「大丈夫か、明依」

 凛としているようでいて、どこか心配だと滲む声色で問いかける時雨に、返事をする余裕はなかった。 

 一つを理解すれば複雑な感情が出てくるのに、また一つ理解すれば形が変わる。自分の感情がこれほど掴み切れない事は今までになかった。

 似ているとするなら、終夜に情報を無理やり押し付けられて頭がまとまらない感覚。それでいて、未だ飲み込み切れていないいっぱいの絶望が、いつか破裂する事を待っているような。

 もしあの時、野分に声をかけられた時にもう少し自分が冷静になっていたら。
 でもそう考える事は、吉原に来た事を糧に強くなったと思っていた自分を否定する行為で。

 世間一般から見て()()()()な人生ならよかったんだろうか。
 低空飛行を続けたまま高校に上がって、やりたいこともなく、家族との折り合いが付かない事を理由に進学を希望せず、親戚夫婦から世間体を考えろと遠回しに言われて、行きたくもない大学受験をする。

 それなら旭と日奈に会う事もなかった。二人が死ぬことはなかったかもしれないし、終夜が死ぬかもしれない状況にもならなかったかもしれない。

 でもそれはきっと、今よりももっと孤独だろう。

 苦しさを少しでも緩和できたら。そんな感情があったのかもしれない。明依は右手を胸元に寄せて拳を握った。そこには終夜が付けた傷がある。
 終夜はこの傷を、どんな思いでつけたのだろうか。
 それから明依は、先ほど切られた着物の左肩に触れた。

 宵がいる事を知って『最悪』と呟いた終夜の言葉の意味はきっと、この事実を知らせたくなかったから。
 わからないと思っていて見逃した終夜の優しさがたくさんある。
 それなのに、何もできない。ただ、終夜を苦しめているだけ。

「一緒に満月楼に戻るかい、明依ちゃん」

 声色に心配だと書いてあるような様子でそういう清澄を直視することはできなかった。
 心配そうな視線を向けられていると、ここでくじけてしまいそうな気がして。

「いつまでもガキみたいに甘やかすんじゃないよ」

 明依は反射的に顔を上げた。
 勝山は薄く眉間に皺をよせ、はっきりと明依の目を見ていた。

「酷なことを言う、黎明。アンタが知りたいと言ったんだ。自分(てめェ)で乗り越えな」
「いくら何でも……」

 勝山の突き放すような言葉に、清澄は信じられないと言った様子で呟く。

 清澄の反応が正しくて、自分がおかしくなってしまったのかと、明依は思った。
 勝山のその態度で、その言葉で、なぜか胸が鳴ったから。

 瞬きを一つすると、勝山は挑発的な顔で笑った。

「わかるかい、黎明。何の確信も根拠もないなら、わざわざこんな事はしない。私たちを一体、誰だと思ってるんだい」

 まるで勝山に試されている様で。人生の分岐点なんて言葉が甘く聞こえるくらいの絶望の淵にいる人間に一体何を。そう思うのに、先ほどより大きく胸の音が聞こえていた。

「私たちには確信があった。だからお前を松ノ位に上げ、事実を伝えた。そして絶望の淵にいるお前を目の前にしている今も、誰一人その考えは変わっていない」

 高尾の凛と響く声は鋭く、でも心地がいい。

「この私が乗り切る方に賭けたんだもの。恥をかかせないでちょうだいね」

 そういう夕霧は、勝山とはまた違った色気を纏った挑発的な顔で笑う。

「明依」

 そう言われて明依は、吉野を見た。吉野はいつも通り、穏やかな様子で明依を見ている。

「たくさんの思いがあるでしょう。それはまだ不確かで、とても整理しきれないでしょう。でも、時間は待ってはくれないの。今も流れている。この時間はもう二度と帰ってこない。だからわからないのならせめて、後悔の無いように。今この瞬間の自分の思いに忠実になりなさい」

 そう言うと吉野は、明依の前に座り直し手を握った。

 『私たちはあと何度、こうやって向かい合って話をすることが出来て――あと何度こうやって、手を握ることができるかしら』

 花魁道中を終えた後に、吉野がそう言った時の事を思い出した。
 この陰謀に巻き込まれなければ、吉野はもう吉原にはいなかっただろう。時間の流れを愛しく思う事も、強くあろうと思う事も、なかったかもしれない。

