「暮相さま!!!」

 側に駆け寄ろうとする十六夜の動きは、終夜によって遮られた。

 一瞬また、明依の胸の中の〝宵〟が目を覚ます。
 顔の半分を血に染めた〝宵〟を見て叫び出しそうになる口元を抑えた。
 目を閉じると、じんわりと涙が滲む。

 大切だった人だ。一緒になるのだと思っていた。
 どうしてこんな事に。

 この結末が、運命だったのだろうか。
 終夜と〝宵〟の顔を見て、今更考えても仕方のない事をまた、懲りずに考えていた。

「男っていうのは厄介だな。女を前にした時、同性よりも反応が数秒遅れるらしい」

 聞きなれない声で、梅雨が言う。

 確かに梅雨は中性的ではあるが、遊女の着物を着て妓楼にいるのだから女と信じて疑わなかった。
 身長も男性にしては低く、線も細い。

「やっと報われた」

 口を開けば、梅雨は明らかに男性だった。
 三浦屋から送ってもらう時、梅雨は喋れないと言った。
 てっきり口がきけないものだと思っていたが、自分を女だと思わせておくための手段だったのか。

 しかし、吉野と時雨、それから側においていた高尾は、梅雨が男性である事実を知っている様子でいた。

「よくできてるだろ。頼めば酌くらいしてくれるんじゃない?」
「誰がするか」

 終夜の言葉に、梅雨は嫌そうな顔をして平坦な口調で返事をする。

「高尾大夫の側においておけば、誰も怪しまないって思ったんだ。大正解だった。ありがとね、梅雨」

 凛とした一輪花の様な女の子だとばかり思っていた。
 〝自分の中の梅雨〟と〝実際の梅雨〟が紐付かず未だに戸惑っている明依をよそに、終夜は暮相に挑発的な笑みを向ける。

「徹底的に仕込んだ。女に弱いお前に、俺からのプレゼントだ」
「……本当お前、姑息だな」

 終夜は確かに、暮相の訓え〝使えるものは何でも使え〟を体現していた。

「黙ってりゃ、相当いい女なのにな」

 暮相の口調には、残念と書いてある。
 眼球を潰されたというのに、怒りや焦りの感情は、暮相には生まれて来ないらしい。

「でも、恨みのない人間の眼球をあっさり潰せる度胸は、終夜にも劣らないな」
「恨みのない人間……?」

 暮相の言葉を聞いて梅雨はぼそりと呟くと、それはそれは冷めた表情で暮相を見た。
 まるで、内側で(うごめ)く汚い感情に無理矢理蓋をしたみたいに。

「お前。自分がどれだけ高尾大夫を傷付けたか、分かってるか?」

 その言葉を聞いた暮相は、片目を見開いて、それから笑顔を作った。

「あー、なるほど」

 今度は梅雨から終夜に視線を移す。

「お前ら、気が合いそうだな」

 梅雨は心底不服と言った様子を見せた。

「こんなイカれ野郎と一緒にするな」
「なんで?いいじゃん。仲良くしよ」
「いやだ」

 張り付けた笑顔の終夜と、あっさりと答える梅雨。

 梅雨の行動の節々が、やはり今まで知っていた梅雨と一致する。
 改めて同一人物なのだと思い知らされていた。

「いつかお前が言ったみたいに、腹を割って話をしようか。終夜」

 暮相はそう言うと、片目で終夜を見た。

「何がそんなに気に入らない?どうして俺に構うんだ?こんなクソみたいな街に、人生を賭ける価値があると思っているからか?」

 暮相の言葉に考えるそぶりを見せた終夜だったが、すぐに何言ってんだ、コイツ。とでも言いたげに顔をしかめた。

「ボケたの?」
「ボケてねーよ」
「お前は旭と日奈を殺したんだよ」
「それだけが理由なら、合わないだろ。……朔も、叢雲も、十六夜も、俺も。みんな殺せばよかっただけだ。そうじゃない。裏の頭領を守ろうとした気持ちは分かるよ。だけどお前は面倒な事になってまで、俺から明依を守ろうとした。とんでもなく非合理的だ。頭領の逃がした娘であっても、だ。お前は絶対、何の理由もなくそんなことはしない。他の松ノ位には取り付く島がない。俺は明依がいないと、この立場にはいなかったんだから」

