「黎明」

 暁は目を見開いたまま、明依の源氏名を呟いた。
 その目にはどこか鈍い希望がある気がして、どんな言葉をかけるのが正解なのか、明依にはわからなかった。

「娘の方だけどね」

 終夜の言葉を聞いた暁は、少し目を細めてもの寂し気な表情を浮かべた。

「……そうか。もう」
「全部、知ってるよ」
「私にはずっと、お前が守っている様に見えたが。しかし、そうか。……私の(せがれ)の呪いが強かったか」

 暁の言葉に滲む悔しさの様な、悲しさの様な。それは言葉の意味と絡まって自責の念に駆られているのだという事を余す事なく理解できた。

 その言葉は、もう全てを諦めているのだろうと想定するには充分で。
 しかし、その気持ちが明依には痛いくらい理解できた。

 自分のせいで大切な人が死んだ。大切な人を苦しめた。
 もしかすると、目の前の暁も自分のせいで苦しんでいるのではないか。きっと暁も寸分違わず同じ気持ちでいる事だろう。

 違うのは、比べ物にならない程に長い期間、たった一人で自ら責苦を与え続けているという事。
 何とかしなければいけないのに、何もできない。その言い表しようのない感情は、病で〝楽になる〟事さえ自らに許さない。

「私はお前達に、なんと詫びればいいのかわからない」

 終夜に、日奈に、旭に、なんて詫びればいいのかわからない。
 わからないけど、客観的に暁を見て伝えたい言葉は決まっていた。

「私が知りたいと思ったんです」

 謝ってもらって現状が少しでも好転するのなら。過去さえ覆す力があるのなら、何一つ言葉を発することなく暁の話を聞いていただろう。

 暁の気が少しでも楽になるという確信があったなら、それもまた同じことだ。

「真実を知りたいって、私は自分の意志でそう思った」

 言葉というのは時に魔法の様だ。
 人を救いも、貶めもする。

 ただ残念ながら人間の言葉に、過去を覆す効力はなくて。
 そんな言葉で減る罪悪感なら、もうとっくに時効になっているはずだ。

「誰かから無理やり知らされたわけじゃない」

 だから端的に言えば、時間の無駄。
 誰かに詫びてもらう必要なんてどこにもない。

 必死で隠してくれた人の手を振り払って事実を知った。それなのに悲劇のヒロインを気取るなんて。これ以上情けない話はないと明依は確信していた。

 自分で知りたいと思った。
 それ以上も以下もない。ただ、それだけ。

「だから私に謝っていただく必要はありません。私は自分の中にある気持ちを、呪いなんかにしない」

 ほんの少しだけ、強がりが含まれている事は否定しない。
 今でも〝暮相〟と〝宵〟が頭の中で紐付いていない。もしも本人を前にした時、どんな感情が浮かび上がってくるのか、見当もつかないから。

 だけど、現状が変わらないのなら。
 同じ一言なら、暗い言葉より明るい言葉を。
 同じ一瞬なら、絶望よりは希望を。

「だからもう、自分のことを許してあげてください」

 それこそが苦しいと、知っていた。
 終夜を苦しめていた自分を今も許せない。そしてきっとこれから、日奈と旭の死ぬ原因を作った自分を許せなくなるだろう。
 もしかすると自分の存在は周りに不幸を撒いただけだとふさぎ込む時が来るかもしれない。

 しかしきっと、他人から見ればこんなものなのだ。
 もしかするとこれは、自分が救われたくてかけた言葉ではないかと、明依はそんな事を同時に考えていた。

 ただ、思いを伝えるには、こんな言葉じゃまだ弱くて。

「母を――」

 終夜が同行することを許したのは、頭領が逃がした遊女の娘だから。娘の話なら聞くのではないかと最後の希望を託したから。

 そうだと分かっていたから発した〝母〟という言葉の続きに、どんな言葉を選べばいいのかわからなかった。

 母親にどんな種類の気持ちを持っていたのだろう。
 家族として?
 一人の女として?
 あるいは、いろんなものが混じった、複雑なもの。

 わからないから、この言葉を。

「――愛していたのなら」

 愛は関わる個人それぞれに生まれて、色も形も違うと知った。
 血の繋がった両親からの愛。他人を集めた妓楼の中で後天的に育まれた、家族に似た愛。大切で堪らなかった日奈への愛。それから、旭に寄せた想いに、色の違う終夜への想い。

