終夜と十六夜の間に入り込んでいる梅雨を見て、明依はやっと身体の力を抜いた。
 そのままそこにへたり込んでしまいたいくらいの気持ちだった。

 入口の前には、吉野と高尾とそれから時雨の姿があった。

「こう見ると、懐かしいな」

 暮相はそう言うと、部屋の中にいる人の顔を見回して、それから最後に三人の顔を視線でなぞった。

「お前たちが、俺の世界の全てだった」

 もうまるで過去の事だとでも言いたげに、暮相はそういう。
 だけどその一言は、ここに居る人たちと〝宵〟が確かに繋がっていた証拠に思えた。

 そしてその言葉の意味に自分が含まれていない事に気付いて、気付かないふりをした。

 終夜が暮相から距離を取ると、十六夜と梅雨も同様に距離を取った。

 高尾が暮相に向ける視線は、前に三浦屋で〝宵〟を見た時よりもずっと冷たい。
 明確に別人を見ているようにさえ思えるくらいに。

「生き返ったついでに頼み事なのだがな、暮相」
「ああ、どうした?」
「恋人だなんだと未だに言われて困っている。せめて訂正してから死んでくれないか」
「断る。俺は結構、気に入ってるんでね」

 薄ら笑いを浮かべてそういう暮相は、ふっと息を抜いて先ほどとは違った種類の笑顔を見せた。

「顔、見せてくれよ」

 自分に言われていると分かっているだろう。しかし高尾は、指一つ動かさなかった。
 暮相はわざとらしく、肩をすくめる。

「お前の顔が見たくて、地獄から舞い戻ってきたんだ。伊吹(いぶき)
「……いつそんな言葉を、女に吐けるようになったんだ?」
「人間は学習して、成長するんだよ」

 暮相の飄々とした態度に、高尾は短い動きで顔を隠している布を取り払った。

 月色の髪に、透き通るような白い肌。何色にも見える瞳。
 綺麗、美しい、なんて言葉では語りつくせない程、余りに幻想的な容姿。

 暁の作ったこの、現実から無理矢理引き離した幻想世界の住人の様だと思った。
 半顔が爛れていても、その美しさに何の影響も及ぼしてはいない。

「お前は私という前例があると知って、黎明の身体に傷がついても切り離さずにいたんだろう」
「そう。大正解」

 あっさりとそういう暮相には、〝宵〟を取り繕うという気はさらさらないように思えた。
 暮相は高尾から吉野に視線を移した。

「そんな顔するなよ、日和(ひより)

 吉野はじっと、彼を見ていた。
 今、幼い時期を一緒に過ごした〝暮相〟として彼を見据えているのか、それとも共に満月屋を守ってきた〝宵〟として彼を見据えているのか、見ているだけではわからなかったが、彼の口から自分の本名を呼ばれても、表情一つ変えなかった。

「あんなに近くにいて慣れてたと思ってたのに、改めて向き合うとどうして、こう懐かしい気持ちになるんだろうな」
「そうね」

 吉野はただ、同意を求められたのでしただけ、といった態度で呟く。
 暮相は、ほんの少しだけ、目を細めた。

「満月楼のあの縁側で、三人で何度となく話をした」

 明依は、夏に日奈と共にラムネを飲んだあの縁側を思い出していた。

「二人の年季が明けた後の希望を、よく話した。俺と伊吹がまだ手を組む前の話だ。現実には、ならなかったけど」

 そういう暮相の態度はどこか、砕けていて。本当にただ、昔馴染みと心の内側を共有したいだけにも見える様子だった。

「それにしてもやってくれたな、日和」

 吉野はまるで、その言葉の意味が余すことなく分かっているみたいに口を開かず、じっと暮相を見ていた。

「最初は、頭領選抜の結果が発表された時だ。あの辺りからお前は、明依と俺を二人きりにしない様に注意を払っていた。明依が三浦楼から戻ってきた時もだ。お前があの時、俺の部屋に来なかったら。俺は今より随分と楽な思いをしていた。……知ってたのか?」
「ええ」

