暮相は後ずさる様に後ろに下がり、壁に背を預けた。
 そしてずるずると引きずる音を立てて座り込む形で動きを止めた。

 平衡感覚さえなくなって、自分がちゃんと地に足をつけて立っているのかどうかわからない程だった。

 だからだろうか。
 自分の中にある感情すら、よく分からない。

 騒がしさの原因に気付いたのは、暮相が動きを止めた後、主郭の人間たちや吉原の遊女が集まってきた様子をこの目で見たから。

 それぞれが何を思っているのかすら、明依には考える余裕がなかった。

 廊下に集まっていた主郭の人間たちは、明らかな敵意を持って終夜の元へ今にも駆け出しそうな様子を見せた。

 しかし、それを一瞥もくれる事無く制す炎天の指示に、主郭の男たちは戸惑いながらも大人しくその場に立っていた。

 シンと静まり返った空間の中、終夜がゆっくりと息を吸った。

「旭がよく言ってたよ。酒を呑むと頭領はアンタの話しかしないって」

 暮相は明らかに自分に向けられた言葉に、表立って反応を示すことはなかった。
 そのかわりに、指先がごく短く動いた。

「頭領がアンタを吉原から追い出したのは、吉原解放を恐れたからでも、俺や旭が可愛かったからでもない。アンタの事が誰よりも大切だったから、普通の社会で、普通の幸せを感じさせてやりたかったから、裏社会に顔が知れる前に吉原から追い出した。それだけだ」

 終夜はじっと、感情の読めない表情で、暮相を見ている。

「頭領は先代・吉野大夫を手に入れられなかった訳じゃないよ。自分の側に縛り付けて置く方法なら、いくらでもあった。だけど頭領は、それをしなかった。代わりに、自分が仕立てた着物を着せて最後の花魁道中をさせた。あれは頭領から先代への祝福と決別。……本当に頭領の血を継いでるの?頭領は随分と潔い男だったけど」

 暮相は少し間を開けてから、含み笑いを浮かべる。
 そして今度は、少し眉間に皺を寄せた。

「本当お前、性格悪いな」
「誰に似たんだか。まだ生きてるなら、せいぜい今生の罪くらいは刻んでいけよ」

 そう言うと終夜は今度こそ明確に笑顔を浮かべた。

「造花街・吉原の大舞台で一人で踊った気分はどう?」
「最低だ。なんで最期に見る顔がお前なんだ」

 そう言うと暮相はゆっくりと目を閉じた。

 もうこと切れてしまったのだろうか。
 そう思った明依は、じっと彼を見ていた。

 彼が深く息を吸ったことで、腹部が大きく動いた。
 まだ生きている。

 そう認識してすぐ、なぜか、彼の側に行かなければいけない様な気がした。
 静まり返っている座敷の中で、自分の衣擦れの音だけを聞いていた。

 明依は壁に背を預ける暮相の元へ歩くと、髪に隠れてほとんど見えない顔を上から見下ろした。
 そして血が染める着物に視線をやりながら、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろす。

 すべてが終わった今、彼に一体どんな感情を抱くのだろう。

 最後の衣擦れの音がして動きを止めた後、暮相はゆっくりと片目を開けて明依を見た。

 血まみれの腹部に、穴の開いた心臓、潰れた目。
 人間はこんな状態になっても、まだ、死ねないのか。

 そんな事をまるで他人事のように明依は考えていた。

 暮相は明依を見ると、少し口角を上げた。

「聞くよ。〝私の人生を返して〟って話だろ」

 暮相の言葉にも雰囲気にも、覇気はなく。
 しかし、妙に凛とした態度で死を待っている気がした。

 不思議な気持ちだった。
 途方もない安堵の隣にある、叫び出して堪らなくなる様な気持ち。
 それが表に出る事をせき止めているのは、脳が瞬時に処理しきれないほどの感情という情報だった。

 目の前にいる人間は、宵のようでいて、宵ではない。
 二つの色が混じって分からなくなった様な。

 目の前の人生を狂わせた男に、目の前の一緒になろうとした男に、どんな言葉をかけるのが正解なのか。
 どんな言葉をかければ後悔しないのか、明依には見当も付かなかった。