 だからもうこの言葉でダメならきっと、暁の意志は変わらないのだろうという、輪郭のない確信。

 一体どっちだ。気は変わってくれたのだろうか。
 そんな事を考えている時点で、暁の意見が既に修正不可能なくらいに偏っていた事は分かっていたのかもしれない。

 明依の言葉を聞いた暁は、息を漏らす様に穏やかに笑った。

「面影がある。親子なのだな、本当に」

 しみじみそういう暁には先日までに見た威厳というものはなく、漏れ出る様な優しさで満たされている気がした。

「先代もこれくらい可愛気がなかったの?」

 どんな言葉をかけたらいいのか。そう考えている明依の隣で終夜がいつも通りの様子で暁にそう問いかけていた。

 一気に思考が汚染され、こいつ本当にどんな状況でもムカつくなと思ったが、終夜の質問の内容は気になるので黙っておいた。

「愛嬌があり穏やかだったが、物ははっきりと言っていたな」
「ふーん」

 終夜は平坦な口調でそう言う。
 もう嫌な予感はしていたし、何なら覚悟まで決めていた。

「どうして娘には愛嬌も穏やかさもないんだろう」
「どんな状況でも他人をイラつかせる才能は誰から受け継がれたんだろうね」

 終夜の言葉を食うようにしてそういう。
 本当にそろそろ手を出しても罰は当たらないのではと本気で考えている。

「様子は違うが、きっとお前も先代を見たら納得しただろう」

 暁は終夜に視線を向けてからそう言うと、次は明依に視線を向けた。

「他人を心の底から思いやる心根の優しい所も、そのやり方も。彼女の生き写しだ」

 暁の表情は優しい。
 思い出に浸っているのだろうと思った。暁の心の中の思い出にもまだ、美しい部分が残っていたであろう事に、明依は心から安堵した。

 それから思い出を進めれば、また身を裂く様な苦しみが襲う。
 その恐怖を。溢れた水が一気に引く様な感覚を。現実に引き戻される絶望感を。嫌という程知っていた。

「あの着物は、私がお前の母に送った。名を〝黎明〟というが、知っていたか」
「はい」
「では」

 暁はどこか、戯れた口調で言葉を続ける。

「〝吉野〟の名を襲名する前のお前の母の源氏名が〝黎明〟という事は、知っていたか」

 暁の言葉に、明依は思わず目を見開いた。
 吉野は、つまり自分の姐さんが、その姐さんの源氏名を知らなかったはずがない。

和花(よりはな)。現代の吉野大夫がお前の源氏名を決めたと聞いている。吉野は死んだ自分の姐の源氏名を、お前に充てた。……お前を見て何を思ったのか。もしかすると姐さんの面影を感じたのかもしれない。今の私と、同じように」

 だから双子の幽霊も高尾も〝黎明〟という源氏名について話をしたのか。納得がいく点がたくさんあって。
 もう笑うしかないくらい、裏側で知らないたくさんの事が回っていて。絶望も、希望もあって。

 吉野は最初からずっと、期待し信頼してくれていたのだろうか。
 そう考えるとそれに応えられたこと、つまり自分らしく生きている現状に、心底安堵している。
 幸福感よりも、穏やかで暖かい気持ちに包まれていた。

「交わした酒の味を、今でもよく覚えている」

 そういう暁はきっと、現実と思い出の狭間にいる。だから少し悲しそうな顔をしているのだと思った。

「蒸す夏の夜に、燗酒(かんざけ)を飲んだ。座敷に入り込んだ風で身体を冷やしながら。実に美味かった。……彼女も『美味しい』と言いながら飲んでいたが、もしかすると夏の暑い日に熱い酒なんて飲ませるなと、思っていたかもしれないな」

 暁は戯けた様に笑う。
 母の知らない一面に触れる。それはやはり、死んだ日奈と旭の知らない部分に触れる感覚と同じで、嬉しかった。

 母はどんな事を思っていたんだろう。性格を考慮して考えてみると、あっさりと答えは出る。

「自分が普段選ぶ事のない選択を、物珍しく楽しんでいたのだと思います」

 明依の知る限り、母親は他人の意見を否定したり拒絶したりする人ではなかった。

 夏の暑い日に、熱い酒を飲む。
 自らが選ぶことのない状況に物珍しさを感じて、心からその場を楽しんでいたのだろう。
 もしかすると、吉原という狭い世界の中でも、自分の知らない世界を見せてくれることに心が躍っていたのではないかとさえ思った。

