「おい、明依……!」

 時雨の声に反応する余裕もないまま、明依は走った。

 抱えている焦りは、旭が死んだときに主郭に向かって走った時に似ていた。
 同じ焦りを抱えたまま今度は主郭を出ようとしているなんて、一体どんな偶然なんだと思いながら、走る。

 頭領の居住区を抜けて、階段を降りる。

 そして、もう何度目になるかわからない後悔をしている。
 どうして人間というのはこうも学ばないのか。

 一人で終夜を探した時と全く同じことを思っていた。
 もし終夜だったら、無駄話や寄り道をしながらでもどんな道を通ってどの部屋を訪ねたのか覚えているはずだと。

 行き道をちゃんと覚えていれば、帰り道に急いでいたとしても焦る気持ちはなかったはずなのに。

 しかし、逸る気持ちがとぼとぼと歩くことも諦める事も許すはずはなくて。
 止まることなく走った。

 終夜がどこにいるのか見当はついていた。
 終夜がもし死に場所に選ぶとしたらきっとあそこだろうというのが、終夜の性格から理解できていた。

 本当にそうだろうか。
 あれだけ終夜に騙されて、操られてきたというのに。

 終夜に関する自分のその判断が、信用に値するものだと思っているのか。

 心の内側、一部がそうささやきかける。

 しかし、足を止める気は全くなかった。
 一秒でも早く終夜の下へと思う気持ちと、行き止まりになるたびに焦る気持ち。学ばない自分の苛立ちに、明らかに上がる息。

 〝終夜に会いたい〟という気持ちだけが、明依を奮い立たせていた。
 しかし、足が思うように進まない。

 そして同時に思う。
 こんな状況を、人は地獄というのではないかと。

 それでも明依は、足を止めなかった。

 終夜はきっと、あの場所にいる。
 もしいなかったなら、今まで終夜の何を見てきたのかと、自分の人を見る目すら今後信じられなくなると思えるくらい。

 確信というには葛藤にまみれた、明依の中ではほとんど事実に近い、たくさんの感情が絡んだ何か。

 どうして人間は、私は、こんなに学ばないのかと思いながら。
 一秒でも早く、終夜に会いたい。

 今までの一つでも何か抜けていたら、きっともう、足は止まっていたのだと思う。

 終夜は死に際に騒がれるなんて御免だろう。

 だからこれは完全に、自分のエゴだった。

 しかし、どうしようもなく、終夜に会いたい。迷惑だと直接言われても、終夜に会いたい。

 明依はやっとのことで主郭の外に出た。

 先ほども通った階段を、朱色の手すりに体重を預けて降りる。

 初めて会った終夜に、この階段を上って旭の所へと連れて行ってもらった。
 朱色の手すりが印象的で、圧倒的な存在感があった事をよく覚えている。

 先ほど終夜に人質にされたふりをして上がった時には何も感じなかったというのに、明依は息を整えながら降りて、あの日の感傷に浸っていながら、迫る現実を直視している、不思議な感覚に襲われていた。

 肺が焼ける様に痛い。
 痛みを感じる度に、今自分が生きている事を思い出し、それからこれまでが平和の中にいた事を確かめている。

 階段を降り切ると、明依は再び走った。

 夜は、深い。
 吉原の街はよりいっそ燃える色で夜を鮮やかに照らしていた。

 あの日に転がり落ちた階段を降り切って、主郭に沿って右側を走る。
 月の光もまともに入らない路地裏を走った。

 夢も、希望さえもかき消えてしまいそうな。そんな夜。
 吉原の夜が、不安をさらに重たいものにする。

 太陽が真上から吉原を照らしていれば。
 こんな夜の真ん中でなければ。
 夜が明けていれば。

 もう少しだけ、希望を持つことが出来たかもしれない。

 苔の生えている整備されていない石段を駆け上がる。
 苔で足元が滑る事なんて、気にもならなかった。

 古ぼけた潜り戸を、勢いに任せて両手で掴んだ。
 しかし、戸には鍵がかかっていて、力任せに動かしても開く気配はなかった。

 あふれる涙を袖口で拭う暇さえ惜しんで、このドアを壊す方法はないかと明依は必死に頭を働かせながら暗い辺りを見回した。

「開けてあげる」

 静寂を心地よい程すっと裂く声に、明依は息を呑んで振り返った。

「海ちゃん」

 そこには双子の幽霊、海と空がいた。
 空は扉を見ていて、海はもうすでにアタッシュケースを広げて潜り戸のカギを探していた。

「終夜はここに居るのか?」

 どこか重たくも聞こえる空の口調が、焦る明依の意識に触れた。

 本当に終夜はここに居るのだろうか。

 主郭から出る時に自分自身が問いかけた疑問が、ぐるぐると廻っていた。
 答えという答えはない。

 ただ、ここじゃないなら一体どこにいるというんだ、という確信に似たものはあった。

「うん。ここに居る」
「あった」

 明依がそう答えた途端、海がカギを潜り戸に差し込んだ。
 平然としている空。しかし海は、少し焦っているようにも見えた。
 海は潜り戸が閉まらないように開けると、早く行けと言うように明依に視線だけを寄越した。

「ありがとう」

 そう言いながら海の横を抜けて、階段を駆け降りた。

 豪華絢爛を煮詰めた様な妓楼や主郭の中とは大違い。
 コンクリートを打ったまま放置されたこの場所は、吉原という街から取り残された様な。
 肺に落ちる感覚が心地よく感じるくらい、冷たい空気。

