高尾は一歩一歩と確かめる様に水音を響かせて、梅雨の元へ向かう。
 そして歩みを止めると、着物が濡れる事も気にせずに梅雨すぐそばに腰を下ろした。

「一人で歩いたら、危ないですよ」

 梅雨はゆっくりと目を開けて宙を見ながら、呟く。

「お前の着物は、よく目立つ」

 高尾はいつもの口調で言う。
 しかし表情は、悲しんでいる様な、慈しんでいるような。

「転んだらどうするんですか」

 梅雨はそう呟くと、ほんの少し寂しそうに目を細めた。

「お前がいる」
「今の俺は、あなたを守る事さえできそうにない」

 どこか怒りを含んだ口調の梅雨。
 それが自分自身に対する怒りだという事は、手に取る様に理解できた。

 高尾は梅雨の方と手を伸ばす。躊躇いなく、血の付いた梅雨の手に触れようとして。
 しかし梅雨は、逆の手でそれを遮った。

「あなたにお仕え出来て、俺は本当に幸せでした。高尾大夫」

 梅雨はぼんやりと宙を見たまま口を開いたが、言葉を紡ぎ終わると、満足気な柔らかい表情を浮かべた

「役目は果たしました。どうかこのまま、死なせてください」

 そう言うと梅雨はまた、ゆっくりと目を閉じる。

「お前も、私をおいて行くのか?」

 凛と、しかし寂しくぽつりと響く高尾の声。

 梅雨は効果音でもつくのではないかという程一瞬でばっちり目を開いた。

 遠くから見ていた明依が目を疑う程、一瞬の出来事だ。

 梅雨は葛藤しているのか。
 瞬きもせずにじっと宙を見つめている。

 明依は傍目から事の顛末を見守っていた。

 やがて梅雨は、溜息をつきながら息を吐き捨てた。

「……助けてください」

 苦渋の決断だったのか。絞り出すようにそういう梅雨に、高尾は笑顔を浮かべた。

「ああ、必ず助ける」

 高尾はそういって、血や水にぬれる事なんて構いもせず、梅雨の上半身を起こした。

「立てるか?梅雨」

 駆け寄った時雨が高尾に代わって梅雨の身体を支えながら問いかける。
 その後ろでは清澄が足を止めた。

 二人に支えられて梅雨が身を起こす様子を、高尾は少し離れて眺めていた。

「命拾いしたな、終夜。だけどそれもつかの間の休息ってやつだ」

 暮相は晴朗と戦っても息一つ乱れていない。
 晴朗は無事なのだろうか。

「ねえ、明依」

 〝宵〟は、いつも通りの口調でそう言いながら、明依のいる方へと歩く。

「終夜が死ぬのは嫌だろ」

 きっとそんな言葉を、〝宵〟は言わない。
 〝一緒にどうにかしよう〟とか、そんな言葉を言うはずだ。

 きっと暮相は明依の心の葛藤も、今の言葉でどう考えているのかもわかっている。
 ではどうしてそんな言葉をかけるのか。

 まだ、染め直すことが出来るからだ。
 言いくるめられると思っているから。

 その自信は一体どこからくるのか。

 もう惑わされないと強く思うのに、暮相を正面から見ていると、やはり〝宵〟で。

 この男ができると言うのだから、と余計な考えが頭を掠める。
 明依はそれを振り払うように努めた。

 どちらにしても、捕まってしまえば勝ち目はない。明依は暮相から距離を取る様に後ずさった。

 銃の音に思わず目を閉じた。
 終夜が放った銃弾が、暮相の足元をかすめた。
 歩みを止めて舌打ちをしながら、数歩後ろに下がる暮相をよそに、終夜は明依の腕を掴むと出入り口の方へと引っ張る様にして走った。