 しかしなぜか心の奥底で言いたい言葉は決まっていて、それはきっと、誰に何を言われても覆ることはないという、確信。

 もしも命の恩人が、終夜が止めたとしても、この言葉をいう事はやめなかったと思う。

 そしてやっと、本当の意味で目の前の彼に手が届く様な気がする。だから明依はゆっくりと、体温が下がり続ける手に、自分の手を重ねた。

 彼の手にこの手を重ねるのは、これが最後。

「感謝しています、宵兄さん」

 その言葉に、目の前の彼が息を呑む。

 静まり返っている座敷の中に、ぽつりと自分の声だけが響いて消えた。
 水滴が一度だけ水の中に落ちた様に。

 耳に自分の声が届いた後で、緊張している肩の力を抜いた。

「私を拾ってくれて、ありがとう」

 自分の成長を、手に取る様に明確に実感していた。

 父と母が死んで、子ども嫌いな親戚夫婦に引き取られたから、吉原に来られた。
 吉原に来られたから日奈と旭に出会えて、命の大切さも時間の大切さも学んだ。
 二人に出会えたから、終夜に出会えた。
 終夜に出会えたから、言葉にしなくても大切に思う気持ちを知った。

 他の人生なら、人との繋がりを強く実感することも、自分で自分の人生の責任を取る勇気も、向上心も、自分自身のありのままの価値も、分かりはしなかっただろう。

 ありきたりな人生だとしたら、目的も目標も、何一つ見つけられないまま、ただ腐った様に人生の〝当たり前〟のレールに乗っていたかもしれない。
 それから外れて、一喜一憂していたのかもしれない。

 自分よりも凄い人たちを見て〝あの人はきっと特別なんだ〟と、何の行動もしないまま、諦めの一線を引いていたに違いない。

 たくさんの出来事が心に訴えかけて、苦しんで、もがいて。
 それでも前を向こうと思う気持ちは、乗り越えた経験は、これから先の人生の糧になる。

 普通の幸せではない。ある人から見ると、不幸なのかもしれない。

 それでも、この人生でよかった。
 誰に操られていたのだとしても、これが自分の人生。

 自分が人生を狂わせたと思う考えは、笑ってしまうくらい、傲慢なことだ。

 いつの間にか、こんな高い場所にいた。
 きっかけをくれた事に、心の底から、感謝を。

 恨みを抱えきれなかった暮相でも、未来を見据えて愛を誓った宵でも、どちらでも構わなかった。

 彼は震える喉元で息を吐き切り、それから明依が懐かしさを感じる表情で笑った。

「こちらこそありがとう、明依」

 何度も何度も、彼に名前を呼ばれた。
 今も頭の中で明確に思い出して、壊れたラジオのように再生できるくらいには。

 それなのに今聞いた〝明依〟という名前は、特別な気がして。
 生きている温かさを、確かに感じていた。

 もう間もなく、彼は死ぬだろう。

 しかし伝え損じたことに対する後悔は、ない。

 もしかすると大切な人を失う経験をしていなければ、この言葉は出なかったのかもしれない。

 ほら、やっぱり。

 この人生でよかった。

 暮相の身体が力をなくして、ゆっくりと横に傾いた。明依は彼の首の後ろに手を回して、なるべく優しく畳に横たわらせた。

 ズルズルと、ゆっくり畳を擦る音がする。

 明依が振り返ると、十六夜が地面を這うようにして暮相の元まで移動しようとしている所だった。
 十六夜の通った場所にはべっとりと血が付着している。

 明依は暮相をもう一度見てから、ゆっくりと手を離した。
 抵抗はない。

 彼の手を離すのは、これが最後。

 明依が手を離し切ると、彼の力のない指先が畳に触れた。

 明依は立ち上がりながらもう一度、十六夜を見た。
 両腕どころか、身体全体がまともに動くはずがない。
 それでも十六夜からは、一秒でも早く暮相の元へと急く気持ちが、痛々しいほどに伝わってきた。

