「行くよ」

 明依と目を合わせる事もなく隣を通りすぎた終夜は、先ほどまで背を預けていた机を足で押しやり倒した。それが血まみれの障子をぶち破り、廊下の光が部屋の中に入り込む。

「俺が死ぬまでなら、ついでに守ってあげる」

 はっきり〝俺が死ぬまでなら〟と口にする。
 まるで何かを振り切って、気持ちが晴れたみたいに。

 終夜に対する恐怖心が芽生えた事に対して罪悪感が顔を出したのは、そう言った終夜が部屋から廊下へ出た時だった。

 抱きしめ合った温もりも、惨劇も、何もかも忘れてしまったのかと思う程にいつも通りの口調、いつも通りの態度。
 終夜は廊下で息絶えている男の力の抜けた手から刀を取ると、鞘に納めて腰布に通した。そしてその男の懐から銃を取り出す。

 振り返ると、廊下の光が入った物置部屋が光と影を強調していた。血は廊下から溢れた光を吸って、先ほどよりも強く鈍く光っている。

 この惨劇が現実で、終夜が招いた事実。うまく飲み込むことが出来ないままの景色は、まるで絵を眺めてような。
 しかし、また目が見開かれた死体と目が合って、明依はすぐに廊下へ出ようと振り返る。この場所から一秒でも早く逃げ出したかった。

「何だこれは……!」

 足場が悪い。足元を確認しながら倒れた机を踏んだ所で聞こえた声に、明依ははっとして顔を上げようとした。
 それより前に、二度の銃声。びくりと肩を浮かせながら反射的に目を閉じたが、すぐに目を開けて顔を上げた。先ほど通ってきた方向を向いていた終夜が、左手を差し出しながらこちらを向いた所だった。

「早く」

 裏返った机に足をかけている明依に、終夜が手を差し出す。しかし、終夜は周囲を警戒していて視線が絡む事はなかった。

 明依が終夜の手を握ると、彼は机と障子と荷物と死体とでバランスの悪い足元をうまく先導しながら、明依を廊下の外に出す。

 手を握られたことで心の距離が離れてしまったと感じるのは、きっと気のせいじゃない。

 明依のよく知る終夜は、足場が悪いくらいで手を差し伸べる様な出来た男じゃない。
 これなら、〝おいて行くよ〟と言われた方がどれだけ気が楽だったことか。

 逃げ出したはずの廊下もまた、地獄絵図。
 腹部や首を切られた男たちが横たわっていた。

 なるべく死体を見ないようにして歩く。死体を越えた後、終夜の手が隙間を縫って解ける様に離れようとした。明依は咄嗟に、その手を握る。

「はなして。戦えない」
「ダメ。……怖いから」
「怖がるところ間違ってるよ」

 どんな言葉を言えばいいのか。考えていたのは一瞬で、すぐそばで聞こえた銃声に明依は再び肩を浮かせて息を呑んだ。
 進行方向にいる男が壁にもたれた後、ずるずると滑る様にして床に突っ伏した。頭から血を流している。状況を整理するより前に、明依の視界には終夜の背中が映った。

「死体なんてまじまじ見るモンじゃないよ。一生物の傷になる」

 終夜の右手から放られた銃が、死体と死体の間に鈍い音を立てて落ちる。

 もう手を握る素振りすら見せずに先を歩く終夜は、今しがた殺した男の手から銃を取った。
 ついさきほど終夜に言われたばかりだというのに、自分の後ろに何があるかわかっていて振り返った。

 横たわるたくさんの死体の向こう。廊下の端に二人。頭から血を流して死んでいる男がいる。その二人が、自分が廊下に出る前に終夜が右手で持った銃で殺した男だと確信する事にそう時間は必要なかった。

 落ち着かない恐怖心、心臓がいつまでもうるさい。気持ちの整理が付かないまま、終夜の後ろを歩いた。

 その中にあるのは、まぎれもない安心感。
 終夜が強くてよかったという気持ち。簡単に死なないという事を証明しているみたいで。たくさんの死体の前であまりにも自分勝手な感情は、こんな精神状態でも最後の力を振り絞ってほんのりとした自己嫌悪を誘発している。

 終夜が平気な顔をして人を殺す人間だと知っていた。宵に遮られてみる事はなかったが、実際に目の前で朔を殺し、楪や警察官を手にかけた事を他の誰でもない終夜から聞いた。
 しかし思い返してみれば、終夜が人を殺すところをこの目で見たのは初めてだ。

 今日終夜は、少なくとも行動を共にしてから今の今まで人を殺さなかった。

 終夜は恐怖に染まる自分の顔を見て何を思ったんだろう。息一つ乱れていない。血一滴すらついていない終夜の背中を見ながら、明依はそんなことを思った。

 それから地面を揺らすような爆発音が、主郭の中に響いた。

「これ、何?」
「吉原の力を分散する為の宵の仕掛けかもね。……もうすぐ着くよ。走れる?」

 明依は返事をしようとしたが、目の前で動きを止めた終夜の背中にぶつかりそうになって、口をつぐんだ。

「行かせんぞ、終夜」

 明依が終夜の背中から顔を覗かせると、そこにいたのは炎天と二十人ほどの主郭の男たちだった。

「お客様が来てるんじゃなかったっけ?」

 終夜はゆっくりと息を吐きながら俯いて、いつも通りの口調でそういう。

「ただの刺客など恐れるに足りない。お前に比べればな。陰数人で事足りる」
「炎天さん、違、」
「吉原の本当の敵はお前だ、終夜。たくさんの身内を殺した。弁解の余地はない」