 そしてこんなことがなければ、吉野と向かい合って話をすることも、手を握ることもなかった。
 絶望に軋む心が、無理矢理(いろど)りを探している。そういえばそれでおしまい。

 ただ、その彩りは明らかに温かい感情を生んで、受け止めている。

 不思議だ。
 飲み込み切れなかった絶望の果てが自暴自棄でもおかしくはないのに、信じてくれている人たちを、自分を大切にしてくれている人たちを裏切りたくないという気持ちが、背中を押している。

 『〝本当の気持ち〟は、大切に持っておけ。必ずお前を守ってくれる』
 過去の高尾からの言葉は、終夜への今抱えている想いを急かすくらいに強くする。
 終夜に死んでほしくないという気持ちが、顔が見たいという気持ちが心の内側で息を吹き返して、衝動的に突き動かしていた。

「時間は待ってくれない」

 吉野はもう一度、刻むようにそう言った。

「あなた今、どうしたいの?」

 まだ、何もわからなくて。
 でももしかすると、今、ゆっくりと絶望を咀嚼して飲み込む時間があったなら、立ち直れていないかもしれないなんて思っていた。

 自分の手に重なる吉野の手に、もう片方の手で触れてみる。
 大丈夫、まだ走れる。と、心がそういうことはもう知っていたのかもしれない。明依は吉野の手を強く握った。

「終夜に会いたいです」

 そう言うと吉野は、にこりと笑った。

「それなら今、落ち込んではいられそうにないわね」

 明依は思わず笑顔を作り、はっきりと頷いた。

 絶望を飲み切った先には、途方もない後悔が襲うかもしれない。
 だけどそれでも、生きていくしかないのなら、後から一人で悩んで苦しむ時間はいくらだってあって。

 ただ切迫しているようにも感じる時間は、待ってはくれないから。

 四人の顔を見回す。その視線は、雰囲気は温かくて。
 明依は短く息を吐き、顔を上げてから清澄の時雨に視線を移した。

「清澄さん、時雨さんも、ありがとう」

 二人には、まだ不安定な部分を支えてくれようとした事への感謝を。
 二人は不思議そうな、心配そうな様子で「ああ」と呟いていたが、明依の心の変化までは理解できないらしい。

「梅雨ちゃんも」

 なんだかんだと態度に出しながらも、命の危機を救ってくれた事への感謝を。
 梅雨はそう言って視線を向ける明依をまっすぐ見ていたが、すぐにツンとした表情ですっと視線を逸らした。

「わかるな、黎明。命の保証はどこにもないぞ」
「終夜から殺されかけた事実もあるし」
「もう十六夜はアンタの側にはいないだろうし」

 高尾のはっきりとした言葉に、夕霧と勝山はどこかふざけたような、不安をあおるような口調でそういう。吉野が困った表情で笑っているのは、このくらいの事では決断が変わらないと確信しているからだと理解していた。
 その言葉に不安げな表情を浮かべたのは明依ではなく、清澄と時雨だった。

「それでも行きます。立ち止まったままだと後悔する自信がありますから」

 お返しする様に戯けた様な口調でそう返すと、勝山と夕霧は優しい笑顔を向けた。

 お礼を言えばきっと終夜と同じことを言うのだ。自分たちが好きでこうしているのだから、感謝される筋合いはない、と。分かっていたから、襖を開けて廊下に出た後、明依は向き直って座り、深く一度だけ頭を下げた。

 成長したと思っていた。いや間違いなく成長しているはずだった。それなのに四人の背中はまだまだ遠くて。でも、四人が苦しかった過去を打ち明けてくれた気持ちを無駄にしたくはなくて。彼女達にも、まだ乗り越え切れていない過去が確かにあって。

 この四人は、後どれくらい先にいるのだろう。
 一生追いつくことはないのかもしれないと思いながらも、背中を追い続ける事はやめられないのだろうと思う確信。

 この四人の誰かになりたいと思う気持ちとは違う。
 どんな絶望が降ってきても、この四人と対等でいられる自分でありたい。

 それから襖を閉めてすぐ、明依は走った。

 廊下の雰囲気は冷たく、不安が過る。ただ、それより強い思いがかき分ける様に道を作ってくれるような錯覚。それは覚悟と呼ばれるもので、もしかするとあの七人の顔を見るのはこれで最後になるかもしれないという切なさを連れてくる。

