確かに終夜は、何度も嘘をついた。人を騙してきた。
 全て終夜の手の内で踊らされていないと断言するには終夜は頭がよく、その前科もある。

「私の命も一緒に賭けます」

 明依の言葉に、炎天とその後ろにいる男たち、それから終夜さえ目を見開いている。

 今更じゃないか。終夜は確かに嘘をつく。ただ、人間は誰しも小さな嘘をつくものだ。

 ただ、自分の目で見た終夜は誠実な人だ。

 何よりも、他の誰でもない自分が、終夜を信じたいというのだ。心中立てまでした。命を賭けるなんて当然の事だ。そこに、何の迷いもなかった。

「だからどうか、話を聞いてください。炎天さん」

 明依の発した言葉に、勝山がニヤリと笑う。

「女の街・吉原の頂点に立つ松ノ位が二人も命張ってんだ。道を譲らない理由はないはずだ」

 男たちは戸惑っている様子だったが、炎天の「道をあけろ」という小さな指示に、素直に道をあけた。
 今しがた作られた道を、先に終夜が歩く。それに釣られて明依も彼の後ろを歩いた。

「終夜」

 人の避けた道を歩き切った後、いつも通りの様子で名前を呼ぶ勝山の声に終夜は足を止めた。明依は終夜を見たが、彼に振り返る様子はない。代わりにもならないが、明依が勝山の方向へ振り返った。

「どれだけ崇高な志があろうと、他人の人生を奪う理由には及ばない」

 はっきりとした口調でそう言い切る勝山の言葉が、胸をチクリと刺した。
 その言葉は、今の終夜にはあまりにも無慈悲に思えて。
 しかし、本当に無慈悲なのは終夜の方だという事も知っていた。

「今日、山ほど殺した人間の中には見知った顔も多かったろう。今、道を譲ってアンタを通した人の中には、同じ釜の飯を食った同士をアンタに殺されたヤツもいるはずだ」

 明依は道を譲った男たちの顔を眺める、勝山の言葉を聞いて俯く人も、悔しそうな顔をしている人がいる。

 確かにそうだ。見知った顔を殺された人間に道を譲るなんて、余程の覚悟と決心が必要だったろう。命を落としても構わないという覚悟でここに来た人もいるに違いない。

 もし自分が同じことをされていたら、道をあけられるだろうか。

 きっと誰もが、組織の統率を取る為に単独行動をしない様に、上の指示に忠実に従って道をあけている。

 旭が死んだと聞いて仕事を放り出して主郭に向かった明依には、その凄さをまじまじと感じられた。
 きっと〝組織〟というものが肌に合わない単独行動を好む終夜も、同じことだろう。

「楽な方を選ぶんじゃないよ」

 勝山の放つ、厳しく無慈悲にも思えるその言葉に、終夜はなぜか息を呑む。それから黙った。まるで、言葉に迷っているみたいに。

「……わかってるよ」

 ぼそりと呟いた終夜の声には温かさが含まれている気がした。
 終夜は結局振り返ることはしないまま、一歩を踏み出す。

「ありがとう。道、譲ってくれて」

 そういう終夜に目を見開いたのは、勝山以外の全員。

 明依は先を歩く終夜を少し視線で追った後、もう一度振り返って勝山に視線を移した。勝山は笑いながらさっさと行けとでも言いたげに犬を追い払う様に手を数回払う。

 少しずつ地獄に近付いているというのに、ほんのり灯る様な明るい気持ちを希望の様に思った。
 それは腹の底から、自尊心の様な、誇りの様な何かを連れてくる。

 角を曲がり、建物の下層から上層までが口の字型に中抜けしている広い廊下に出た。
 終夜から一度断られたらもう自分から手を繋いだらいけないなんて、一体いつ、だれが決めたんだろう。

「走ろう、終夜。あと少しでしょ」

 明依はそう言うと、終夜の手を取って少し前を走って彼を引っ張った。

 地獄の底までついて行く。
 遊女が心中立てまでしたのだから、その責任を果たさなければ。

 終夜は握られた明依の手を振りほどくことなく、そっと握り返した。
 きっと大丈夫だ。終夜なら、きっと大丈夫。絶対に生きて戻ってくる。

 その瞬間、まるで走馬灯のように宵との思い出が駆け巡った。

 剥製の遊女が怖くて急に訪ねた夜の胸の高鳴り。
 三浦屋からの帰り道に二人で見た綺麗な月に、夜の静けさ。
 夏祭り穏やかなひととき。
 日奈と三人で食べたうどんの味。
 日奈と旭と宵と、四人で笑い合った時間。

