「暁さまは知ってるの?宵兄さんの事とか」
「知ってるんじゃない。多分」
「多分って?」
「話している感じで、何となくそう思うって事。俺のやることに文句ひとつ言わないし」

 終夜が裏の頭領、暁の弱みを握っていて操っているという噂がたった理由は、おそらくこれだろう。そして終夜は実際に暁の罪を知っていた。

 先代・吉野大夫を吉原から逃がし、自分の息子を吉原から追放した。
 それが原因で息子は国に自分を売り名前を変え吉原に戻り、自分が逃がした女を殺し、その子どもを吉原に引きずり込んだ。

 それが、暁の犯した罪。
 この街の呪いの根本的原因。

 因果応報。
 まるで今の吉原は暁に、〝自分の犯した罪は決して消えない〟と暗喩しているようでもあった。

「……逃げないんだよ、あのジジィ」

 終夜はぼそりと、仄暗い口調でそういう。終夜の顔は見えない。わざわざ見なくても、明るい表情をしていない事だけは分かっていた。

「さっさと逃げりゃいいのにさ。年寄りの考えている事って、本当にわからないよね。わからなさ過ぎてイライラする」

 短く息を吐いてから吹っ切れた様にそういう終夜だが、先ほど同様、わざわざ顔を見なくても明るい表情をしていない事だけは確かだった。

 だから普段だったら迷わず言っているであろう〝それ、日ごろ炎天さんがアンタに思っている事と同じだよ。わかりあえてよかったじゃん〟という言葉は飲み込んだ。

「どうせついてくるなら、ついでに言ってやってよ。自分勝手な事ばっかりしておいて、楽に死ねると思うなって」
「そこまでは言えないと思うけど。絶対」

 あの厳格な雰囲気のあるご老人にどうすればフランクに接することが出来るのか、それが終夜の才能なのかは知らないが、お互い信頼関係あっての事なのだろうと明依は思っていた。

 なんの配慮もなく急に廊下を曲がった終夜に釣られて、すぐ側の部屋に入った。

「隠し通路があるんだよね」

 急に忍者の様な事を言い出した終夜は、細い棒のようなものを隙間に差し込んで一つの畳を外した。畳の下には、吉原の外に出た時に通ったものに似た階段がある。

「忍者なの?」
「陰なんて四捨五入したら忍者だよ」
「……確かに」

 陰を的確な言葉で表すのなら〝忍者〟以外ないか。と考えながらその場に立っている明依と、畳を持ち上げたままじっと明依を見る終夜。

 それで?と思っているのは多分お互い様なのだろう。
 ほんの少し不思議な無言の時間が流れた後、終夜は階段に足をかけた。

「遅いからもう置いて行くね」
「は?」

 終夜が階段を降りる度、浮いた畳は元の位置に戻っていく。

「ちょっと!!」

 意味が分からず置いて行かれそうになっている明依は、とっさに手を伸ばして畳を支えた。腕だけでは支えられなかった畳の重さを肩で何とか支えた。

 あろうことか人間の底辺終夜は、動きを止めた畳から手を放し先に進もうとしている。
 誰もがこの状況でそんなはずがないと思うだろう。戯れているだけで実際において行かれるはずがないと思うに違いない。

 終夜という男を舐めてはいけない。戯れだと思って胡坐をかいていると痛い目を見る。この男は本気で置いて行く気だ。いつどのタイミングでスイッチが入ったかは知らないが、多分もうこの男の中では〝盾を置いて行く〟に考えがシフトしている。
 一秒にも満たない時間でその直感が働いた明依は、片手を伸ばして終夜の首元を掴んだ。

「お先にどうぞくらい言えないの!?」
「目で言ったけど」

 それで動きを止めた終夜は、面倒くさそうに戻ってきて畳を支え、ゆっくりと元の位置に畳を戻した。

「〝目〟と〝言った〟って言葉は一緒には使わないの」
「〝目は口ほどにものを言う〟って先人のありがたーいお言葉、知らないの?」

 言い返せないと分かっている言葉を的確に選んでくる終夜に、慣れた言いようのない怒りを覚える。
 いつも通り発散しようのない怒りを覚えながら、本当にコイツああ言えばこう言うな。と心の中で文句を言い、終夜の背中を睨みながら歩く。