 階段を上って、先ほど終夜から突き落とされた部屋を見たが、そこには誰もいなかった。なれた妓楼でさえ似た場所が多くて迷子になりそうだというのに、さらに広く入り組んでいる主郭は見慣れない人間からすれば迷路の様で。

 どんな感情を抱くんだろう。ふと、他人事のように思った。

 実際に宵を見て、彼が暮相という別人だったと自分は認識するのだろうか。
 どうやら自分の中では宵と暮相が同一人物だとはまだはっきりと紐付いてはいないらしい。
 暮相は憎い。ただそれは、宵が憎いという事とは違う様子で。不思議な感覚だった。暮相という人が悪さをしていて、それは宵とは完全に別人だという感覚すらある。

 終夜を守りたいと思っていたのに。
 その気持ちで宵と身を固めると決断したことは、間違いだったんだろうか。
 そうしなければ終夜は、もっと苦しまずに済んだのだろうか。
 そう考えている時点で、宵が暮相だという認識は薄くあるわけで。と思った辺りで、それようとした考えを元に戻した。

 でも、あの時諦めて吉原から逃げ出した先の未来で、心にしこりを残したまま自分が心の底から笑えるとは思えない。

 ただ、選ばなかった未来の結末が分からないのなら、この未来を最善にするしかない。
 そのためには絶望を理解することすらも後回しにして、終夜の所へ。

 もしかすると最善の未来には、絶望を清算できる何かがあるかもしれない。

 ただ、最善の未来の予想図が全く浮かばないことには、気付かないふりをした。

 夜が包む主郭の中は、妓楼と同じ光で包まれていた。
 今自分がどこにいるのかもわからないまま、前回訪れた時の記憶だけを頼って、裏の頭領の居住階へ向かって進んでいた。

 主郭に招かれた時、何の考えもなくただ連れて行かれるままに歩いていた。
 もし終夜だったら、無駄話や寄り道をしながらでもどんな道を通ってどの部屋を訪ねたのか覚えているだろう。

 そう確信できるのは、もう終夜という男の人となりを知っているからだ。

 だから自分の目で見た姿で判断した。

 〝吉原の厄災〟という面を被った裏側で、緻密に計画を立てて不測の事態を予測し、行動できる人。
 終夜は善人じゃない。だけど、最低の悪人でもない。

 先ほど本気で殺されかけた事には蓋をする。それは〝終夜という人間の本質〟には、何等か変わりがない事だと思ったから。

「お命頂戴いたします――」

 それは不意打ちだった。
 階段を上がり、廊下を曲がろうとしていた時の事。

 そんな声が聞こえても、それを音としてしか認識できないくらいの、短い間。

「――終夜さま」

 広い廊下を曲がってすぐに足を止め、思わず目を見開いた。
 少し離れた所にたくさんの陰を正面に立つ男の背中には当然、見覚えがあって。

 さすがというべきなのか、息を呑んだ後、振り返ろうと顔をこちらに傾けていた。

 やっと、また会えた。
 まず一番に浮かんだのは、安堵。
 だから終夜と視線が絡むときにはもう、驚いた表情は引っ込んでしまって表情が緩んでいた自信がある。

 心構えをしていなかったのはきっと、終夜の方だ。
 終夜は目を見開いて、唖然としていた。

 この男にこんな顔をさせて、なおかつ自分だけが冷静でいるなんて。
 冥途の土産にしても上等品だなんて、バカなことを考えている。

 すぐそばで立ち止まっても、終夜は現状を理解できないらしい。

 理解できないのなら、終夜はこれから先もこの気持ちを暴く事も想像することもないだろう。

 〝吉原の厄災〟と呼ばれる自分の顔を見て、息を抜きたくなるくらい安堵し、温かい気持ちになっている女がいる事なんて。

 知ってもらわなくていい。
 理解してもらわなくていい。
 想いを通わせることなんてできなくて構わない。

 だからどうか終夜を救ってと、いるのかいないのかわからない神様にでも、目の前にいる地獄の鬼神にでもなく、自分自身に祈った。