「痛みが止むまで待ちましょうか、終夜」

 晴朗はただ終夜と戦いたいだけ。
 そんな晴朗に現状をどう話してもわかってもらう事は出来ないだろう。

 絶望的な状態。
 それから、こんなに側にいるのに終夜がどんな気持ちでいるのかわからない事が、無意味に明依を焦らせていた。

 終夜はため息よりも浅く、そして長く息を吐いた。

「いいよ、別に」

 終夜が立ち上がる。その動きで、彼の背中に触れていた明依の手がそれをなぞる。

 引き留めたい。
 そう思っているのに出来ないのは、一瞬の隙が終夜の命に関わる状況だと理解しているから。

 だから、もうこんなに傷ついている終夜を引き留める事が出来ず。守ることも出来ない。

 このもどかしさは、今の自分と終夜の関係に似ていて。
 それがただ、胸を騒がしている。何の力もない人間はそれをただ、眺めているだけ。

 そう考えている間に人差し指、それから中指が終夜から離れて体温から室温へ。

 もしも〝暇〟と片付けた時間の全てを自分を磨く事に注いでいたとしたら、終夜や晴朗程とまではいかなくても、少しくらいは力になれたかもしれないのに。

 終夜の背中から視線を逸らさずに立ち上がった明依は、やはりどうすることも出来ないまま。

「会いたかったわ、晴朗」

 艶があり、同時に愛らしくもある声が聞こえて、この部屋にもう一人誰かがいる事に気が付いた明依は終夜の背中から視線を移した。

「……夕霧大夫」

 終夜がそう呼んだ声と、明依の視界に夕霧が入ったのは、ほとんど同じタイミングだった。夕霧は晴朗の後ろから彼の腹部に腕を回している。
 いつの間に。そう驚いている明依とは相反して、晴朗は驚いた表情も見せずに、自分に絡みつく夕霧の方へとほんの少しだけ顔を傾けた。

「どうしてあなたがここに?」
「二度は言わないわ」

 先ほどと何も変わらない口調で夕霧はそう言うと、すり寄る猫の様にしなやかな動きでさらに彼に身体を近付ける。
 呆れた、とでも言わんばかりに、晴朗は溜息を吐き捨てた。

「もしかして、僕と対等に戦えると考えて。引き留められると考えてここに居るんですか」
「どうかしら。それはやってみないと分からないわね」

 夕霧の言葉に晴朗はあざ笑う様に息を漏らして笑う。

「あなたらしくないですね、香夜(かや)。自分を見誤るなんて。……何の工夫もなく、弟子が師を超える事はない。当然だと思いませんか」

 どうして急に師弟の話になるのか。
 師弟というのは吉原では、芸事を教わる人と習う人という意味でしか使われない。

 繋がる糸を手繰り寄せる事が出来ないまま、明依は二人の話に耳を傾けている。

「断言していい。あなたは僕に傷一つ付けられない」
「それについても、二度は言わないわね」
「本気でそう思っているのなら、身の程を知ったほうがいい」
「じゃあ、あなたが教えて」

 夕霧の声は挑発的で、色が絡まったように情欲をそそる様で。それでいて、穏やかで。
 思わず息を呑みそうになる明依とは相反して、晴朗はその夕霧の様子にも表情一つ変えない。

「私たちの関係って、何かしら」

 そういうが、夕霧に答えが欲しい様子はない。
 それが分かっているのか、晴朗に口を開く様子はなかった。

「確かめてみない?私のお師匠さま」

 夕霧が晴朗を〝師匠〟と呼ぶ理由が、すぐには理解できなかった。
 思い浮かんだのは、先ほどと同じこと。師匠と言えば吉原では芸事を教える人を指す。そこまで考えてひらめきの様に一つ、降ってくる。

 あれは、満月屋の座敷で晴朗に殺されかけた後の事だ。

 『やはり肝が据わっている。本気で殺しにかかってきた人間を前にして、平然としていられるなんて。それほどの度胸があるなら、僕が仕込みたいくらいです。――どうですか?』

 その言葉に、どうしてこの年齢になって悪事に手を染めないといけないのかと思ったが、あれには夕霧という前例があったという事だ。

「夕霧大夫……陰じゃないんですか」
「違うわよ」

 ほとんど確信したことを問いかけると、夕霧はあっさりそう答える。

 しかし、二人はタバコの火をわけあっていた。扇屋でのあのやりとりも。とても師弟関係とは思えない。
 もっともっと精神的な距離が近い。いろいろな考えが巡った後、先ほどの夕霧の言葉にたどり着いた。

