「あなたは終夜の事を何もわかってない」

 落ち着けと自分に言い聞かせているのに、気持ちは全く落ち着いてくれなかった。
 暮相はもしかするとそんなことは分かったうえで挑発する材料に使っているのかもしれない。もしそうなら思う壺なのだろうと思いながら、今の明依にはそんな事すらどうでもよかった。

「終夜はそんな自分勝手な理由で、私に黙っていたんじゃない」

 感情を抑えようと思う気持ちは十分にあった。
 会話をする上で、対等な立場に立たないといけないという事も、終夜と何度も話をした経験でわかっていた。

 ただそれに、理性が全く追いついてこないだけ。
 
 暮相の薄く笑う表情は、まるで人外の鬼のように思っていた終夜を怖がっていた時を思い出させる。
 それをどこか、他人事みたいに懐かしくも感じていた。

「終夜は私を守ってくれたの」
「どうしてそう思うんだ?」

 宵が言いそうな言葉だ。それなのに、明らかに〝宵〟ではない。
 心のどこかでまた懲りずに、そのことを少し寂しく思い、そして悲しい気持ちをぽつりと残す。

 しかしそれは、今まで暮相に組み上げられた心の内側が、まるでプログラムの様に経路をたどって出力されているだけだと、明依は冷静でいる様に努めながら自分自身にそう言い聞かせていた。

「わからないの?」

 質問をされると自発的に考える。そうやって人を操るのだと、宵が警察官であると打ち明けられた時に終夜から教えてもらった。

 身をもって経験しているのだから疑う余地もないのだが、それは本当なのだと暮相の態度を見て明依はそう思っていた。彼の表情がほんの少し変わって、身構えた様な気がしたから。

「私と距離が近い自分が日奈と旭を殺した事を知ると、私の傷になると思ったからよ」
「じゃあ実際、終夜が日奈と旭を殺したことは、お前の傷にはならないのか?明依」

 身構えたのではないかと思ったことが間違いだと認識しそうになるくらい、間髪入れずに余裕めいた笑顔を張り付けて、暮相は言う。

 その問いかけに、考えようとしてから回ったのは明依の方だった。

「旭と日奈が死なかったら、終夜と出会ってすらなかったかもな」

 何度も考えた事を知っているかの様に、暮相はその言葉を明依に直球でぶつけた。

「何度、そう考えた?」

 この胸を抉られるような感覚も、想定内だったに違いない。

 こう問いかける事で思うままに操ろうとしている事なんて、今になってはよく分かるはずだ。
 その様子は先ほどよりもよほど〝宵〟で。だからだろうか。その問いかけに、頭が反応してしまう。

「終夜の側にいたいのに、終夜の側は苦しいだろ」

 そう。確かに苦しい。苦しくて仕方がない。
 終夜と一緒にいると、日奈と旭を思い出す。そして、その死の原因を作ったのが自分だという事を、思い出してしまう。そして終夜自身を苦しめたことも。