 以前来た時と同じ開き戸は開いていて、そこからは光が漏れていた。

 拷問部屋の中を突っ切って、以前終夜がそうしたように、棚に手のひらを押し当てた。

 終夜がこの個人的な空間に自分を引き入れた事はきっと、偶然だったのだろう。
 〝誰かの〟気配を感じたから、万が一に備えて会話が聞こえない様にこの場所に誘導した。

 きっと誰にもあの個人的な空間をみせるつもりも、ましてや再び来客があろうことも、終夜は想像していなかったに違いない。

 片手で力を入れても、大して動きはしなかった。
 この先だ。
 終夜は必ず、この先にいる。

 明依は肩と逆の手ですべての体重をかけて棚を押した。

 終夜は随分と軽々、この棚を動かしていた様な気がする。

 あの日にはもう、終夜の計画は始まっていたのだ。
 そして、自分が死ぬ結末も予想していた。

 一人で全て抱え込んで。一人ぼっちで死のうとする。

 しかし明依は、終夜がいるであろう部屋の扉に触れていても、彼にかける言葉一つ見当たってはいなかった。

 俯いて力を入れ直した頃、やっと棚が後ずさるように後ろに動いた。

 人が一人通れるスペースを開けて手をはなし、棚の隣から部屋の中を覗いた。

「終夜……!」

 壁一面の本に出迎えられ、明依はあたりを見回す。
 しかしそこに、終夜はいない。

 そこでやっと頭は終夜がこの場所にいない可能性を考えさせた。
 自分の中でほかの自分が、そうだと思った。とすら言っている様な気がする。

「不法侵入なんですけど」

 すぐ後ろから聞こえた声に、明依は息を呑んだ。

「……終夜」

 掠れた声で彼の名を呼ぶと、途端に涙が溢れた。

 足音が遠ざかっていく。明依が振り返ると、終夜はちょうど壁に背を預けていた所だった。
 そのままゆっくりと、その場に腰を下ろす。

「よりによって、一番騒がしいヤツが来た」

 そう言いながら息を抜くと天井を見上げた。

「最後の最後まで、俺の邪魔をする」

 恨み言を吐き捨てる終夜だが、その口調には明らかな戯れが含まれていた。

 それを聞いた明依は数歩だけ、終夜の方へと足を進める。

「……助けを呼ぼう」
「夢見すぎ」

 明依の提案に、終夜は少し笑ってそう言った。
 もう諦めざるを得ない状態。

 もしかすると終夜は、行き付く先に別の希望を持っているのかもしれないと思った。

「初めて人を殺した時」

 息を呑む。まるで当然知っているだろうという様子で、話をするから。

「やっと自由になれると思った。それから、怖くなったんだ。俺に憎しみを抱いた目を、俺の顔を焼き付けて死んでいったあの目を思い出すと、怖くて堪らなかった」

 終夜はそう言うとゆっくりと息を吐いた。

「この街に来て俺は、人とは違う事を知った。施設ではみんなが、親から離れて泣いている。俺には理解できなかった。俺は一度だって……親が死んだことを悲しいと思ったことがない」

 終夜はただ現実を話して聞かせているだけ。
 いままでの終夜ならきっと、そうだった。
 しかし、今の終夜が言えば、それは悲しい響きを持っている様な気がした。

 きっとそれが、終夜の抱える最大の罪だ。
 親が目の前で殺されていても、涙一つ流せなかった。

 それが今も、まだふんぞり返る様に終夜の中に在る。

「今となってはもう、何一つ残っていない。……俺は多分、人を殺すことに慣れ過ぎた」

 気持ちのやり場が、どこにもなかった。
 吉原の外に出すために身体に傷をつけられて病院にいた時に話したことを、また思い出す。

『希望ねェ。……そんなモノ、初めて人を殺した時に見つけて、どっかで失くした』

 終夜はこの街の犠牲者ではなかった。
 〝子どもでいる事を許されなかった子ども〟ではない。

 〝子どもでいる事を許さなかった子ども〟だったのだろう。

 終夜はきっと、自分が許せない。
 子どものころから、いままで、ずっと。

 終夜はいったい今まで、どれだけ人に見えないところで自分を責めたのだろう。
 犯した罪は消えない。
 しかし、犯した罪に対して〝償い〟というものが本当にあるなら、もう充分、済んでいるはずだ。

 吉原の外に出て、戻ってきたとき。
 一緒に外の世界で生きてみるかと提案した終夜は言った。

 『明依が俺の為に全部捨てるなら、俺も今までの全部を捨てていいよ』

 あの時の終夜は、希望に向かって歩こうとしていたのだ。

 過去を清算するつもりだった。
 すべての過去を清算して、本当の意味で新しい人生を歩むつもりだった。

 場違いな感情。しかし、嬉しい。
 何もかもを包み隠す終夜が、共に生きる相手として自分を選んでくれたことが。

 それなのに、選んであげられなかった。
 相対する感情が手のひらから零れ落ちていく。

 あの時、吉原から出る事を選んでいれば、終夜は死なずに済んだだろう。

「……もう自分を、許してあげて」

 自分の罪深さが言葉程度では変わらない事は、誰よりも分かっていた。

「それが一番難しいって、知ってるくせに」

 だから、そう。
 終夜の言う通り。

「……隣に来て。肩、貸してよ」

 立ち尽くしているだけの明依に、終夜はそういう。
 明依は終夜の左側に少しスペースを開けて腰を下ろした。

「最期に少しだけ、話がしたい」

 どうして終夜は、希望を見ている様な口調で言うのだろう。