 〝私たちの関係って、何かしら〟

 夕霧が魅せる世界の入り口として使われた言葉。
 どうしてだろう。それが、ベールに包まれた夕霧の気持ちの核心の様な気がして。
 きっと関係に名前がないと知っていて、でも明確にしたくて。

 明依は終夜の背中を見た。夕霧の気持ちが、痛いほどよく分かるから。

「所詮は、俄仕込(にわかじこ)みです」

 はっきりとそう言い切る晴朗に、明依は終夜から視線を移した。

「頼まれたから軽く仕込んだ程度。それだけを生業にしている人間と対等に戦えるはずがない」

 それを聞いた夕霧は、そっと目を閉じた。
 まるですぐそばにいる、表情の見えない晴朗の雰囲気を感じているみたいに。

 夕霧は何も言わない。その気持ちも手に取る様にわかった。
 何か言ってしまえば、この殻に閉じこもったような穏やかな時間が終わってしまうと知っているから。

 どうするのかが正解なのかもわからないまま過ぎた時間はきっと、数秒。
 
 夕霧はゆっくりと目を開けると、すっと息を吸い込んだ。

「アドバイスをありがとう。参考にするわね」

 夕霧がそう言った途端、晴朗は何のためらいもなく彼女を振り払うそぶりを見せた。しかし夕霧は、それよりも前にわざとらしく両手を顔の横に上げて晴朗から距離を取った。

「せっかちね。そんなに急かさないで」

 そういって余裕の様子で笑っている夕霧は、いつも通り。
 晴朗と終夜はきっと、この女心に気が付かないだろう。

「邪魔をするなら殺します」

 晴朗がそういうのならきっと、本当に殺す気でいるのだろう。例えそれが情のある女が相手なのだとしても、弟子だとしても。

 終夜が片足を半歩、後ろに下げた。その途端、晴朗が刀を鞘から抜きながらこちらに向かって走ってくる。

「興味があるわ」

 大きな破裂音が聞こえた途端、ほんの少し角度を変えた晴朗の顔のすぐ横を何かが通る。晴朗は一歩踏みしめるようにして立ち止まった。それから目を見開き、夕霧へと視線を移した。

「らしくない顔をするのね」

 挑発的な口調でそう問いかける夕霧が握っているのは拳銃だった。

「……銃の扱い方(そんなもの)を教えた覚えはありませんが」
「もしかして、自分だけが仕込んだ女だと思っていたの」

 淡々とした口調でそういう晴朗に、やはり挑発的な様子の夕霧は、瞬きをひとつすると少し顎を上げて、はっきりとした色気を纏った笑顔を作った。

「可哀想にね、晴朗」

 色のある口調で、どこか子どもに向けるような言葉を選ぶ夕霧は、晴朗の背に頬を寄せていた時とは別人ではないかと思う程。

「死ぬ覚悟があるんですね」
「あなたが私を殺せるならの話よね」
「誰もが自分に入れ揚げのめり込むと思っているなら、傲慢ですよ」
「自分の評価が私の人生に価値があると思っているなら、傲慢なのはあなたの方よ」

 どうしてはっきりと、そんな言葉を言えるのだろう。
 あんな顔をして頬を寄せていた相手に。

「私はね、晴朗。私以外の誰かにどう思われようと構わないの。私自身の評価が、私の自信が底に触れる事に比べれば、愛らしいくらいね」

 そう言った後、夕霧はまた挑発的な笑顔を作る。

「だから私は、美しいのよ」

 あんな顔をする男にも、夕霧は他の誰とも違わない言葉を向ける。
 自分の美しさの根本が、自分の中だけにあるという夕霧の確信。

 はっきりとそう言い切る夕霧に、とくんと確かに胸が鳴った。まるで夕霧の美しさの秘密を打ち明けられた様に思ったから。

「理解できません。ただ、自分のすべきことは分かりました」

 そう言うと晴朗は、終夜から夕霧の方向へと向き直った。
 夕霧が死んでしまう。そう思っているのに、どうすることも出来ない。悔しいよりも焦り、それをも通り越して襲う悲しみは、何もかもを巻き込まれているみたいに、感情をまとまりのないものにする。

「世界は広いけれど、本気で自分を殺そうとした男に会いたいなんていう物好きな女はそういないわ」

 それが自分の事を言われていると気づいた明依は夕霧を見る。しかし、彼女と視線を絡むことはなかった。
 夕霧は晴朗から視線を逸らさない。しかしその言葉はきっと、晴朗に宛ててはいない。