 『宵兄さん!』と明るい声で三分の一の世界を、大切だった彼を呼ぶ自分の声が、頭の中に響いて。

 〝宵〟は、死ぬのだろうか。

 整理しきれなくなった脳みそが率先して身体の動きを止めた事と、近くで爆発音が聞こえたのは同じタイミングだった。

 その音で一瞬にして思考が切り替わった明依は、音のした方へと視線を向ける。視界の端で何かが動いて、朱色の手すりから身を乗り出して下を見た。

 二つ下の階には、夕霧と晴朗が攻防戦を繰り広げていた。

 晴朗の刀を避ける為に大きく後ろに下がった夕霧が足をつけた場所のさらに後ろには亀裂が入っていて、着地と共にメキメキと嫌な音を立てて、亀裂が大きくなった。

 夕霧はそれに気付いていない。

「夕ぎ、」

 夕霧の名を叫ぼうとしたとき、終夜が後ろから明依の口を手でふさいだ。

「今、名前なんて呼んだら致命傷になる」

 晴朗の刀が夕霧の首、ギリギリを通る。
 終夜は明依の口から手を放すと、軽く手すりに触れて二人の様子に視線を移した。

「何度も爆発しているから、その衝撃で亀裂が入ったのかもしれない。ただでさえこの建物は劣化してるんだ。これだけの抗争がおきれば、壊れても何もおかしくない」
「そんな……こんな高い所から落ちたら……」

 こんなところから落ちたら、大けがでは済まないだろう。

 あたりを見回してみても、何の解決策も浮かばなかった。
 どうしようもない状態だというのに、どうにかしたくて。

「助けに行く?」

 終夜はどこか抑えた口調でそういう。
 助けてと言えば、それを叶えるとでも言いたげな様子で。

 しかしそうなると、たくさんの人の思いが無駄になって。
 吉原に未来はないかもしれない。

 そんな事を考えている間にも当然、時間は流れていて。足を引いた夕霧の着地した場所から足場が崩れていく。

「夕霧大夫!!」

 夕霧は自分の足場を見て目を見開いた後、すぐに明依と終夜の方向へと視線を向けた。

「何してるの!!さっさと行きなさい!!」

 そういう言った夕霧の言葉を最後に足場は崩れる。
 だめだ。もう真っ逆さまに、最下層まで落ちる。

 そう思ったのもつかの間、晴朗が刀を手放した手で崩れていない朱色の手すりを掴み、もう片方の手で底に落ちようとしていた夕霧の手を握った。

「晴朗さん……!」

 先ほどまで戦っていた晴朗にどんな感情の変化があるのかは知らない。
 ただ、もう期待をかける以外に方法はなくて。それが形になったものが彼の名前を呼ぶこと。しかし、顛末を見守る事しか出来ないという事実には何一つ変わりはない。

「……晴朗」

 思う所があるのか、終夜はぼそりと彼の名前を呟く。

 夕霧は驚いた顔で晴朗を見上げていた。晴朗は、深く深くため息をつく。
 音を立てて、二人のすぐそばの床が歪む。

「覚えておいた方がいい、香夜。男は何もかも自分に依存する女は嫌いですよ」

 いつも通りの口調でそういう晴朗に、夕霧は驚いていた表情を引っ込めていつもの挑発的な表情を作る。
 しかしどこか、寂しそうにも見えて。

 その間にも、足場はゆっくり形を変える。
 どちらかが少しでも動いたらきっと、呆気なく崩れていくだろう。

「女の強い部分は嫌うくせに、ほんの少しのスパイスはいるのよ。……いつでも自分が、少しだけ上に立っていたいと思っている」

 何とかしないと。そう思っているのに、何も出来ないことは分かっていて。

 夕霧は綺麗な顔で笑った。

「それなのにどうしてあなたが今、私の手を握っているのか。知りたくない?」

 夕霧の言葉に、晴朗は鼻で笑った。
 まもなく崩れる。その間にも二人の身体は少しずつ、重力に従って傾いていた。
 
「興味ないですね」

 その言葉を待っていたかのように、呆気なく崩れた足場と共に、二人は宙に放り出された。

「夕霧大夫!!晴朗さん!!」

 夕霧たちのいた場所の足場や手すりは、複数階の建物を崩しながらさらに下層へ。
 爆発音よりも低い音を響かせて瓦礫が落ちる。二人の安否を確認しようとさらに手すりに身を乗り出しても、粉塵で何も見えない。