 絶望的なコンビネーションを発揮した挙句、いつものように置いて行かれそうになり、いつもの様にイライラしているが、センチメンタルな気持ちになって落ち込んで何も出来ないよりは随分とマシだと思った。

「どこに繋がってるの?」
「色んな所に繋がってるよ。〝双子の幽霊〟の為の隠し通路なんだよ。隠し事はできないね」
「……何でそれを終夜が知ってるの?」
「見つけたから。偶然」

 この男の〝偶然〟は、部屋に怪しいものがないか蟻一匹逃がさないくらいの覚悟の詮索をした結果に違いない。
 自分達だけの通路だと思って気を抜いていた双子の幽霊が〝吉原の厄災〟と正面から鉢合わせた時の絶望感を思うと、何度も〝クソガキ〟と言いかけた二人とはいえさすがに哀れだった。

 狭い迷路の様な道を終夜は的確に進んでいく。道を曲がったり。小さな階段を上ったり。
 それから終夜が壁を押す。見えた部屋はいたって普通の座敷だった。終夜に続いてその部屋に入り振り返ると、掛け軸が今しがた通ってきた穴を綺麗に隠していた。

「どこ、ここ」
「俺の部屋」

 誰かの住んでいる部屋にしては、この座敷の中はシンプルで。それは、吉原の外で見た終夜の家の中と同じ感覚。
 慣れた様子で収納棚から蓋のついた木箱を取り出した終夜が胡坐をかいている様子を横目に、明依は部屋の中を見回すふりをした。

「……シンプルな部屋が好きなんだね」

 同意をしてほしいようで、そうではない質問。でもそれは、質問のようであって質問ではない。
 それに終夜は、意地悪な薄ら笑いを浮かべながら、簡素な箱の中から注射器と小瓶を取り出した。

「どんな言葉が聞きたいの?」

 終夜は意地悪な口調でそう言って、注射針をビンに刺した。

「落ち込む癖に」

 本心に気付かれている事に気恥ずかしさを感じながら軽く終夜を睨んだが、本人はおそらく何も気にしていない。明依は終夜の手元に視線を移して、液体が注射器に移る様子をただなんとなく眺めていた。

 針を上に向けて指で注射器を軽く何度か叩く。その行動に何の意味があるのか。その液体は何なのか。終夜が何をしているのか想像も出来ないことが、住む世界が違うと言われているみたいで、悲しい。

 そんな自分に酔って出るバカみたいな言葉があっさり出てきて、しっくりと来るなんて、どうかしている。

「それ、私が刺されるの?」

 大した感情も乗せずにそういう明依に、終夜は息を漏らして笑う。

「確かに今までのやられ方だとおかしくないね。よくそんな男と一緒に行動できるね。ちょっと尊敬するよ」

 褒めているのか貶しているのかギリギリのラインの言葉を吐きながら、終夜は注射針の先端から液体が滴る様子を見ていた。

 ふいに終夜が、着物の袖を上げる。
 思わず息を呑んだ。終夜の腕は、皮膚の色が見えないくらい真っ赤な血で染まっていて、その血は既に固まっていた。

 終夜の反応速度が速い事が救いだったのだと思う。
 明依が終夜を後ろから勢いよく抱きしめる一秒より短い間に、終夜は注射針を腕から離した。

「危ないって」

 終夜は呆れたようにそういう。

「痛いの……?」
「俺をモンスターかなんかだと思ってる?こんだけ怪我してるんだから痛いに決まってるよ」

 先ほど宵に深く腕を抉られていた。きっとそれ以外にも陰からつけられた傷もあるだろう。胸に傷をつけられて混乱して気絶したのだ。もし自分が終夜だったら、正気を保っていられないかもしれないと思った。

 どうしたらいいのかわからなくて。

「痛い」

 ただただ、終夜を後ろから強く抱きしめた。

「ごめん」
「謝るならはなして」

 返事をしたらまた論破されてしまいそうで、明依は黙ったまま終夜を抱きしめる力を少しだけ緩めた。
 終夜のゆっくり吐いた息に、安堵した。それは多分、終夜が諦めた証拠だと思ったから。