 確かに、どうして終夜が自分を守ろうしてくれたのか。根本的な原因は今もわからない。
 それは明依の中に、ずっとある疑問だった。

 頭領の事があるとしても、自分の存在は暮相に有利になる。終夜にとっても邪魔者だったはずだ。
 だからこそ、身体に傷までつけて、吉原の外に出そうとした。

「どうして明依を殺さなかった?個人的な感情か?お前の性格を考えると、それは大して重要じゃないはすだ。他に何かあるだろ?」

 じゃあ一体、どんな理由があるというのだろう。
 暮相の言葉は正解なのか、終夜は黙って耳を傾けていた。

「それに、国に吉原が渡ること嫌がってる。でも、おかしな話じゃないか?吉原の街や頭領の座に興味のないお前には、関係ない話だ。誰がどう、吉原を統べるなんて事はさ。国に吉原を渡すっていっても、今まで通り何も変わらない」
「だから嫌なんだ。想像力の働かないボンボンのバカは」

 終夜の口調は吐き捨てる様で、冷たい。

「何も変わらないのは、俺やお前みたいに上に立っている人間だけだ。……国を動かす人間なんて、みんな生まれた時から何でも持っているヤツばかりだ。そんな環境で育った人間は、自分が持っている手札がアタリだという事にも気づかない。飢える苦しみも、差別も、大好きな親に蔑ろにされる悲しみも、何も知らない」

 自分の口調が熱を持っていることに気付いたのか、終夜はゆっくりと息を吐いた。

「……そんな奴らに、自分が恵まれている事にも気づかない人間に、恵まれない人間の気持ちが分かるはずがない」
「それが、お前が吉原を解放する理由か?」
「俺はもともと吉原の解放には反対なんだ。リスクが高すぎる。でも、お前にとられるくらいなら吉原解放の方がマシだね」

 終夜はいたっていつも通り、飄々とした態度で答える。

「山ほど人を殺して、友と呼んだ旭と日奈を手にかけた、お前なりの懺悔か?」
「後悔はしてないよ」
「そんな(ツラ)で、よく『後悔はしてない』なんて言えたな」
「後悔はしない。この街で育つ子どもの将来は、自分の手の届く限りは守ってやりたい。だからお前みたいな人間に、吉原は渡さない」
「もうお前の手は届かないぞ」
「意見の相違みたいだね。もう、さっさと終わりにしよう。俺もお前も、答えは変わらないんだから。世間知らずのボンボンに任せるくらいなら、吉原を解放する方がまだ現実的だ」
「ああ、終わりにしよう」

 暮相は一瞬で距離を詰めて、終夜に刀を振るう。
 分かっていたみたいに、焦りもせず、終夜は降ってきた刀を止める。そして至近距離で睨み合っている。

 それが明依には、堪らなく切ない事に思えて仕方がない。

「俺の苦しみなんて、お前には想像も出来ないだろ、終夜」
「誰とでもわかりあえると思っている所が、傲慢なんだよ」

 暮相は先ほどの余裕めいた態度を消して、無表情で終夜を見下ろしている。

 梅雨が終夜の方に一歩を踏み出したが、びくりと身体を動かして肩に手を添えた。
 気が逸れた梅雨に、十六夜が刀を振るう。

「あなたの目からも、光を奪ってやりたい」
「ああ、わかるよ。その気持ちは」

 十六夜の感情を込めた言葉に、梅雨は刀で刀を止めながら平坦な口調で答えた。

 二人は同じ様に身体に傷がある。
 しかし十六夜は痛み止めでも打ったのか、軽やかな動きをしている。
 傷の痛みに耐えている梅雨が不利であることはすぐに分かった。

 しかし今の終夜は暮相の相手をするのに手いっぱいで、梅雨に気を配る余裕は無い。

 痛みに一瞬気をやった梅雨が、足元をすくわれて薄く張った水に背をつけた。
 固まらない血が、ゆっくりと水に溶ける。

 振ってくる十六夜の刀をギリギリの所で振り払った梅雨は、起き上がって十六夜と距離を取る。
 しかし十六夜はすぐに梅雨との距離を詰めた。血が溶けた肩と水を吸った着物が、先ほどよりも血の流れを早くしていた。

