「先ほどは気を抜きました。今度はしっかりします」

 つい先ほどまで晴朗の興味の中心は終夜だったのだ。
 それがこのタイミングで自分に移ったのは、暮相にとって誤算だったのかもしれない。

 晴朗の動きは、素人目で見ても先ほどの数倍早かった。
 暮相は間一髪のところで暮相の刀を受け止めながら目を見開く。それから笑った。

「まじかよ」

 晴朗の力に押し負けた暮相は、隣の座敷へ続く襖を背で抜く。しかしすぐに、地に足をつけた。
 二人は対等に戦っている。
 晴朗の存在をこれほど心強く思う日が来るとは思ってもみなかった。

 このまま晴朗が終わらせてくれれば、終夜は死なずに済む。

 そう思うとまた、明依の中の〝宵〟が息をする。

 苦しい。
 しかし、どちらにしても苦しい事はもうわかっていた。

 暮相は日奈と旭を殺して、終夜は叢雲を殺し、十六夜を殺そうとしている。
 互いに、互いの大切な人を殺めた。

 終夜と暮相が和解する未来はない。

 今の自分に必要なのは、嫌だ、嫌だと泣き喚くことではなくて。
 事の顛末をしっかりとこの目で見る事だと、明依はそう思っていた。

 視界の端で何かが動いた。
 視線を移すと、十六夜が終夜に向かって刀を振り上げている。

 言葉にも態度にも表すことが出来ないくらいの短い時間。
 ただ、心臓が一度だけ跳ねた。

 終夜は、十六夜の刀を大きく弾いた。
 そして十六夜の左腕を持ち、逆の手で肩口を押えると、骨の鳴る音がした。

 十六夜は数歩後ろに下がると、その場に膝をつく。
 もう彼女の両腕に、力は入っていなかった。

 十六夜は俯いたまま、ゆっくりを息を吐く。
 ただ、彼女は無表情で、何を考えているのか全く分からない。

「もう両腕は使えない。これでおしまい」

 一瞬の出来事に身動き一つとれないまま、明依は二人のやりとりを見ていた。

「勝てるって、本気で思ってた?」

 生きている事を確かめるみたいに息をゆっくりと吐きだした後、挑発的な顔でそういう終夜。しかし、やはり十六夜は表情を崩さない。

「そういう問題ではありませんから」
「じゃあ、どういう問題?」

 十六夜はすっと、息を吸い込んだ。

「あなたには、関係のない事です」

 それを聞いた終夜は少し間をあけてから、口角を上げる。

「やっぱ狂ってるよ。お前も」

 終夜は何の迷いも見せず、十六夜に刀を振るう。
 恐ろしいくらい、躊躇いなく。

 やはり終夜とは生きている世界が違うのだと、心の奥の部分が言う。

 それと並行したどこかで思い出していた。
 丹楓屋に行く途中に終夜に刀を向けられ、路地裏に十六夜を誘導しようとした時の事を。

 終夜は、この時を待っていたのかもしれない。

 十六夜の身体から、血がはじけるように噴き出す。何の抵抗も出来ないまま、十六夜の身体は前に傾き、その場に倒れる。
 暮相はちらりと視線を向けるが、何の感情も読み取れないまま、またすぐに晴朗に向き直った。

 終夜は息を吐くと、左肩に軽く触れる。
 こちらに向かって踏み出そうとした一歩がおぼつかずに、身を揺らした。

「終夜!」

 明依はそう言って駆け寄り、終夜の身体に触れるか触れないかの所で手を止めた。
 自分が何かできるわけではないという事は知っていた。
 さっさと先を歩く終夜の隣を歩いた。

「巻き込まれる。少し離れよう」
「終夜、治療しようよ」

 きっと今頃、みんなが梅雨の治療をしているはずだ。

 何の知識も持たない明依は、ケガをした終夜を刺激するわけにも行かず、手を彷徨わせていた。
 そしてきっと終夜にそんな気はないのだろうという事も、何となくわかっていたのだと思う。

