だから終夜が逃走用の足をつけていたのかなんて、非現実的なことを考えていたのだ。

 終夜は少し身を起こすと、簪を明依の頭に飾った。

 散っていた思い出をかき集めた白い水風船を、終夜が奪っていった。

 死に際に、一生涯身も心も縛る、綺麗な綺麗な呪いを送る為に。

「松ノ位昇格、おめでとう」

 時間が、止まればいいのに。

 全く違う角度から、同じ人を見ていた。
 記憶が重なるたびに、日奈と旭の知らない一面を知る。

 それはとても素敵な事だったはずなのに、今はとても悲しい。

「私がここに来ないとは思わなかったの?」

 心の内側の一切を隠す事だけに意識を向ける。
 言動を取り繕う余裕は、たった一つだってなかった。

「……本当だね」

 終夜は少し間を開けて、それから呆れたように呟く。
 再び肩に沈む終夜の重さを感じる。

「どうするつもりだったんだろうね。甘いな、俺も、まだまだ」

 自分が死に場所にと選んだ場所へ、絶対に来るという自信が終夜にはあったのだろうか。
 だとしたら終夜は、やっぱり凄く、傲慢な男だ。

 終夜の頭が肩からズルズルと滲むように滑って、明依はとっさに終夜を支えた。
 そして自分の膝の上に終夜の頭を下した。

 終夜は目を閉じたまま少し苦しそうな顔をしている。
 それから息を抜く様に吐いた終夜は、少し気を抜いた様子で笑った。

「でも、よくやった方だよ。……明依に吉原の外の世界を見せてあげてほしいって、二人に言われたんだ。吉原の外に出すことはできなかったけど、約束は守った。よく頑張ったよ、俺」

