この空間を先ほどまで幻想的だと思っていたが、本当は無理矢理現実から引き離しただけの寂しい空間なのかもしれない。

 それくらい、全ての物事を無慈悲に思った。

「よかった。最後にお前の寄る辺を知ることができて」
「……そんなんじゃないよ」

 暁の言葉に終夜はぼそりと呟くように、大した感情もない口調で言う。

 暁は随分と体調がすぐれない様に見える。
 生きている方が不思議と聞いたが、もうそう長くないのだという事が今なら察することが出来るくらいには。

 もしも残り少しだとしても、自分の人生を生きてほしい。でもきっとそれは叶わないだろう。

 最初からきっと暁には、逃がした遊女の娘の言葉はいらなかった。
 この結末はきっと、最初から決まっていたのだろう。

「黎明」

 急にそう呼ばれて、明依の意識は現実に引き戻された。

「本当の名を、なんと言ったか」

 まさか本名を聞かれると思っていなかった明依は、少し戸惑った後口を開いた。

「明依と言います」
「……そうか〝明依〟というのか」

 少し俯いた暁の顔は悲しそうで、それでいて至極嬉しそうで。
 しみじみと心の内側から納得した様な、穏やかな口調とそれから笑顔を浮かべていた。

 一体自分の名前が、暁の中の何に触れたのだろう。そんな事を思っていると、暁はしっかりと明依と視線を合わせた。

「私を恨んではいないか、明依」

 優しい口調で、暁は明依にそう問いかける

「それは、戯れでございますか。暁さま」

 きっと暁は、どんな返事をするのかわかっているだろうと思った。もしかすると、本当に戯れだったのかもしれない。

 そんなことを思いながら、明依は暁に微笑みかけた。

「暁さまのご判断がなければ、私は生まれる事すらできなかったのに」

 地獄が来る。
 後から後悔に追い立てられることも知っている。

 それでも、今この瞬間を悪くないとすら思っているのだ。
 この妙な繋がりに、途方もない温かさを感じている。

 敵ばかりの終夜の味方には裏の頭領がいるなんて、とても心強い。〝本当の終夜〟をわかっている人が、理解している人がいる事が、本当に嬉しかった。

 なにより。
 目の前で穏やかに笑う人は、母を救い、自分に未来を与えてくれた人だ。

 感謝こそすれ恨む理由などありはしない。

 明依の言葉を聞き終えた暁は、四人の陰に視線を移した。

「ありがとう。でも、もういい。これから先は、私にかわって彼女を守ってやってくれ」

 暁の言葉に陰は戸惑った様子を見せる。そしてその視線は、終夜に注がれた。

「頭領命令だ」

 終夜が一言そう言うと、四人の陰は深く暁に向かって頭を下げて、持ち場を離れて終夜と明依の後ろに移動した。

 どうにかしたい。
 どうにもできない。
 今日一日で何度、この心をかき乱される不快感を味わったことか。

「明依」

 陰を視線で追っていた明依は、名を呼ばれて暁を見た。
 
「お前の〝知人〟に、伝えてくれ」
「……知人?」

 それが誰を指しているのか全く分からないまま、暁は言葉を続けようとする。

 もうすぐ別れが来る。
 だからさっさと理解しないといけないと分かっているのに、頭はそれを理解できなかった。

「暁さま、」
「〝なかなか良かった〟と」
「私は、誰に、」
「縁があれば、いずれわかる」

 理解しないといけないのに、理解できない。
 しかし暁は明依の言葉すべてを遮り、そして言い切る。それ以上何かを言う気はない様だった。

 暁は終夜に視線を移す。

「……世話になりました、頭領」

 終夜がそう言って頭を下げる。
 終夜が頭を下げている。たったそれだけで、どれだけ終夜が暁に感謝しているのか伝わってきて。
 同時に途方もなく、悲しくなる。

「最期の時くらいはせめて穏やかな場所でと思ったが……。まさか、これ程穏やかな気持ちになろうとは」

 しみじみとそういう暁の言葉に、終夜は顔を上げて真っ直ぐに視線を合わせていた。

「私の人生も、捨てたものではなかったな」
「終夜さま!!!」

 暁が言い終わって間もなく、焦った様子の陰の男の言葉を聞いてすぐの事。
 明依の身体は傾いていた。

 終夜に抱きかかえられていたのだと気付いたのは、自分の足が薄く張られた水についた音と感覚。

「勝手に美談にするなよ」

 終夜が離れて行く感覚を認識するよりも前に聞こえた、聞きなれた声。

 明依と終夜の間には、三人の陰が立っていた。
 先ほどまでいたはずの場所には、一人の陰の死体とそれから。

「暁さま!!」

 胸を刀で刺された暁と、それからその刀を握っている宵。

「まだ(みそぎ)が済んでないはずだ」

 〝宵兄さん〟

 この状況を見ても、まだその名を咄嗟に口にしようとする自分に対する驚きと、それから途方もない、焦り。

「放っておいても死ぬ老いぼれに割く時間があるとは」

 暁は苦しそうにそういうが、それは到底、胸を貫かれているとは思えない。
 笑っている。宵をまっすぐに見て。

「万物の真の価値について考え直すべきだ、暮相」

 それに宵がどんな感情を抱いているのかは知らない。ただ宵は、終夜がよくするような、無機質な顔で暁を見ていた。

「顔を見た時、すぐわかった。もうそんなに先は長くないんだろうって。……お前に見せてやりたかったよ」

 いったい何を。その全てを宵が語らなくても、暁が逃がした大事な人の娘という立場の自分が、吉原の街に縛り付けられる様を、だという事は理解できている。