「血、つくよ」
「ついていい」
「動いたら殺すから」

 もう今日一日で何度も殺されかけているし、何なら本当に終夜に殺されかけているのだから、そんな言葉で動じるはずがなかった。

 終夜が腕を伸ばして、だから身体が少し動いた。そして動きが止まった。

 目を閉じればその全てをすぐ側で感じた。胸を打つ心臓の音を心地よいと思った。束の間の平穏。溢れてしまうくらいの幸せ。でもこの幸福に慣れれば、またひとつ貪欲になる。

 これ以上の幸せを望みたくないから、もういっそ時間が止まればいいと思った。
 思考も、呼吸も、全て止まってしまったら、苦しいと決まっている未来は、何も見えなくなる。

 終夜の背中が少し動いたから、明依は目を閉じたまま終夜の言葉を待っていた。

「世の中には知らない方が幸せなこともたくさんあるよ」

 目を開けて、ただぼんやりと終夜の部屋の畳を眺めた。

「知ってる」

 その返事を知っていたのか、それとも想定外だったのか。こんなに側にいるのに、終夜の感情は何も伝わらない。

「……知らなきゃよかったって思わないって、言い切れる?」
「言い切れるわけないじゃん」

 終夜の質問に、明依は思わず笑ってそう答えた。
 終夜は今、どんな顔をしているだろう。

「言い切れないし、何ならまだ飲み込めてないし。それなのに今、地獄の一番下にいるって思ってるよ。これ以上下が見当たらないくらい、絶望してるんだと思う」

 終夜は何も言わない。

「だけど今考えてもわからないから。ゆっくり考えていくの。悪い事ばっかりじゃないよ」
「……ポジティブ過ぎて引くんだけど」

 そう言うと終夜は箱の中から包帯を取り出して、乾いた血を拭きとりもせずに、強く傷口に巻き付けている。
 余りに手慣れている。いったい今までどれだけ怪我してきたんだろう。

 終夜はこうやって、何でもかんでも他人に甘えないで自分で解決してきたのだろう。
 そんな終夜から見れば、出会った当初の自分が相当甘ったれて見えていただろうと恥ずかしくなる。

 同時に成長したと自負している今、何もしてあげられない自分を情けなく思った。
 包帯の巻き方くらい覚えておけばよかった。でも誰かに包帯を巻いてあげたいなんて考えを持つ事、そもそもそんな相手の側にいる事が、狂っているのかもしれないが。

 悪い事ばかりじゃない。それは何も、無理矢理見つけ出した希望ではなくて。
 例えば、こんな言葉。

「だって、〝会いたかった〟って言えるでしょ」

 宵に裏切られていなければ決して口にする事はなかったであろう一言を、例え話のような感じで、でもやっとの事で呟く。
 その一言に終夜の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

「全然意味わかんない」

 大した感情も乗せずにそう呟いた後、包帯を縛る音がした。

「ない希望を先延ばしにするくらいなら――」

 そういう終夜に明依は俯いて背中に寄せていた顔を少し上げた。
 その途端、終夜が天井を見上げるように頭を後ろに倒したから、明依の頭は終夜の頭の重さで少しだけ沈んだ。
 
「――何も知らないままでいてほしかった」
「やっぱり弱点なんじゃないですか」

 終夜が言った言葉を理解するより前に、別の音が邪魔をする。
 明依がその音が声であると認識したときには、終夜はもう後頭部を明依から離していて、声の相手に向かって自分が先ほど使った注射器を投げていた。

「晴朗さん」

 終夜の背中から離れて、晴朗を見る。しかし彼は、明依の事など気にも留めていない様子で、受け止めた注射器の針先から漏れて一滴だけ手の甲についた薬品を舐める。

「結局、コレに収まるんですよね。同じ意見で嬉しいです」

 そう言って笑顔を作った晴朗に感じるのは、終夜を知らず〝吉原の厄災〟だと信じて疑わなかった頃の絶望の色と同じ。