 日奈が、終夜を好きだったことも。

「まるで自分が、大罪を犯しているみたいで」

 おとぎ話じみた言い方をするのなら、〝きっと二人は結ばれない運命〟なのだ。

 そんなことはとっくに分かっていた。
 それはきっと、終夜も同じことだ。

「終夜はきっと、お前の罪まで全部背負って死んでくれるよ」

 やはり、終夜を怖いと思っていた時と似た感覚がする。
 自分の意志が、逆方向に曲がる感覚や、頭の中で実態がつかめない何かが動いているような感覚。

「だから吉原は俺のものになる。すこし利口なら、どうすればいいのかわかるはずだ」
「そして松ノ位と身を固めて、一緒に地獄に籠城?」

 だからつい先ほど、終夜に殺されかけた時と同じ。
 自分の心を殺す準備をした。

「ああ。約束だろ、明依。一緒にこの地獄にいよう」
「あなたと一緒の地獄は嫌」

 その手にはもう乗ってやらないと明依は決めていた。

 終夜に散々、操られてきた。それに対処する方法くらいは、意識を逸らす方法くらいは、とっくに身に着いている。

「あなたと一緒にいるくらいなら、一人ぼっちでいい。そんな事より」

 明依が質問をしたから、暮相は答えただけ。
 暮相は、目を見開いて明依を見ていた。

「話をそらさないでよ。終夜が日奈と旭を殺したことが、私の傷にはならないのかって話の答えは、もうどうでもよくなった?」

 逸れた話を、無理矢理もとに戻す。
 ずっと、自分の成長や違いを見てくれているものだと思っていた。

 気付かなかったのだろうか。もしそうなら、〝宵兄さん〟というのは幻想で、最初からいなかったという事になる。

 もしくは、今もまだ自分の好きなように操れると思っていたのかもしれない。
 そう思った先にはやはり、明らかな反骨心。
 どうせ思い通りになるだろうと舐められていたのだと思うと、不快感でいっぱいになった。

「終夜が日奈と旭を殺していたって、私の傷にはならない」

 だから先ほどよりももう少し明確な意地を張って、明依は暮相をまっすぐに見た。
 そう言うと暮相はもう少しだけ目を見開らく。そして瞬きを一つした。

「理由は?」

 そして言葉の続きを促す。それはまるで、純粋にその解答に興味がある様子だった。

 暁の言葉で終夜の性格を考えると、苦しむ旭と日奈を楽にしてやりたいという思いが働いて、自分の傷になる事なんてお構いなしに殺したという事は想像に難くない。

 死へと着実に近付く終夜の生への諦めに似た態度は、そんな罪悪感も絡んでいるのかもしれない。

 しかし、これをどんな言葉にして伝えればいいのかわからなかった。
 この気持ちを、明確に言葉には出来ない。

 終夜はそんな身勝手な人間じゃないから?
 そうだけど、そうじゃない。それだけではなくてもっと、心の内側を抉り出すような、そんな言葉。
 終夜という人間の事実に絡まった、〝私〟の思いが入った外的要因の言葉だと思った。

「私は……」

 ゆっくりと自分の心の中を確かめる様に、言葉を紡ぐ。
 そうすると心の内側は、答えを一つだけぽつりと提示した。

「それから日奈と、旭は――」

 一言一言を口に出す度、それはまるでその先に続く言葉が完璧な答えであると自信をつける。
 言葉にする前から暖かい気持ちになった。

 きっと二人は、終夜にこの言葉を伝える事は出来なかっただろう。
 だけどきっと、距離を置いた終夜に対して、この言葉を言いたかったに違いない。

 自分が誰よりもその事を知っているはずだという自信が、明依にはあった。
 日奈と旭は人目を忍んででも、終夜の話をしていたんだから。

「――終夜の事が大好きだから」

 きっとこれ以上抽象的な理由もなければ、これ以上明確な理由もない。

 それでも、この言葉を信じてほしい。
 だからまた神様ではなく、自分自身に祈る。

 どうか、どうか今の言葉に、終夜に受け取ってもらえるだけの、すべての感情を込められていますように。

 終夜は旭と日奈を守る為に、二人から距離を取った。
 二人がいる吉原を、本気で守りたいと思ったから。

 〝出来損ない〟なんて程度の低い言葉を、普段の終夜なら気にも留めないだろう。
 しかし、この人からの言葉なら。今の終夜の状態なら、気にしてしまうのではないか。
 そしてまた、死に一歩近づいてしまうのではないか。そんな不安が明依にはあった。

 終夜は俯いたまま、重い様子でゆっくりと息を吐いた。

「〝ダメな生徒なんていない、ダメな指導者がいるだけだ〟」

 終夜の口調には大した感情はなく、ただ文面を読み上げている様な平坦な調子だった。

「って、教育者の言葉を知ってるか?」

 終夜はそう言うと、確かめる様にゆっくりと持っている刀を握りしめた。

 顔を上げた終夜は、いつも通りの挑発的な笑顔を張り付けている。

「この、()()()()()

