自分がおかしい事は、よく分かっていた。

 目の前にいる宵はまるで終夜を昔から知っているみたいに声をかけて、終夜に手を上げた。
 事実だ。揺るがない事実。

 それなのに、宵と暮相は紐づかない。
 この感覚は、終夜に沢山の情報を注がれて思考が止まった感覚に似ている。それと並行する、焦り。

「何でそんな顔にしたんだか」

 終夜は呆れた様子で、そう吐き捨てた。

「ずっと言ってやりたかったんだ。センスないよ、相変わらず」

 そういう終夜の言葉に、宵は声を漏らして笑った。

「使えるものは何でも使えって教えただろ」

 確かに終夜はよく、そんなことを言う。
 使えるものは何でも使う、と。

 それは暮相の教えだったのか。

 そういう〝宵〟は、宵の顔なのに、宵の声なのに、宵ではなくて。
 それは、終夜が座敷で宵に似た皮を被り化けていた時の感覚に似ていた。

 似ているのに、雰囲気が違う。
 それは表情か、声質か。仕草か。多分、全てがあいまいに絡まった結果。

「ここは女の街だ。俺は統計に従っただけ」

 宵と終夜が喋っている。
 特段珍しい事でもないはずなのに雰囲気は違っていて。

 圧倒的に強い立場にいたはずの終夜と、宵は、今対等な場所で向き合っている気がした。

 宵はゆっくりと、自分の顔に手を当てた。

「女は好きだろ。こういう顔が」

 冷や水を浴びせられた様な衝撃。自分が呼吸をしているのかも忘れるくらい。
 身体中が熱くなって、頭に血が上るのに、手足の先は冷え切っていた。

 脳の機能が停止したのではないかと思うくらい、世界が止まる。
 それが何より、〝宵兄さん〟が親を殺したとはまだ思えていなかった証拠で。
 
「宵兄さんの顔で、そんな事言わないで……」

 やっとのことでそう口にする。
 しかし回っていない頭では、この言葉がこの状況において正しいものなのかわからなかった。

 宵は終夜から明依に視線を移すと、何も喋らず、笑顔を作った。

 本当に、いつも通り。
 絶望すらするくらい、いつも通りの宵だった。
 もう訳が分からなくて、泣きわめいてしまいたいくらい。

「アンタの口から〝統計〟なんてお堅い言葉が出てくるなんて思わなかったよ」

 そんな明依をよそに、終夜はあっさりした口調でいう。

「どこまで知ってるんだ?」

 宵は何事もなかったかのように、目の前の明依にそう問いかける。

 どうして。どうして紐付かない。
 答えの出ない問いを繰り返している明依を前に、宵は少し腰を曲げて首を傾げる。

 本当にどうしてそんなに、いつも通りなのだろう。

 これじゃあまるで、おかしいのは自分だけみたいだ。

「全部」
「お前に聞いてない」

 わざとらしくそういう終夜に、宵はちゃらけた様子で少し笑ってそう答えながら曲げていた腰を、いつも通り伸ばした。

「そろそろそれが自分の女にモテない所だって気付いたら?お前とは話したくないってさ」
「じゃあまた、一から染め直しだな」

 宵はそう言うと、つま先を終夜の方向へと向けた。

 何を考えるよりも先に焦りが。それよりも先に、身体が勝手に動いて宵の腕を掴んだ。

「……殺さないって、約束したでしょ」

 蚊の鳴く様な声で、明依は言う。
 混乱した頭では、それが精一杯で。

「今更そんな約束、」
「ああ、覚えてるよ」

 明依の言葉にすぐさま終夜が反応して、それを宵が遮った。

「そういう約束だ。だから殺さない」

 いつもの様子の宵。
 『俺は絶対にどこにもいかない。明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる』
 宵は確かにそう言った。
 それはこの状況を暗喩していたみたいだと思う、役にもたたない直感。