 それなのに、どうして。
 心の内側は、こんなにざわついているのだろう。

「明依を外に」

 そう言う終夜の言葉を聞き終えて、陰の三人はすぐに行動に移した。

「行きましょう」
「……でも」

 それはまるで、終夜一人を残して逃げろと言われているみたいで。

「終夜さまの邪魔になります」

 はっきりとそう言われてしまうと、これ以上何も言えるはずがなくて。

「どうぞ堪えてください。終夜さまの弱点になりたくないのなら」

 弱点になんてなりたいはずがない。ただ、終夜から離れたくもなかった。
 しかし陰の一人は返事を聞かずに、明依の腕を掴み、扉に向かって走った。

 終夜は身体をずらして明依に背を向ける。
 明依から見れば、終夜と宵は常に一直線に並んでいた。

「相変わらず、お気楽なバカ息子だ。本当にいい女というのはな、暮相」

 明依の気を知ってか知らずか、暁は息を漏らすように笑いながらそう言った。

 明依は暁の言葉を聞き逃さない様に、意識の全てをそこに注ぎ込んだ。
 材料を探している。〝宵〟と〝暮相〟を結びつけるための、判断材料を。

「どんな状況でも、凛と咲いて笑っているものだ。お前の様な切って貼っただけの半端者が選ばれようなど。身の程を知れ」
「これから先を見せてやれないのが、本当に残念だよ」

 宵はまるで、これから先も明依が当然自分の側にいると確信している様な言い方をする。
 それがこの部屋から出ようと走る明依を焦らせていた。本当にそんな未来になったら。自分の気持ちだというのに、自分の外側で気持ちが動いている様な感覚。

 この非現実的な空間がそうさせるのか。それとも宵の存在自体か。
 とにかく、ここにいてはいけない。

 宵はためらいもなく、さらに深く抉る様に暁の胸に刀を突き刺した。

「病なんかでくたばる位なら、俺に殺されてもらわないと。何のためにこの街に戻ってきたかわかりゃしない」
「頭領殺しの罪を着せる為に、終夜が吉原の外に出ているときを狙ったのだろう」
「そう。結局、終夜のつけた陰に邪魔されて叶わなかった」

 終夜と二人で吉原の外に出ていた時、暁の命を狙ったのは宵。
 それも、終夜に罪を着せる為に。終夜はそれをわかっていて、しっかりと対策を打っていた。

 『もしかすると吉原にスパイがいて、頭領不在の所でかたを付ける為に昨日の夜、頭領の命を狙ったのかもしれない』
 どうしてあんなに当たり前な顔をして、嘘を吐けたんだろう。
 明依という存在を、何とも思っていなかったからだろうか。

「なんと浅はかな。少しは終夜を見習ったらどうだ」
「最後に勝てばいいんだよ」

 宵は自分のやってきたことを、何度も他人や終夜に被せようとした。
 わかっているのに。

 行く先には、十六夜が立っていた。

 暁が自らを貫いている刀を握った。
 その手からは血が溢れ出している。

「この吉原の混沌は、全て私の力不足が、甘さが招いた結果。手間ばかり残す事を詫びさせてほしい」

 暁の言葉。

「懺悔なら、地獄の裁判でやれよ」

 宵の言葉。
 目の前で、十六夜の手によって、一人の陰が死んだ。

「地獄で会おうぞ」

 何の躊躇いもなく暁の身体を宵の刀が切り裂いた。
 宵は足で暁の胸を押して、暁の身体は後ろに傾いて動きを止めた。

 宵の視線が、自分に移った事が分かった。
 身がすくむ思いがするのに、それなのにまだ、身の危険を感じる事はなかった。
 たった今、目の前で人を殺したのに。

 宵が四阿から橋に向かって足を踏み出した。
 終夜は舌打ちを一つすると宵に背を向けて刀を抜きながら、明依の方向へと走った。

 また一人、陰が死んだ。
 残る陰はひとり。
 この場所から逃げないといけないのに、それを行動に移せるほどの余裕が今の明依にはなかった。

 最後の一人が倒れた事と、終夜がすぐそばについたのは同じタイミングだった。
 十六夜の持つ刀の切先は、明依に向いていた。

「こんなやり方もあるのだと、あなたに学ばせていただきました」

 十六夜はそう言うと、躊躇いなく明依の顔に向かって刀を伸ばす。
 終夜はそれを刀で止めると、金属同士の擦りあう嫌な音がした。

「弱点なのはお互い様だろ」

 すぐ側で聞こえた、聞きなれた声。

 終夜は目を見開いて、すぐに自分の顔の横に腕を出した。
 風を切る音がして間もなく、終夜の身体がその場に耐えきれずに吹き飛んだ。

「相変わらず反応は満点だな、終夜」

 声すら出す間もなく。
 終夜の方へと視線を向ける間もなく。

 明依の視界には、宵がいた。
 頬に手を添えられているのは、終夜の方向へ視線を向ける事を妨げる為だろうか。

「明依」

 そう呼ぶ声が、表情が、本当に、本当に何一つ、いつもの宵と変わりなくて。

 宵が息を吸う。

 自分がどんな表情をしているのか、分からない。
 分からないのに、宵が自分の表情を見て言葉を選ぶのだろうという事は、直感でわかっていた。

「怪我はしてないか?」

 敵だとあっさり思う事が出来れば、どれだけ楽だったか。

 目の前にいるのは、まぎれもなく自分を受け入れてくれた〝宵〟で。
 つい先ほどまで、一緒になるのだと信じて疑わなかった男。

 〝宵〟と〝暮相〟がどうしても紐付かない。

 たくさんの感情が収まる場所を探す。当然、そんな都合のいい場所があるわけもなく。

 ただただ、その場に立ちすくんでいた。