「別にいい」

 終夜は座敷の隅で、懐から晴朗から受け取った入れ物を取り出した。
 先ほどと同様、小瓶から液体を吸い上げて、腕に刺す。

 液体がゆっくりと、消えていく。

「あと少し、もてばいいから」

 まるで、命の全てをこの場所で使い果たす気でいると言っている様じゃないか。

 明依は浮かぶ涙をこらえる為に唇を噛みしめた。
 
 その間にも終夜は、針を刺している方の手をグー、パーと広げて確認しながら、注射器が減っていく様子を眺めている。

 遊女の世界では、それなりの地位を築いた。
 遊女の地獄との付き合い方もわかっている。

 だけど、終夜の生きる世界では、何もできない。
 終夜が体内に入れている液体の名前や効果。それどころか、人間はどの程度の傷なら死なないのか。普通はどの程度の傷なら動いて大丈夫なのか。

 明依にはそんなことさえわからなかった。

 終夜は注射器を腕から抜くと、それを箱に戻してぽいっと放った。
 そして視線を上げて、口を開く。

「おーい、時雨~」

 この場に似つかわしくない、いつもの飄々とした終夜の声。
 晴朗が暮相に吹っ飛ばされて外れた襖の向こうから、時雨が顔を出した。

 振り返ってから何かを言っているあたり、おそらく皆そこにいるのだろう。

「こっちこっち」

 そういう終夜に、時雨はげんなりした顔をして晴朗と暮相の戦いに視線を向け、それからまた終夜に視線を移した。

「行けるわけねーだろ、死ぬわ」
「大丈夫大丈夫。はやく」

 何が大丈夫なのかわからない。きっと時雨もわからなかっただろう。

「ぐるっと回ってきなよ。そしたら巻き込まれないから」

 確かに頭領の居住区は広く、座敷が横にも縦にもいくつも重なっている。
 回れば被害にあうことなく事なきを得そうだが。

「怪我してるんだ。一刻を争うくらいの大怪我」

 そういうと時雨はげんなりした顔をして、歩いて姿を消した。
 しばらくすると終夜と明依の後ろの襖が開く。

「お前、俺の事都合よく使いすぎじゃね?」

 時雨は呆れた口調でそう言いながら、医療セットが入った箱を畳の上に置いた。

「散々見逃してやったろ。小春楼の楼主のじーさんの事も、何より、吉原の情報を売ってたことも」

 そう言うと時雨は言葉に詰まった。
 終夜はにっこりと笑顔を張り付けた。

「誰に断って商売してたのか知らないけど、他人のシマで金稼ごうってんだから誠意みせなよ」
「よりによって一番面倒なヤツに……」

 終夜が何を言っているのかさっぱりわからないが、時雨を言いくるめたらしい。

「治療しろよ」
「それは後」
「後って傷じゃねーだろ、死ぬぞ」
「明依を頼みたい」

 終夜は時雨の言葉にかぶせて言う。はっきりと意志を持った口調だった。

 明依は息を呑んで、終夜を見た。
 こんな状況だというのに、終夜の表情はまるで明るい未来が見えているみたいに柔らかい。

「芸事の師範の所、覚えてるだろ。合言葉がなくても通すように言ってある。とりあえずは、吉原の外に逃げて」
「お前……」

 時雨は、本気か、と言いたげに目を見開いて驚いた様子を見せている。
 明依も当然、急な終夜の提案に言葉にならなかった。

「絶対に勝てるとは言い切れない」

 終夜は時雨の目を見て、はっきりという。

 不安が胸の内に満ちていく。
 晴朗が今、暮相と対等に戦っている。
 もしかすると勝てるかもしれないじゃないか。
 どうしてそんなに弱気なんだ。
 いつもの終夜らしくない。
 負ける未来が見えないとか、いつもの終夜なら、そんな言葉を言うはずなのに。
 自分だけ死ぬ未来なんて想像も出来ないと言っていたじゃないか。

 しかし胸の内側にある気持ちは、何一つ言葉にすることが出来なかった。

「何言ってるの……?」

 やっとのことで喉元を通過した声はかすれて、小さくぽつりと響いた。

「帰ってくるなとは言ってないよ。吉原にいたいなら、この抗争が収まるところに収まってから、帰ってきたらいい」

 明依は唖然と、絶望感に包まれたまま、終夜を見ていた。

「アイツは明依を使って、吉原での地位を絶対的なものにしようとしている。もし晴朗も俺もあの男に負けたら、必ず挽回する。明依を使って。絶対にあの男に染まらないって、言い切れないはずだよ」