「行こう。時間を無駄に出来ない」

 唖然としている明依に、終夜はいたって冷静にそう声をかける。あまりにも残酷で、涙が零れそうになって唇を噛みしめて堪えた。

 行かないとたくさんの人の思いが無駄になる。わかっているのに、整理しきれない悲しみをどうすることも出来なくて。

 終夜はずっとこんな思いの中で、葛藤の中で戦っていたのだろうか。
 たった一人で。

 誰かがいても孤独な世界がある事なんて、知らなかった。
 すぐ側に、終夜がいるのに。

 先を歩く終夜を追いかけるよりも前に、明依はもう一度夕霧と晴朗が落ちて行った場所を見たが、やはり粉塵でぼやけて何も見ることが出来なかった。

 それからすぐに見えたのは、覚えのある場所。裏の頭領の居住区だった。
 終夜は靴を脱ぐこともなく、土足で足を踏み入れる。少し悩んだが、明依も土足のまま足を踏み入れる事にして、終夜の後ろに続く。

 シンと静まり返った廊下を歩く。自分の気持ちがそうさせるのか、この空間はまるであの裏の頭領の威厳をそのまま鑑写しにした様な緊張感と静けさで満ちている様な気がした。

 終夜は前回入った場所を通り越して、さらに先へ歩いて行く。
 木でできた重厚感のある引き戸の前には、二人の陰がいた。

「ご苦労様」

 終夜がそう言うと、二人の陰は終夜に向かって深く頭を下げた。

「お変わりありません」
「……良いんだか悪いんだか」

 陰の言葉に終夜は呆れたようにそう言うと、陰が開けた扉の中に入る。
 明依が二人の陰の様子を見ながら終夜の後ろに続こうとすると、二人の陰はまた深く頭を下げた。
 それにぺこりと頭を下げて部屋の中に入る。

 そこはまるで、現実と隔離することを目的として造られた様な空間だった。

 薄く凪ぐ水面。水面を裂く様に真っ直ぐに伸びる橋を点々と照らすのは、吉原の提灯に囲まれた火の光とは違う、むき出しでいたって自然な火の明かり。開いた花を模した蝋燭。

 その橋の先には瓦張りの屋根から四つの柱が下りた、趣のある四阿(あずまや)がぽつりと浮かんでいる。
 どこまでも続いている様にすら錯覚する壁は黒を光でぼやけさせた様な、藍色。
 それは真夜中の静寂の空を思わせた。

 押し付けられた様な幻想感が感情を迷子にする。奇妙な不安を煽る不思議な感情に巻き込まれていると、後ろで扉が閉まる音がした。

 後ろを振り返ると、たった今閉まったであろう重厚感のある扉が場違いに浮いて見える。それを直視しても、ここが室内とは思えなかった。

 慣れた様に先を歩く終夜において行かれない様に、明依は落ち着きなく顔を四方八方に動かしながら辺りを見回した。

 終夜は水の中に浮いた橋をまっすぐに歩き、四阿の入り口で足を止めた。

「まだ逃げないんですか?」

 その声にはっとして景色から視線を移すと、四阿の中には四方を囲むように外側を向いて立つ四人の陰と、胡坐をかき目を閉じて俯いている裏の頭領、暁がいた。

「逃げる気はないと言ったはずだが」

 俯いた顔を上げた暁は、終夜としっかりと目を合わせる。
 その風格はどこか、以前あった時よりもぼやけている様に思えた。

「これでダメなら諦めるよ」

 終夜はそう言うと、自分の背にいた明依を披露するように横にずれた。

 暁は今の今まで気が付かなかったのか、目を見開いて明依を見ていた。