 先ほど言った言葉をはっきりと区切り、そっくりそのまま返す。

 この憎たらしい様子が、これでこそ終夜だと明依は思った。
 散々やられて痛い目を見てきたが、味方になるとなんて心強いのか。

 それを見た暮相が、鼻で笑った。

「お前本当、可愛気がないな」
「可愛気ってのはさァ、自分から他人への期待値なんだよ」

 そういう終夜の口調はもうほとんど、〝いつも通り〟だ。

「今更俺に、何を期待してるの?優しい言葉をかけてほしかった?」

 小馬鹿にしてそう言う終夜を見て、自分があの表情を、口調を向けられていた時の事を、明依は明確に思い出していた。

 終夜は宵が警察官だと打ち明けた時、「この場所はもう、地獄の最下層だ」と言った。
 それは真っ赤な嘘だ。
 きっと終夜は全てを知る前に事実をせき止めて、あの場所を地獄の最下層にしたかった。

 終夜は本当に優しい人だ。
 自分は人のために平気で傷つくくせに、人が傷つく事は嫌う。身勝手な人間なんかじゃない。

「梅雨」

 終夜の呼びかけに、梅雨は彼の方に少し視線を向けた。

「本気で勝とうと思うなら、冗談抜きで目くらいはつぶさないといけない」

 終夜は大した感情も乗せずにそういう。
 それを聞いた梅雨はやはり返事をすることも頷くこともなく、暮相へと視線を戻した。

 本当は今も傷ついているのだろう。
 兄と慕った相手を殺そうとしている事。そして当然、梅雨に怪我をさせた事も、そんな梅雨に働かせようとしている事も。

 さらに言うなら、頭領が死んだことも、自分が手配した陰が死んだことも。
 全部、自分の力不足だなんて思っているのかもしれない。

 それは終夜を苦しめているだろう。しかし同時に、終夜の原動力でもある。
 自分を叩きあげる、力の源。〝吉原の厄災〟と呼ばれる圧倒的な力を手にする上で、絶対に必要な要素だ。

 終夜が何の前触れもなく動いたことに、息を呑んで身体を動かしたのは十六夜で、暮相はただ刀を握ってじっとその場に立っていた。

 暮相は終夜に身構えたが、終夜は暮相ではなく十六夜の元へ走る。

「やっぱり先に、こっちを殺るよ」

 そうって軌道を変える終夜の背中に、暮相はためらう事もなく刀をまっすぐに伸ばした。

 しかしそれは、間に入った梅雨の肩口を一直線に貫いていた。
 暮相は自分の顔に飛んだ血を見て目を見開いていたが、少し息を抜いて笑った。

「危ないな。殺すところだった」

 梅雨は目を閉じて痛みに耐えながら、自分の身を貫く刀を握る暮相の手に、自分の左手を重ねた。

「急に人の前に飛び出して来たらダメだろ」

 暮相はそう言うと、戦う構えを解いた。

 梅雨は右手に握った刀を振り上げるが、暮相はあっさりした様子でその刀を打ち払った。

「もう痛い事はしないから。大人しくしといて、お嬢さん」
「誰が、〝お嬢さん〟だ?」

 その言葉を、誰が発したのかわからなかった。
 どちらかと言えば高い、しかし明らかな、男性の声。

 聞いたことのない声だった。

 暮相は目を見開いている。
 梅雨は右手の袖から滑らせて短刀を取り出すと、暮相の左目に突き刺し、引き抜いた。

「お前――」

 暮相が、やってくれたな、とでも言いたげな様子でそう言い、半顔を血に染めて笑顔を浮かべた。

「――男か?」

 その言葉に、明依はさらに目を見開く。
 梅雨は自分を貫いている刀を引き抜いて水の中に捨てると、少し首を傾げて顎を上げ、距離を取る暮相を見下している。
 それは今まで見てきた梅雨よりも、ほんの少し何かが違っていた。

「男と女の違いも判断できないヤツが、偉そうに語ってんじゃねーよ」

 今の今まで女性だと思っていた脳みそは、梅雨が男性だったという事実を簡単には受け入れようとしなかった。