「終夜はこの傷だ。守るべき頭領も死んだ。明依も終夜も、ここにいる理由はもうない」

 終夜は左腕を銃で撃たれて大きな怪我をしている。守ろうとした頭領を守れなかった。

「明依が終夜を説得してみる?」

 その言葉に、一縷の希望が見えた気がした。

「それとも、もう俺の所に来る?」

 どうすればいいんだろうと、いつも通り脳みそは勝手に算出を始める。

 宵とはもともと終夜を逃がす約束をしていた。その約束がまだ生きているなら、終夜を説得するのが正解なんだろうか。説得できるとは思えないが。

 じゃあ、もう宵の所に行くことを選んだら、終夜はどうなるんだろうか。
 全部丸く収める為には、どうしたら。

「丸く収めるには、とか考えてるんじゃないよね」

 冷静でいて、それなのに怒りがにじむような口調で、終夜は声を張る。

「明依。目の前にいるのは、両親を殺して、旭と日奈を殺して、自分の人生を狂わせた男だよ」

 我に返った、つもりになった。
 終夜の言う通りだ。〝宵〟は両親を殺して、旭と日奈を殺した。
 親戚夫婦に上手い事を言って、この街に自分を誘い込んだ張本人。

「終夜、お前。本当に鬼畜だな」

 終夜の言葉を聞いた宵は、呆れた様に笑う。

「もう楽にさせてやれよ。明依はもう充分、悩んできたんだから」
「新しい選択肢を増やしただけだ」

 終夜はそう言うと瞬きを一つして明依を見た。

「好きな方を選んだらいいよ」

 そういう終夜に宵は少し目を見開いて「へー」と感心した様に漏らした。

「言葉の使い方がうまくなったな」

 それに、終夜は何も答えない。

 終夜は、人生をちょうだいと言った。左手の心中立てがそれを証明している。

 もしかすると終夜は、こんな展開になることが分かっていてあんなことを言ったのだろうか。

 宵を選ぶのなら、その時は人生をもらう。
 つまり、ためらわずに殺すという事。

「終夜は俺に勝てないよ、明依」

 宵はやはり寸分違わずいつもの様子でそういう。

「どうして、そう思うの……?」

 明依は宵にそう問いかけておいて、その質問の答えを欲している訳ではなかった。

 ぐるぐると回っている。
 先ほどの終夜との出来事が。

「わからない?」
「わからない」

 わかるなら、苦労していない。
 終夜はどうして、心中立てなんて酔狂な事をしようと思ったのか。

「俺は終夜の〝師匠〟だよ」

 宵は、終夜の師匠だ。
 兄と慕った人。

 宵の正体は暮相。
 目の前にいるのは、宵という虚像。

 もし終夜が、心中立てをそういう意味で使ったのなら、悲しい。
 口に出すことはないのだとしても、繋がったと思ったから。

 同じ気持ちなら嬉しいと思った。
 同じ気持ちだと思った。
 あの時の終夜は、きっと。

「終夜を助けるのが、明依の目的だろ」
「うん」
「じゃあ、選択肢なんて最初からないはずだよ」
「……どうして、〝宵兄さんは〟――」

 口にして初めて気付く、小さな違和感。

「――終夜を、苦しめるの?」

 想定外の言葉だったのか、宵は目を見開いた。

 〝宵〟は終夜を苦しめたりしない。
 多面的に物事を見て、自分に酷いことをした終夜の気持ちさえも測り、察しようとする人だ。
 そんな優しい人が、終夜を苦しめるはずがないじゃないか。

 慕った〝宵〟が、信じた〝宵〟が、誰かの人生を狂わせて終夜を苦しませていると思うくらいなら、いっそ虚像の方が幾分かはマシだ。

「〝宵兄さん〟なんていない」

 暗示を解く様な、自己暗示。

 今だって本当は、宵は宵で、別の黒幕がいるなんて夢物語を願っている。
 ただそれを、察してほしくないという強迫的なまでの強がり。

 自分に都合のいい嘘をつき続けた宵と、他人に都合のいい嘘をつき続けた終夜。
 そんな終夜の期待を裏切りたくないという、報われようのない、バカみたいな気持ち。

 自分の発した音が耳を通り、すとんと心に落ちて、また自分を苦しめる。

「私はもう、わかってる」
「ごめんね。実は俺達、心中立てした仲なんだ」

 気付けばすぐ近くにいた終夜は、明依の肩を引いて暮相との間に入った。

「他の女に癒してもらえよ」

 そう言った終夜が笑った。
 終夜が振るう刀を暮相が刀で止めた。その隙に、十六夜が終夜に刀を向けた。
 明依は反射的に十六夜と終夜の間に入ろうとしたが、終夜は器用に足で明依の動きを遮った。

「こういう時は、バカみたいに想像通りに動くのに」

 そう言うと、その足でなんの遠慮もなく十六夜を蹴り飛ばした。
 まるで何の労力もかけてない様子でそういう終夜に、今度は暮相が笑った。

「全部が全部想像通りに動く女なんて、つまらないだろ」

 そういう暮相に、今度は終夜が鼻で笑う。

「想像通りに動かない女に、たった今、番狂わせくらったくせに」

 片膝をつく十六夜の腕から、おびただしい量の血が流れている。
 暮相が少し力を入れると、終夜は明依の腕を引いて距離を取った。

「旭も俺も、人との約束は死んでも守れって、()()()()()から厳しく教わったんだ」

 終夜は明依から手を離し、真っ直ぐに暮相を見た。

「だから俺は、アンタを殺さなきゃいけない」

 はっきりと終夜は暮相に向かってそういう。
 それはまるで、自分自身に言い聞かせているような。

「殺されることは、想定外か?」
「想定外だね」

 終夜はそう言うと、暮相に向かって足で水を蹴った。
 着物の袖で庇おうとする暮相に、終夜が刀を振り上げる。
 
「姑息なんだよ」
「自分の言葉の責任くらい、自分で取れよ」

 暮相と終夜の刀が交わって、それから絶え間なく音が鳴る。

 その光景をまるで自分の事の様に前のめりになって見ていた。
 どれくらいそうしていたのか、分からない。

 十六夜がいない。
 そう思った時には、終夜に向かって刀を振るっていた。
 終夜は目の前の暮相にいっぱいいっぱいの様子で。

 声も出せないくらい短い間。
 それなのに、終夜を失うかもしれない焦りと、恐怖が心どころか身さえ染めていて。

「久しいな」

 刀と刀がこすれ合う音がして、それから凛と糸が張り詰めた様なのに、穏やかな川の流れの様でもある。そんな声が響いた。

 派手な色の着物が、終夜と十六夜の間に入り込んでいる。

「暮相よ」

 目を見開く暮愛をよそに、何の感情も悟らせない声が響いて消えた。