「走って」

 言われなくても、もう走ってる。そう思いながらも、明依は意識して足を動かした。

 終夜が側にいるだけで、どうしてこんなに安心するんだろう。

「……みんなは?」
「十六夜は暮相と一緒にこっちに来るよ。俺を殺すことが目的なんだから。それに、松ノ位は吉原にとって必要不可欠だ。殺されたりしないから、大丈夫」

 その終夜の言葉で、明依は心底安堵した。
 しかし二人がこちらに来るという事は、終夜の命が狙われるという事だ。

「とにかく、晴朗と合流する」
「晴朗さん、大丈夫なの……?」
「多分ね」

 あっさりとそういう終夜は、いつも通り。
 ただ、血まみれの左腕が酷く痛々しかった。

 終夜に生きていてほしい。
 そう考えるとまた、〝宵〟という本当は存在しなかった、大切な人が頭の中で息をした。

「俺達、いつもこうやって走ってるね」

 思考が無理やり閉ざされて、明依は俯いていた顔を上げた。
 終夜が含み笑いを浮かべる。

「もしさ、俺と明依が小さい頃に出会っていたら」

 現実主義者で非合理を嫌う終夜からそんな言葉を聞くとは思っていなかった明依は、しっかりと自分の意思を持って、終夜の話に耳を傾けてた。

 一体終夜は、何の話をするのだろうと思いながら。

「やってみたいことはたくさんあるのに怖がって何もできない明依を、俺が興味のある事になんだかんだ言いくるめて誘って、大人がダメだって言うことをやらかして、こうやって逃げてたのかなって思うんだよね」

 その言葉に明依は目を見開いた。

 非合理を嫌う終夜だ。
 考えても仕方のない事を終夜は言わない。

「笑えるくらい、馬鹿馬鹿しいけど」

 だからこれは本当に、ただの他愛ない話。
 終夜が命を狙われている状況じゃなければ、喜んでいたのかもしれないと思うくらい、普通の、会話。

 こんな状況で一体何を。そう思うのに満たされている感覚に、明依は今、自分が欲しいものを明確に自覚していた。

 唇を噛みしめる。
 気を抜けば今にもまた、泣いてしまいそうだから。

「本当、馬鹿みたいだね」 

 終夜と、他愛ない話がしたかった。
 旭と日奈と当たり前にしていたみたいな、他愛のない話。

 二人と過ごした時間が、どれだけ奇跡的な時間だったのか。
 そしてこれから、終夜と他愛ない話ができる事がどれだけの奇跡的な時間なのか。

 今度こそ、よく分かる気がした。

 以前、もし幼少期に終夜と出会っていたなら、罪を擦り付けられていたに違いないと考えた。
 しかし、終夜にそう言われれば、終夜の誘いに好奇心を抑えられずに、自ら進んで楽しんだのかもしれない。

「でも、もしそうだったら、私はきっと。終夜に振り回されてばかりだよ」

 どれだけ幸せだっただろう。
 思い返せば終夜はいつもそうだ。
 年が幼くても、その関係性は何も変わらなかっただろう。

 終夜はいつも、好奇心をくすぐる。
 なんでも楽しもうとするところは、先代・吉野大夫、母からの贈り物なのかもしれない。

 幻想世界から一歩外に出ると、そこはいつも通りの〝現実世界〟だった。
 日常の内側。
 妓楼の中と似た作りが、そんな気持ちにさせたのかもしれない。

 視界の端、廊下に勝山と炎天の姿を見つけたが、終夜は見向きもせずまっすぐに、障子が外れた座敷の中を進む。

 勝山と炎天たちの姿は一瞬で見えなくなった。

 ぽつりと寂しさと、不安。
 この抗争はどんな形で終わるのだろう。
 終わったら次は、どこに収まるのだろう。

「この抗争が終わったら、また私に知らない事を教えて」

 明依の発した言葉に終夜は返事をしない。
 その理由はもう、何となくわかっていた。

 終夜は明依の手を引いたまま最奥の間、暖色の漏れる障子窓が並ぶ部屋で動きを止めた。

「片目がつぶれているのが残念ですね」

 その声に明依は息を呑んだ。
 重なって倒れている襖からガサゴソと音がしたかと思えば、何事もなかったかのように晴朗が顔を出したから。

「晴朗さん」
「ああ……誰でしたか。……そうだ、満月楼の。いたんですか」

 ついさっきもすぐそばにいたはずだが。
 とうとう名前どころか顔の認識すら危うくなったらしい。

「随分と深い怪我をしていますね、終夜」

 晴朗は終夜の傷に目をやった後、大して興味も無さそうに身体の埃を払いながら言った。

「どうぞお大事に。……と言いたいところですが、女の方を片付けてからにしてください。ちょろちょろと邪魔をされたくない」

 そう言うと晴朗は、懐からシンプルに装飾された箱を取り出して終夜に手渡した。
 終夜は箱を受け取った後、片手で蓋を開ける。そこには注射器と小瓶が入っていた。

「過剰な自信は命取りになるよ」

 注射器から晴朗へと視線を移した終夜はあっさりとしている様でいて、厳しさを混ぜた口調で言う。

「それはそれでいいです」

 しかし晴朗はどこか浮かれた口調で、当然、と言った態度で返事をした。

「短絡的なんだよ」

 終夜は呆れたように呟いた。
 終夜がまともに見える、という珍しい現象に立ち会っているこの状況で、終夜はもしかすると結構当たり前の人間の感性を持っているのではと一瞬思ったが、今までの経験の全てがそれに一瞬で、いやそんな訳あるか、という。