 反論する声を炎天に遮られた明依が押し黙ると、終夜はもう一度ゆっくりと呼吸をした。

「後の事はもう各々自己責任。手加減はしないって、警告はしたはずだけど」

 相変わらずいつも通りの口調。しかし顔を上げた終夜の表情は無機質で。

「本当にさ、お前は学ばないね。炎天」

 すぐそばで、終夜の静かな怒りを感じていた。

「……終夜、やめて」

 触れる事さえ起爆剤になりそうで、すぐそばにいる終夜にただそう声をかける以外の方法が見当たらなかった。

「明依。こっちに来い。そこは危ない」
「話し合おうよ……!終夜!」

 声が届かない事は、もう知っていた。
 『話し合いなんかで解決できるなら、こんな事にはなってない』と、終夜の口からそう聞いたんだから。
 口をついて出た言葉だという事は、きっと終夜も知ってるのだろう。だから相手にすることもなく、刀を握る。

 終夜が人を殺すところなんて見たくなくて。ただそれはもしかすると、終夜という人間の今までの全てを否定する行為なのかもしれない。

 怖い。無慈悲に人を殺す終夜が。
 何の前触れもなく人を殺した先ほどと違って、これから確実に人を殺すと分かっている終夜を見ていると、明確な恐怖が足音を立てて迫ってきている様だった。

「師弟ってのは、血の繋がりより似るモンなのかねェ」

 場違いに明るい、ピンと張った声。
 聞きなじみのある声だった。

「結局アンタも守ろうとした女に怖がられてる」
「……勝山大夫」

 終夜の隣に並んで、意地悪な笑顔を浮かべて彼を見ているのは勝山だった。明依の放った言葉を聞いた後、終夜はゆっくりと息を吐いた。

「いつもいつも俺の邪魔をする。嫌がらせですか」
「何とかしてやる」

 終夜の言葉に間髪入れずにそう言う勝山の表情は、凛と真っ直ぐで。

「わかったなら、その刀から手を放しな」

 滅多に見せない、勝山の松ノ位の風格。終夜は少し間を開けてから、刀を持つ手の力をほんの少し緩めた。

「どうしてお前がここに居る、勝山大夫」
「なに。死んだ人間の尻ばかり追っかけてるアンタに、説教の一つでも垂れてやろうと思ったのさ」
「……こそこそと松ノ位が動いているという報告は受けている。終夜の味方をしに来たのなら、命の保証はないと思え」
「炎天、アンタは本当に何もわかっちゃいないね。だから女が寄り付かないのさ」
「なんだと!?」

 勝山はあっさりとした様子でそういうが、炎天は感情をあらわにして声を荒げていた。

「断言していい。人様に命の保証をしてほしい人間なんて、松ノ位にはいやしない」
「どうしてそう言い切れる」
「松ノ位に上がる人間には、共通点があるからさ」
「共通点……?なんだそれは」
「ちなみに」
「……なんだ」

 勝山の中途半端に区切った言葉が気になるのか、炎天は声を抑えた様子で問いかける。

「あと20若くて絶世の美女だったとしても、アンタは松ノ位には上がれない」
「貴様、言わせておけば……!!」

 今にもとびかかりそうな様子の炎天に、後ろにいる男たちは「落ち着いてください!!!」と声をかけてなだめていた。

「どいつもこいつも、自分(てめェ)の居場所くらいは自分(てめェ)で守らないと気が済まない性分でね。松ノ位なんてのはみーんな、男から見たら可愛げがないのさ」

 確かに松ノ位は誰もが精神的に自立していて、一人で真っ直ぐに立っている。その理由も、もう知っていた。

「本題だ、炎天。叢雲は死んだ。でも、暮相は生きている」

 勝山の短い言葉で、炎天たちの雰囲気が変わった。

「……何を、バカな」
「終夜に吉原の未来がかかってる。全部説明してやる。だから終夜と黎明を通しな」
「そんな話が信用できる訳、」
「繋がってんのさ、全部。全てに理由がある。終夜が宵を捉えたことも、吉野の身請け話を延期したことも。叢雲が死んだことも。暮相が死んだことにも、だ」
「何を……」
「黙って話を聞きな。……もう、選択を間違えるのは嫌だろう」

 勝山の圧に押されたのか、炎天は二の句を紡げず、そのまま押し黙った。

「人の上に立つのなら、人の話に耳を傾けなければいけない。気性の荒い吉原の人間をまとめ上げている裏の頭領ならどうするか、分かるはずだ。アンタはそこまでバカじゃない」
「……この男は平気で嘘をつくぞ。その話が嘘だったら?お前が終夜に騙されていた場合はどうする」
「もしも私が終夜に騙されていた時は――」

 間髪入れずに言葉を紡ぐ勝山は二度、大きく開いた胸の中央を人差し指と中指の二本で叩いた。

「――私の命をやろう」

あっけらかんとそういう勝山に、炎天は言葉をなくしている。

「……勝山大夫」

 これにはさすがの終夜も驚いたのか、彼女の名前を呟きながら目を見開いて、一本筋が通った様にすっと背筋をのばした勝山の背中を見ていた。