 頑張った、なんて言葉では到底足りないだろう。
 この吉原という街を、ここにいる子どもの将来を、終夜は守った。

「もう楽になっても、バチは当たらない」

 どうして終夜が死ななければいけないんだろう。
 吉原の子どもの事を、他人を一番に考えている終夜がどうして。
 どうして……私だけが、

「……いやだ」

 ぼそりとそう呟いた。
 堰を切った様に腹の底から、どろりとした感情が押し寄せてくる。
 とうとうそれは鼻の奥を痛ませて、涙となって溢れてきた。

「いかないで」

 今までずっと我慢していたのに。
 終夜が暮相に殺されると本気で思った時でさえ、耐え忍んで口にしなかった言葉だったのに。

「お願い……。私も一緒に、連れて行って」

 静まり返った、早朝の吉原の街。
 あんな風に、この狭い街の中にもまだ、知らない事は山ほどあるはずで。

 時間が流れる限り、変化しないものはなくて。
 だから楽しい事も、心が動くことも、たくさんある。
 
 だから何だと言うんだ。
 日奈と旭がいない世界なんて、〝宵〟がいない世界なんて、終夜がいない世界なんて。

 こんな地獄で、一人ぼっちにしないで。

 本気で、本心で。心の底から願っている。
 同時にそれが叶わない事だと、知っていた。

 この地獄で生きていかなければいけない。
 命にぶら下がった重みを、ただひしひしと感じながら。

「ごめんね」

 終夜はそういって、右手で明依の頬に触れた。

 時間なんて、止まってしまえばいい。

 残された人間の苦しみや痛みは、終夜が一番よく知っているはずだ。

 それなのに、こんな地獄に置き去りにしようとする。

 明依は頬に触れた終夜の手を包むように触れた。

「日奈と旭に伝えておいてあげるって言いたいところだけど、俺はきっと二人の所には行けないね」

 たくさんの人を殺した。
 きっと終夜は、どれだけこの世で罪を償っても、極楽浄土へはいけないだろう。

「……じゃあ私が、地獄に行く」

 明依がそう言うと、終夜は声を漏らして笑った。

「また、俺の周りを騒がしくする」

 終夜の手にどれだけ頬と手で触れても、一向に冷たいまま。
 中間温度に落ち着かないまま。

 それは死んだ旭に触れた時の感覚に似ていた。

「でも、楽しかった」

 幸せだと思った。

「私も、楽しかった」

 その幸せの全ては、まもなく裏返ってしまうのに。

「じゃあ、たまには思い出して」

 終夜はそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。

「ずっとここにいてよ。……終夜」
「うん」

 終夜は目を閉じて、ただ返事をする。

「終夜」
「聞こえてる」

 終夜の腕の重みを感じて、明依はそれを引き止めようととっさに腕に力を入れた。

「終夜」

 綺麗な顔で目を閉じている終夜の顔に、涙が落ちた。

「ねえ、返事してよ」

 こんな小さな声じゃ聞こえるわけがない。
 自分にさえ届かないくらい小さいんだから、終夜には聞こえないはずだ。
 きっと、そう。

 だけど、眠る様に目を閉じる終夜に、取り乱して声をかける気にはなれなかった。

「……終夜」
「そこに終夜を寝かせて」

 そう言われて明依は弾かれた様に顔を上げた。

 空と海が部屋の中に入ってくる。

 明依は言われた通りに終夜を地面に寝かせて、少し後ろに下がった。

 空は自分の持っているアタッシュケースを開けた。

『そっちのケースには何が入ってるの?』
『秘密』
『え~気になる』
『余程の事がないと使う事のないものが入ってる』

 以前、海の持っているアタッシュケースに鍵が入っているのを見た時に、空と話したことを思い出していた。

 空は自分の持っているアタッシュケースの中から注射器とビンを取り出す。それから手早く注射器に液体をうつしとっていった。

「空くん、それ……」
「双子の幽霊は万が一、相方が致命傷を負った場合に備えて、ある程度の医療知識を持ってる」
「終夜を、助けてくれるの……?」
「期待はするな」

 希望を含んだ明依の言い方に空ははっきりとそう言った。

「自信はない。終夜はこのまま死ぬ可能性が高い。だから未練が残らない様に、気を失うギリギリまであなたと話をさせた」

 海はそう言うと、終夜の袖をめくった。
 空は終夜がしていたみたいに、注射器を指で弾いている。

「終夜が俺達に、名前をくれた」

 空はぼそりと呟いた。
 その顔からは、何の感情も読み取れない。

「子どもには無限の可能性があるから、どこまでも広い空と海って名前にしようって。終夜が勝手に決めたんだ」

 海は終夜の腕を液体をしみこませたコットンで拭きながら、口を開いた。

「……嬉しかった。吉原の舞台裏の世界でしか存在しない、双子の幽霊としてじゃない。人として生きる権利があるって言われた気がしたから」

 満月屋の大座敷で主郭の重役たちが集まった時、終夜は双子の幽霊の名を呼んだ。
 どうして知っているのかと思ったが、本人が付けていたのなら、当然だ。

 終夜はきっと、この二人の事も助けたかったに違いない。

「あなたに聞かれて考えた。吉原が自由になったら何がしたいか」

 海はそう言うと、ゆっくりと息を吐いて、それからすっと飲み込んで顔を上げた。

「〝海〟として生きてみたい。双子の幽霊はやめて、今まで覚えた事を全部忘れて。たくさん本を読んで、知識で頭の中を埋めるの」

 希望を語る海の顔は、今まで通り平坦で。しかし、希望を見ている目をしていた。

「いい夢だね」
「あと、美味しいものも、お腹いっぱい食べたい」
「じゃあ、空くんは?」

 明依の問いかけに、空は終夜の腕に針を触れさせながら言った。

「ちょっとそこまで」

 空はそう言うと、終夜の腕に針を差し込んだ。
 その手は小刻みに震えている。

「……終夜の手を握ってやれ。それから、声をかけ続けろ」

 空にそう言われて、明依は横たわる終夜の腕を握った。

「終夜」

 反応がないことは知っていた。
 知っていたのに、また涙が溢れてくる。

「この世界にもきっと、まだ楽しい事はたくさんあるよ」

 吉原の外の街を、一緒に眺めた。
 バイクや車を運転する終夜を、花火を見る終夜を、吉原とは違った顔を見せる終夜を、よく覚えている。

「……お願いだから、戻ってきて」

 明依はそういって、終夜の手の甲を自分の頬に押し当てた。

「……終夜」

 どうしようもない感情が消化しきれないまま内側に残っている。

 どれだけ言葉を尽くしても、ほんの少しも消化されない。

 自分の無力さを呪いながら、終夜が救われることを祈った。