「この期におよんで喧嘩売るんだ?明依。アイツに差し出すよ?」

 そしてやはり終夜は、それを目ざとく察知する。
 センサ―でもついているのか考えている明依をよそに、晴朗は首元のボタンを片手で外した。

「よく知りませんが、それぞれに理由があって彼女を取られた方が負けなんでしょう」

 そういう晴朗の口調は、本当にかけらも興味が無さそうな様子だった。

「女を殺した後は、二人で逃げるなりなんなり、勝手にどうぞ」

 ボタンが外れてめくれた服の内側、首元から見える範囲のほとんどが、痛々しい古傷で埋まっている。
 それから晴朗は、手袋を取った。

「ところで、誰があの目を?」
「俺」

 手袋を放り投げた手にも、首同様たくさんの古傷がある。

 大きいものから小さいものまで。
 晴朗がこの傷を隠すために書生の様な恰好をして、顔以外の皮膚を隠していたのだと悟った。

 含み笑いをした晴朗は、眼鏡をはずした。

「……さてと。終夜、僕は〝普通〟に見えていました?」
「全然」

 終夜はたった一言で答える。

 確かにこの傷では、普通に生活をすることは難しいだろう。
 それどころか、この裏社会の真ん中。吉原の中でさえ、晴朗は異常に見えた。

 晴朗は眼鏡を手放す。重力に従って落ちたそれを、何のためらいもなく足で踏みつけた。

 視線でそれを追った後、何の気なしに晴朗の顔を見た。

 いつも通りの表情のはずなのに、雰囲気がいつもよりずっと冷たい。

 しかし、浮かべている笑みはいつも通りな気がした。
 だからもしかすると、自分の中の印象が変わっただけなのかもしれない。

 眼鏡をかけていた時は、狂っていると分かっていても何となく優しそうな、害が無さそうな印象を持っていた。

 見た目の印象でこれほど変わるのかと、明依は衝撃を受けていた。
 晴朗は天井を眺めてゆっくりと息を吐いた。

「嬉しいですね。いつぶりでしょう。こんな気持ちになるのは」

 しみじみと何かを感じているみたいに晴朗は言って、視線を明依と終夜の背後にやった。

「やっとまた戦場に、戻ってこられた」

 晴朗に向けた視線を明依と終夜が辿ると、そこには追い付いてきた暮相と十六夜がいた。

「まーだ生きてたのか」

 暮相は分かっていたのか、大して驚いていない様子で言う。

「調べておくべきだったな、お前の事も」
「そんな大層な者ではありませんよ」

 そういう暮相に晴朗はやはりいつも通りの穏やかな口調で言う。

「晴朗は海外で暗殺を生業にしながら、地下闘技場で戦ってた男だよ。海外の裏社会ではバカみたいな懸賞金がかけられている」

 〝地下闘技場〟なんて、聞き覚えのない場所だ。

 しかし言葉だけで、きっと違法で血生臭くて目を覆いたくなるような光景が広がっているのだろうという事は、想像に難くなかった。

「出場するとレートが狂うからって嫌われて、命を狙われ始めたからしぶしぶ日本に戻ってきたんだろ」
「いい趣味だったのに」

 やはり晴朗は、さも当然と言った様子で答える。
 晴朗はきっと、裏社会でさえも〝異端〟なのだろう。

「狂ってるよね」

 自分ことを棚に上げて、同意を求めるようにそういう終夜。
 どっちもどっちで狂ってるよ、という言葉はさすがに飲み込んだ。

「つまりですね、暮相サマ。不本意ですが、必然的に僕を殺さなければ終夜にはたどり着かないという事になります」

 晴朗はそう言うと落ちていた刀を拾い上げて、暮相に微笑みかけた。

「という事で戦いましょう。どちらかが死ぬまで」
「……お前の気持ちがよーくわかるよ、終夜」

 暮相は呆れた口調でそう言った。