 終夜が勝った。
 それはつまり、吉原に未来があるという事だ。

 誰が見ても明らかのはず。しかし誰一人、落胆も歓喜もない。

 終夜はゆっくりと、息を吐く。
 それは勝利への安堵にも見えるし、これからの一仕事への意気込みにも見えた。

 終夜は銃を捨てると、十六夜の元へと歩いた。

 誰もがそれを身を固くしてみていたのは明らかだった。
 終夜にとって十六夜は、友の敵であり、この街を狂わせた人間だから。

 しかし明依には、何となくこれから終夜がしようとしている事に見当がついていた。

 終夜は十六夜の首と膝の裏に腕を通して、軽々と抱き上げた。しかし、その瞬間に終夜の身体にある傷口から、明らかに加速して血が流れていた。

「……終夜さま」

 十六夜に呼ばれた自分の名前にも反応しないまま、感情の読めない表情で終夜は歩き出す。
 それから横たわる暮相の側で立ち止まると、ゆっくりと暮相の隣に十六夜を下ろした。

 隣同士で横たわる二人は、互いに血にまみれている。

「ありがとうございます、終夜さま」

 十六夜は小さな声でそう言うと、目に涙をためてやっとの事で暮相の方を向いた。

 誰が見ても、二人とももう手遅れ。

 しかし十六夜は止血をしようと、右の袖口を暮相の胸に置いた。
 その手に力は入っておらず、ただ着物が血を吸っていくだけ。
 それでも十六夜はなけなしの力をこめる事をやめなかった。

「この街に来て生きる希望を失くした私に、死ぬことを待つばかりの私に、生きろと言ったではありませんか、暮相さま」

 小さな声が、空気を震わせる。
 目に涙溜めた十六夜の言葉に、暮相はゆっくりと閉じていた目を開いた。

「暮相さまが死んだと聞かされた時、初めて涙を流しました。感情を思い出したんです」
「そんな男は、もういない」

 彼ははっきりとした口調でそう言う。声色に反して表情は、どこか悲しそうに見えた。

「叢雲もお前も巻き込んだ。……私利私欲に付き合わせた俺に、嫌味事の一つくらいはあるだろ、小夜」

 彼は宙を見たまま、嘲笑を浮かべている。

 それを聞いた十六夜は、少しだけ肩の力を抜いた様な気がした。

「では、どうか分不相応を承知の上で申し上げる事をお許しください」

 十六夜の言葉に、暮相は変わらない笑みを浮かべたまま短く返事をした。

「お慕いしておりました。暮相さま」

 宙を見ていた彼の瞳が、大きく揺れた。

「もし来世というものが本当にあるのなら、今生よりも厳しくていい。……また、あなたを一目見る事さえできるなら」

 目を閉じた十六夜を見て、きっと自分と同じ気持ちなのだろうと、明依は思った。
 伝え損じたことに対する後悔はもう、十六夜にはないだろう。

 暮相は、口を開いて、それから噤んだ。

 十六夜の手が暮相の胸から滑る様に、畳に落ちた。

「その女はもう間もなく死ぬよ」

 平坦な口調でそう言った終夜は、少し離れた所から暮相を見下ろしていた。

「最期くらいは言いたい事、言ったら。……暮相兄さん」

 暮相が目を見開いて終夜を見た。
 しかし当の終夜は、もう別の所を見ている。二人の視線が絡むことはなかっただろう。

 暮相は何かを堪える様に目を細めた後、隣で眠る様に目を閉じる十六夜を見た。

「……小夜」

 その声に、十六夜が薄っすら目を開ける。

「もし来世というものがあるなら、今度は俺と一緒に」

 そういって次の言葉を言い渋る暮相の言葉を知っているのか、十六夜はゆっくりと息を吐きながら、少し口角を上げた。

「生きてほしい。俺を想ってくれて、ありがとう」

 自分の胸に触れて血にまみれた夕霧の右手を、暮相がしっかりと握った。

「お供します」

 目を閉じた夕霧の目から涙が零れ落ちる。彼女は本当に嬉しそうな顔をして笑っている。

「来世と言わず、地獄の果てでも」

 静まり返った座敷の中、二人のゆっくりと息を吸って吐く間隔がだんだんと長くなっていく。
 それはやがて見計らった様に同じタイミングで、止まった。