「たまには拾ったものを数えるのも悪くないものよ」

 夕霧はそう言うと、ふっと笑いを漏らした。

「さっさと行きなさい」
「……ありがとうございます。夕霧大夫」

 終夜はそう言うと、明依の手を掴んで走った。

「夕霧大夫、」
「どうせすぐに追いつく」

 このままだと夕霧は死んでしまう。だけどここでいかなければ、吉原の未来も、終夜の未来もないかもしれなくて。だから終夜に手を引かれるまま、何もできる事がなく、名を呼ぶ声さえ晴朗に遮られる。

「平等に愛し合ったんだもの――」

 引っ張られるようにして部屋を出ようとする最中、いつも通りの調子の、夕霧の声が聞こえる。

「――平等に殺し合うことだってできるはずだわ」

 なんて事のない顔をして内側を覆い隠す夕霧は、もしかすると本当に割り切って平気な気持ちでいるのだろうか。そんな風に見えるのに、そんなはずがなくて。
 あれは紛れもなく、自分を律した夕霧の心の強さだった。

 廊下を走りながらそんなことを思うと、涙が溢れそうになって、唇を噛みしめた。

 夕霧が来てくれなければ、今頃終夜と晴朗は戦っていただろう。

 晴朗が来た瞬間、名残惜しさなんて温いものを感じる暇もなく状況が変わった。
 思えば、別れと言うのはいつだって唐突だった。両親を事故で亡くした時も、旭の時も、日奈の時も。宵という人間が存在しないと知った時も。
 一分一秒と死へ向かっていることも知らないで、当たり前の日々をありがたがりもせずに過ごしていたのだ。

 皮肉なものだと思った。心の底から一分一秒を惜しいと思うのが、死を前にした大切な人と一緒にいるからだなんて。

 たくさんの人間を殺した終夜に、自分が原因で死んだ親友と同じ人を好きになった明依。
 地獄に落ちる運命の二人には、こんな仕打ちでさえ生ぬるいのかもしれない。

 互いに何も喋らずに、ただ廊下を走った。

「いたぞ!!!」
「……まだ走れる?」

 追手の叫び声で我に返ったのは、自分だけではないのかもしれない。

「大丈夫」

 そう答えると、終夜は少しだけスピードを上げた。
 後ろでは終夜の味方をしている陰が追手を足止めしているが、多勢に対して一人で戦う陰の隙を見て、追手は座敷の襖を外して守備範囲外を走りこちらに向かってくる。

 横たわっている人間を横目に、味方の陰が刀を振り上げる。ついていた血が勢いに乗って飛んだ。思わず明依は視線を逸らした。

 この抗争で一体何人が怪我をして、何人が死んだのだろう。

 今広がっているのは、自分とは無関係だと思っていた世界。
 ずっと平和だと思っていた視界の外側。

 そして、終夜の生きてきた世界。

 終夜は人の死を前にして、どんな気持ちになるのだろう。

 終夜の舌打ちで、明依は我に返った。

「囲まれた」

 てっきり戦うものだとばかり思ったが、終夜はそう言うとすぐ隣の障子を開けて、障子を閉める事もないまま中に入った。

 その座敷は物置として使われている様で、暗くて埃臭い。乱雑にモノが置かれていた。大きな机の上には行李や使い古された風呂敷、木箱が山積みで、破けたままにされた障子やただの木枠、竹などがいたるところに立てかけられていた。

 終夜と明依が座り込んで身を隠したのは、障子に密着し四つの足を放り出すように横に向けられた、重厚感のある背の低い机だった。

「とりあえず、ここにいよう」

 終夜はそう言うと机に背を預けて息を吐き、それから宙を見る。
 廊下に面した障子には、警戒しながら廊下を歩く追手の影が映っている。

「ここにいて、それからどうするの?」
「考えてる」

 そういう割に、終夜は息を抜いている様に見えて。

「これじゃ、本当の地獄はどっちかわかりゃしないなって」

 先ほど自分が背を向けた夕霧の事を思っているのだろうか。それともこれから訪れる先の、暮相を思っているのだろうか。はたまた、彼の中にあるどうしようもなく綺麗な思い出だろうか。

「ねえ、明依」
「うん」

 反射的にした返事が優しい響きをしているのは、こんな状況で終夜が優しい声で名前を呼ぶから。

「心中、しよっか」

 ぽつりと軽く、その次には〝冗談だよ〟と続く様な口調でそう呟いた終夜は頭を傾けて、薄く笑って明依を見ていた。