 例えば、非日常を味わわせてくれる、終夜みたいに。

「お前がそういうなら、そうなのだろうな」

 穏やかに。どこか嬉しそうに笑う暁を見て嬉しくなった。

 本心だ。忖度なんて何もない。
 ただその言葉が明けない夜を、月すら見えないただ暗いだけ夜を、一歩先だけでも照らせるくらいの光に。心の荷をひと時降ろせる、寄る辺になれたなら。ここへ来た意味が全くなかったとは思わない。

 しかしもう、何となく察している。
 きっと暁は、この場から逃げ出すつもりは毛頭ないのだろうという事。

「随分、肩身の狭い思いをした」

 先ほどの会話の延長。重苦しくない口調。それでも、もう暁との別れは近いのだと察するには充分で。

「この吉原の街の現状を、終夜が一人で抱え込んでいる事に気が付いても。信頼して妓楼を任せた人間が自分の倅だと気付いても。お前がこの街に縛られようとしている時も。何もできずただ見ているしかなかった。……飾られた肩書など、重荷なだけだな」
「……だから言ったじゃないですか。さっさと俺に譲ってよ、って」

 まるで世間話。そんな口調で言葉を返す終夜の表情は、決して明るいものではなかった。

「さっさと頭領の座を俺に譲って、隠居生活でもしてればよかったんだ」
「吉原に興味関心のないお前にか、とそう問いかけたはずだ」
「だから俺は答えた『でももう俺しかいないでしょ』って。いつまでも頭領が決断しないでみっともなくしがみついているから、こんなややこしい事になったんだ」

 終夜は戯けたように、それでいてありったけの恨み言を吐き捨てる。
 『あのジジィを引きずり降ろさなきゃね』
 前にそう言った終夜の言葉は、まぎれもなく愛情だったのだろう。

 実際問題。主郭内から評判の悪い終夜を独断で頭領に上げるとなると、吉原は内側から崩れるだろう。
 終夜はその場合の次の策を持っていたのだろうか。

「口の悪い奴だ」

 いつもの様子なのか、暁は笑いながらそういう。

「アンタは他人を頼らなさすぎなんだ、頭領」

 切羽詰まった響きを持った、終夜の口調。

 いったいどの口が言うのかと、明依は思った。
 明依には頭領も終夜も、全く同じに思えた。他人を頼らず、全て一人で抱え込む。
 もしかすると終夜は、その事に気付いていないのかもしれない。

「生きていてほしいんだよ」

 終夜は先ほどよりも明確に、感情をあらわにする。
 いつもとは全く違った様子の終夜がすっと吸った息が、喉元で震えていた。

「俺はまだ、居場所を与えてもらった恩を、アンタに返せてない」

 これほど感情を表に出す終夜を見るのは初めてだった。

「何を言うか、バカ者」

 暁はあっさりとした軽い口調でそう。
 まるで、孫を可愛がるおじいちゃんみたいに。

「お前はどうしようもないこの吉原の混沌に、たった一人で向き合ってくれた。誰にも頼らず。私にも隠して」
「結局気付かれた。俺の甘さだ」
「いや、お前が教えてくれた」
「俺が……?」
「相変わらず、洞察力はあるが他人の深い部分を察して動くことは苦手なのだな」

 終夜はどういうことなのかわからないと言った様子で、暁の言葉の続きを待っていた。

「お前という人間を見て、知り、考える。そうすれば自ずと答えは出る。どうして終夜はそういう行動をとっているのか。決して利己的な理由ではない事は明らかだった」

 相変わらず、暁が終夜に向ける視線は、本当に優しい。

「お前が〝吉原の厄災〟と呼ばれ始めても、私は一度としてお前を疑った事はない。……ずっとそうだったじゃないか。私は知っていた。きっと、旭も。それから、雛菊も」

 暁はそう言うと、目を見開いている終夜の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。

「お前は昔から誰より優しい子だ、終夜」

 自然な色の暖色とそれを反射した水面が淡く映った終夜の瞳が、かすかに光った気がした。

「他人の為に自らの感情すらあっさりと捨てる、大バカ者だがな」

 一体暁は、どれほど終夜という人間について考えたのだろう。

 なんて説得力のある言葉だと、明依は思った。
 今聞いたその言葉で、自分の中のまだ不完全で揺れていた終夜という男が明らかな輪郭を持った。
 そして自分自身が心の底から納得し、受け入れている。

 やはり言葉というのは使い方によっては魔法の様だと思った。

 まもなく、この場所にも地獄が訪れる。

 やっと二人が互いに素直になれたこの瞬間。今この時に時間が止まってしまえばいいのにと、心の底から思っていた。