 吉野の返事を聞いた暮相は息を漏らすように笑って、終夜を見た。

「やっぱり、お前か」

 明依は凛と立つ吉野を見た。
 吉野は宵が暮相だという事を、終夜から聞いて知っていたのだろう。

 確かにそうだ。
 それまで〝宵さんはどう?〟なんて恋愛の話をしていたのに。
 吉野は全く口にしなくなっていた。
 
 ずっと守っていてくれたんだ。そう思うと胸の内に浮かんでくる気持ちは、もう飽き飽きするくらい感じたざわつきだった。

「本当、バカだな。お前」

 時雨は呆れた口調でそう言って、左右の袖に腕を通した。

「恨み辛みなんて酒と一緒に吐いて吉原の街で平凡に暮らしてりゃ、誰も傷付けずに済んだのに」

 そういって暮相と視線を合わせる時雨は、凛として口を開いた。

「これが、お前の望んだ末路か?暮相」

 凛とした態度の中。悲し気な様子を必死で押し隠そうともがいている風にも見える表情で。

「大体は。……叢雲が死んだのは、痛かったよ」

 そうぼそりと呟いた一言には、血が通っている様に思えた。

「だけど、お前達吉原の人間が俺を持ち上げてくれたおかげで、随分と動きやすかった。よそ者が到底手に入れられない地位まで手に入れた。てっぺんまで、あと少しだ」

 そういうと暮相は、終夜に向き直った。

「終夜は殺す」

 終夜をまっすぐに見つめながら、暮相は少し声を張る。

「まさかここまで手強いなんてな。想定外だ。放っておくわけにもいかないんだから、死んでもらうしかないよな」
「旭を、殺したみたいに?」
「そうだな」

 終夜は自分の死の宣告に、淡々とした口調で返事をする。

「他は別にいいよ。俺が治める吉原の中で、勝手にしていればいい」
「お戯れは終わりでいいのね」

 暮相の言葉にかぶせて、吉野は凛とした口調でそういう。
 暮相はその言葉の意味を察したのか、薄ら笑いを浮かべて吉野を見た。

「友を失う悲しみを、二度も味わえるか?日和。優しいお前が」

 やはり吉野は、変わらない表情で暮相を見ている。
 そして何を思ったのか、暮相は明依に視線を移した。

「俺を心の拠り所にしているのは、何も昔のお前達だけじゃないんだ」
「きっと黎明も、お前と一緒にいるくらいなら一人でいいと言うだろう」

 その言葉を聞いて暮相は笑う。

「わかるのか?お前に。しっかりと自分の足で立っている女に、縋りたくなる女の気持ちが」

 高尾の葛藤を理解して挑発として使っているのか。はたまた、本当に自分が彼女にとってどうでもいい存在だと思っているのか。

「一人でいい。みっともなく、過去に縋るくらいなら」

 そういう高尾の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせている様でもあった。
 梅雨はそんな高尾を、いつも通りの無表情で横目に見ていた。

「さて、これでもうなんの未練もあるまい」

 今度ははっきりとした口調で、高尾が言う。
 全く、いつも通り。

「時間は流れている。お前と私の夢だった吉原の解放は、しっかりと後任が引き継ぐ事だろう。だから安心して――」

 暮相はその瞬間、少しだけ身を固くした。

「――もう一度死ぬといい」

 くるりと身を回した梅雨の刀が、暮相の首元に触れようとした。
 暮相はとっさに、刀と首の間に自分の刀を差し込んで、梅雨の刀の動きが遅くなった隙に後ろに下がった。

「危な」

 自分の首元を触って切れていない事を確認しながら、暮相はそういう。

「お嬢さんの話は聞いてたんだ。高尾大夫に仕える陰の女だって。……でも俺は終夜を殺さないといけないから、ちょろちょろ動かれると迷惑なんだ」

 暮相はそう言うと、終夜との距離を詰めて刀を振りかぶった。
 終夜は気を抜いていたのか、反応が遅れていて、暮相が刀を振り下ろす頃にやっと、自分の握る刀に力を込めていた。