 終夜は明依の目をしっかりと見ながら、まるで心の底でも見透かしているかのように言い切る。

「だけど、」
「明依の為じゃない。吉原の未来の為だ」

 明依は気付いていた。
 言葉を遮って言う終夜が、自分がこの場所にいる可能性を最大限下げる為に、言葉を選んでいる事に。

 〝吉原の未来の為〟

 死んだ日奈と旭の愛した吉原の街。
 たくさんの子どもを背負った、吉原の街。

 皮肉にも今、終夜と同じ未来を見ている。

「わかって、明依。明依があの男に捕まった瞬間、俺は生きていようが死んでいようが〝詰み〟なんだ。何のためにここまでしてきたのか、わかりゃしない」

 終夜はそう言うと、柔らかい雰囲気で笑う。
 そして、明依の頬を撫でた。

「ごめんね」

 たった一言が、涙腺に触れる。
 謝ってほしいなんて、これっぽっちも思っていない。

 きっともう二度と、終夜には会えない。
 そんな予感がした。
 そしてきっとこの予感は、当たる。

 明依は飛びつくように、終夜に抱き着いた。
 終夜はそのまましばらく身を任せていたが、少しして明依の背に腕を回した。

「私、行かないから」

 終夜は腕の動きを止めた。

「……は?」

 そして、終夜らしくない間抜けな声を出す。

 終夜は別れの抱擁と思ったに違いない。しかし明依にこの場を動くつもりはなかった。

「絶対ここから離れないから」

 明依は引き離されない様にと終夜の着物を強く強く掴んだ。
 何か思う所があるのか、終夜は何も言わない。

「終夜が死んだら私、あの人と一緒になってやるから……!!」
「あ?」

 今度はすぐに威圧感のある声で一言を放った終夜は、明依を引き離そうと肩をがっちりと掴む。
 時雨は「おい、明依、その辺にしとけよ……」と終夜の様子を見ながら言った。

「一緒にいたいの!!」

 必死に、今ある精一杯の言葉を口にする。
 すると終夜は肩を掴んでいた力を少し緩めた。

「お願いだから、もう突き放さないで」

 もしかすると、ただの我儘に聞こえたかもしれない。

 しかし明依は、この場から自分がいなくなれば終夜は死ぬと直感していた。
 論理的に説明しろと言われても出来ない。しかし、絶対にそうだという自信が明依にはあった。

「私の事、守ってくれるって言ったじゃない」

 自分でも悲痛な音に思う程、小さく掠れた声。
 明依は終夜を強く強く抱きしめた。

 しばらくしてから、終夜は少し顔を上げた。

「……どうしたらいい?」

 時雨にそう問いかける終夜の口調からは、彼が何を考えているのか読み取ることが出来ない。

「女が離れたくないって泣いてるときくらい、甘やかしてやれよ」

 時雨がそう言った後も、終夜はしばらく動かなかった。
 それからゆっくりと明依の背に腕を伸ばす。そして包み込むように抱きしめた後で、動きを止めた。

 心底安堵する。終夜と離れなくてよかったことに。

「でもここは危ない、明依。お前もこっちにこい」

 時雨の言葉を聞き終わった後、終夜は明依から身体を離して、しっかりと目を見た。

「時雨と一緒に行って」

 これ以上はわがままになる。そう判断した明依は、こくりと頷いて立ち上がった。

「死ねないな、終夜」
「うるさい」

 茶化すように言う時雨に、終夜はうっとおしそうに答えた。

「晴朗!!」

 二人が会話を終えてすぐに聞こえた夕霧の叫び声に、三人は視線を移した。

 あと一歩踏み込めば、バランスを崩した暮相に晴朗の刀が入るという所だった。

 終夜が足を踏み出す。
 明依は時雨に腕を引かれて、訳が分からないまま走っていた。

 終夜が二歩目を踏みしめるより前に、十六夜は腹ばいのまま、血まみれの右手で刀を振り上げる。

 晴朗の両足首の後ろに、傷が入った。

 ほんの少し表情を変えた後、振り向いて十六夜の姿を確認する晴朗。
 その時にはもう、彼はいたって冷静な表情をしていた。

 そして晴朗の首から胸にかけて、真っ赤な鮮血が噴き出す。

 目を逸らす暇すらないまま、晴朗はその場に倒れ込み、十六夜は力を失くして横たわっていた。
 暮相は晴朗を切った刀を振るった。血が短く飛び散り、畳にシミを作る。

「〝恋は身を滅ぼす〟を体現しないといいな、終夜」

 暮相は死んでいても何もおかしくない程に血まみれの十六夜と晴朗を股越して、終夜の方へと歩いた。

「決着をつけようか」

 そして余裕じみた顔で笑っている。