 刀を振りかぶった十六夜に、梅雨が応戦しようと刀を動かした。しかし十六夜はすぐ刀を手放す。動きを止められなかった梅雨は、持ち主を失って宙に浮いた刀を弾いただけ。

 身を屈める十六夜を見て自分の状況を察したのか、梅雨はひとつ舌打ちをした。
 それからすぐ、十六夜の肘が梅雨の腹に沈む。
 
「梅雨ちゃん!!!」

 明依の声に終夜が振り返った。

「よそ見してると死ぬぞ」

 終夜が気をやったのは一瞬で、すぐにまた、暮相へと向き直った。
 意識を飛ばして横たわる梅雨の肩口から溢れた血が、水を真っ赤に染めている。

「このまま放っておけば死にます。が、それでは、私の気が収まりそうにない」

 十六夜は肩で息をしながら、血が溢れる肩口を抑えて、弾き飛ばされて遠くに落ちた刀の方へと歩く。

 暮相同様、目でも奪うつもりなのか。

 そんなことを考えられたのは一瞬の事。
 暮相が床に、終夜の背を叩きつけた。
 〝動くなよ〟とでもいう様に、痛みで顔をしかめる終夜の目の前で暮相の刀の切先が止まった。

「お前に明依を守ってやる義理はないはずだ。そもそもその原因が、俺にあるのか、明依にあるのか。考えてた」

 考え事をしながら終夜と戦っていたのか。
 そう思うと、もう暮相には誰も敵わないのかもしれないという絶望が、ポツリと胸の中に浮かんだ。

「旭はあれでいて勘がよかった。十六夜が自分を狙った時点で、その裏に俺がいるって察しがついたはずだ。そして日奈は、明依と仲違いした後で、俺が自分の敵だと分かっていた。そしてさっきお前は、『人との約束は死んでも守れ』って俺との約束を持ち出してきた」

 勝ち誇った様に、暮相はいう。
 そんな暮相を、終夜は下から睨んでいた。

「旭と日奈の最期の言葉は『明依を守ってあげて』か?」

 終夜は、目を見開いた。

「当たりだな」

 そして終夜の表情を見て、明依も同じように目を見開いた。
 二人が死ぬ前に終夜と話をした事は、終夜の話で知っていた。
 しかし、二人が死に際に終夜にそんな事を言っていたなんて。

「なるほど。主郭の会議で、俺を殺すのか?と聞いた時にお前が言った『今じゃない。お前は一番最後だ』って言うのは、そういう意味だったか。……叢雲と十六夜を殺してからじゃないと、俺を殺せなかったんだろ。俺を殺してしまうと、二人にとって〝明依の価値〟は無くなる。明依に害が及ぶ可能性を考えたからだ」

 本当に、終夜に迷惑をかけてばかりだ。
 ではどうすれば正解だったのか。
 答えが出ない事もわかっていた。

 自己嫌悪が輪郭のつかめない感情の表面を撫でる。
 不快で不快で、そしてどこまでも悲しい。

 終夜の足手まといになってばかり。
 何一つ、彼の力にはなれない。

「お前の負けでいいよな?」

 確認するように暮相がいう。

 打ち払った様に、静けさが満ちる。
 それを止めたのは終夜のため息と、彼が首の力を抜き、後頭部を床に一度打った音だった。

「あー、もう。……だんだん腹立ってきた」
「自分が無力なことにか?」
「俺が無力だったら、この世のほとんどの人間は役立たずだよ」

 終夜は暮相の反応を先読みしたのかと思うような速度で、終夜はあっさりと暮相の言葉を否定する。

「じゃあなんだ?旭と日奈にか?」
「ああ」

 宙を見つめたまま、終夜は気を抜いた様子で口を開いた。

「『守ってあげて』なんて、他人事だと思って簡単に言うよ……」

 終夜には気力がない様子を見せる。平坦な口調でぽつぽつと恨みつらみを吐き出している様な。だけどそこには明らかに、温かい感情が混ざっていた。

「まるで示し合わせてたみたいに、二人とも同じ言葉を吐いて死んでった」

 終夜が自分を守ってくれていた理由は、自らの意志ではない。
 全ては、旭と日奈の為。

 二人は最後の最後まで、自分の事を思ってくれていた。
 それが胸の内側を温かくする。

 だけどぽつりと浮かぶ。
 今までの終夜に守られたという事実の中に、終夜自身の意志は、たった一つもなかった。
 それはいつから、いつまで?
 もしかすると今も、そうなのか。

 済んだことだ。もう、済んだこと。
 考えても仕方がない。
 二人はもう、この世界にはいないんだから。

 しかしその事実は、旭と日奈がいなければ、終夜と交わる事はひと時さえなかったと決定づけられている様で。

 そして、大切な終夜を苦しめていたという、彼の隠していたであろう事実が、また一つ、明依を罪深くする。