「だよなァ」

 暮相の持っている刀から、血が流れて、薄く張った水に波紋を作った。

「終夜が死んだら、〝詰み〟だもんな」

 梅雨の左肩口が、赤く染まっていく。

「伊吹にきつく言われたか?『誰よりも優先して終夜を守れ』って」
「梅雨ちゃん!!!」

 明依は思わずそう叫ぶ。
 梅雨は肩口を抑えて、数歩後ろに下がった。

「ごめんね、お嬢さん。女の子に手は出さないって思ってるんだけど、これくらいしないとわからないみたいでさ。ウチの()()()は。……いいのか、終夜」

 終夜は目を見開いて目の前の状況を見ていたが、暮相の言葉に我に返り視線を移した。

「お前のせいで、また一人死ぬかもな」

 終夜は何を考えているのか、その言葉に少し俯いた。
 表情を見る事は出来ない。

「抑え込んでいる良心が痛むだろ、終夜。わかるよ。お前は優しいから。……無駄な争いはやめにしないか。どうせもう、結果は決まってるんだ」

 争いをやめにする。もしかすると、終夜は自分が死ねば丸く収まると、弱った心のどこかで、そんなことを思ってるのではないかと明依は急に不安になった。

 終夜が何も口を開かないのをいいことに、暮相は言葉を続けた。

「明依はまだ、知らないんだろ?」

 呼ばれた名前に、明依は終夜から暮相に視線を移した。

「お前が旭と日奈を殺したこと」

 端的な口調で告げられる暮相の言葉を、終夜は黙って受け入れていた。
 明依は目を見開いて、言葉の続きを待つ。

「旭を手にかけたのは、小夜だ。そして日奈を手にかけたのは、朔。だけど二人とも、終夜が駆け付けた時には息があったんだよ」

 暮相は薄く笑って、明依に向かってそう言った。

 終夜は正直に、日奈と旭の事を話してくれた。しかし〝自分が殺した〟だなんて、そんなことは一言も口にしなかった。

「わかるよ、終夜。俺も何度も、中途半端な傷で死ぬに死ねない奴らを見てきた。苦しそうにもがくんだ。もういっそ、殺してくれって」

 先ほど終夜が殺した男たちも、まだ幸せな方だったのだと思った。
 きっとほとんど苦しまずに、死んだのだろうから。

「心中立てまでした女に隠し事なんて男として最低だろ、終夜。明依にちゃんと教えてやれよ。日奈と旭の息の根を止めたのは自分だって」

 どんな色の地獄だっただろう。
 自分の大切な人達が苦しむところを見て、手にかけるのは。

 朔はもしかすると、個人的な恨みで日奈に一秒でも長く苦しんでもらう為に致命傷だけ与えて去っていったのかもしれない。

 しかし十六夜は、終夜に旭を殺させるために、わざと即死を狙わなかったのだと、明依は確信していた。
 何て残酷なことをさせるのか。
 終夜の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうな思いがした。

「俺はさ、終夜。旭とお前を二人で一つだと思って育てたんだ」

 なんて事のない口調で、暮相は終夜に向かってそういう。

「裏側に通じたお前と、表側に通じた旭。それぞれ何もかも、正反対。お前も気付いていたはずだ。一人じゃ何もできないって」

 雄弁にそう語って聞かせる暮相が浮かべるのは、終夜によく似た薄ら笑い。
 終夜はもしかすると、自分が日奈と旭を殺したことを明依が批判的にとらえるだろうなんて考えているのではないかと、彼の中にしか答えのない事に焦りを持っていた。

「お前はもう、出来損ないだ」
「もう二度と、その口で終夜を〝弟〟なんて呼ばないで」

 口を衝いて出た訳ではなかった。
 ふつふつとたぎる怒りが、今か今かと喉元で出番を待っていただけだった。

 この感覚は、いつか芽生えた終夜には絶対に屈したくないという反骨心に似ている。