明依の問いかけに誰も答えない部屋の中は静まり返っている。

 四人の大夫の表情からは何を思っているのか読み取ることは出来そうにない。ただ、清澄と時雨の顔に滲む哀れみが全てを物語っている。

「これが〝お前にとって都合のいい世界〟の外側だ、黎明。終夜が死に物狂いで隠し、守りたかった〝事実〟」

 そう言う高尾の声色は、いつもよりもほんの少し固い気がした。

「終夜はどうしてもアンタにこの事を知られたくなかったのさ。自分を受け入れてくれた人間が、実は自分の両親を殺して吉原に誘導し、心を許した友を殺したなんて知れば、アンタが立ち直る事が出来ないって終夜はそう思ったから」

 勝山の言葉にある、終夜からの思いやり。それは明らかに温かい何かを心に灯すのに、間もなく消えていく。

「私は今まで……ずっと、終夜に守られていたんですか」
「そう。終夜はずっと、アンタを守っていた。アンタの気持ちが宵に傾かない様に」

 明依の疑問には、はっきりとした口調で勝山が答えた。

 揺れる心の外側で、ぬるま湯につかっている様な感覚は現実逃避。
 その証拠は、終夜の腕の中から抜けだした今この場所が地獄の最下層であるという自覚が明確にあるから。

「幸せの基準が違うのね。あなたは自分の足で立っていたかった。だけど終夜はあなたに〝そのまま〟でいてほしかったんだわ。現状維持。向上心はいらない。松ノ位になんて上がらなくていい。ただの役立たずでいい。宵があなたから見切りをつけたら、あなたは何事もなく年季が明けて吉原の外に出られる。すぐ側にいる人間が親も友達も殺したなんて、そんな残酷な事実は知らないままね」

 幸せの基準が違う。それは終夜にも同じことを思った。命を狙われるくらいなら、吉原の外に逃げてほしいと思った。だけど終夜の願いの全てはこの街の中にあって。

 それと同じ種類の、もっと残酷な葛藤を、終夜はずっと一人で抱えていたのだろうか。

「黎明の中にいる〝宵〟という人間の形をなるべく残したままで事を片付けたかったんだろうよ。そしてあのバカは、自分が全部請け負って死ぬつもりだったのさ。アンタの慕う宵を殺す。そうなればアンタは終夜を恨むだろう。そうやって恨みの対象になろうとした。だけど、そうもいかなくなったのさ。……アンタが宵と身を固める決断をしたから」

 勝山はいつにもまして真剣な様子で、淡々と告げる。

「だからやむなく終夜は、宵の正体が警察官でアンタをいいように操っているという上辺の事実だけを伝えた。絶望させ、火が回り切らない内に吉原の外に逃がそうとした。これで気持ちが宵から離れると考えたからだ。……でも、終夜の予想は大外れ。アンタは吉原に残る決断をした。身体に傷をつけても、どんな言葉を吐いても挫けない。もしかすると終夜は、アンタに恐怖心すら抱いたかもしれないね」

 もう少しわかりやすく態度に出せないものかと、明依は呆れた様な複雑な気持ちを抱いていた。
 思い出してみれば、確かに終夜は執拗に〝おとなしくしておけ〟と言っていた。嫌がらせだと思っていた。それが全部、自分の為だったなんて。

 終夜の途方もない優しさだったなんて。

「宵兄さんが私のお父さんとお母さんを……殺したって、言うのは……?」
「終夜が言うには、お前の父が運転する車の助手席に姐さんは乗っていたらしい。前方に立ち、ハンドルを切らせたと聞いている」
「じゃあ、日奈と旭は……?」
「雛菊を殺したのは朔だ。それは間違いない。しかし、そう仕向けたのは宵だ。……あの男の人の心を操る術は知っているな。宵は朔が陰であることも、自分に気をやっていることもわかっていた。だから朔との明確な線引きをして、わざと朔の目の前で雛菊と兄妹の様に関わる様子を見せ続けた」

 明依の質問に、高尾は淡々と答えていく。

 朔の宵への愛情なら、追われた日の夜に知った。あれも宵が助長したもの。
 今でもまだ、そんなはずないと心のどこかでは思っている。それが宵から植え付けられた感情が最後の抵抗を見せているのか、はたまた自分自身が信用したいと本当に思っての事なのか、それとも自己防衛か。明依にはわからなかった。

「それから宵は、お前と雛菊を引き離した。そして雛菊に自分が黎明に害をなす存在だと仄めかした。事実を確かめようと嗅ぎまわっている所を、朔が粛清という名で殺した」

 夜桜の日。わざわざ廊下に出て日奈に聞かれては困る話を持ち出したのは、偶然ではないのだろう。
 それなら、部屋の中に入った事は偶然だったのだろうか。それともまた、誘導されていたのか。

 どちらにしても、重要なことは全て宵の手の内で回っていたという事実。

「次に旭の事だが」

 もういい。と、拒絶する事が出来るならどれだけいいだろう。
 いいはずがなかった。知らなければいけない。荒地の様な心中の中で、ぽつりとそう思う。しかし、それを咀嚼して飲み込むことが出来るとは到底思えなかった。

「まずお前の中で紐付いていない事がある。それは、叢雲と宵はそもそも繋がっていたという事だ」
「叢雲さんと宵兄さんが、繋がっていた……?」
「そうだ。吉原の中には、宵の正体が暮相だと知る協力者が二人いる。その一人が叢雲だ。宵が暮相であるという事を知っていた」

 二人が深く関わっている様子はあまり浮かんでこなかった。
 その代わり、夜桜の日。宵の部屋から出てきた叢雲と宵は一瞬間をあけた。それから『旭の死の真相については、分かり次第連絡する』と言ったのだ。

 あれはきっと自分たち以外の誰かがいると察しての言葉。ああやって人目につかないところでやり取りをしていたに違いない。

「叢雲は宵の協力者だった。暮相がまだ吉原にいた時、叢雲はあの男との距離が一番近かった。頭領の命令に従う事しかできず、守ってやれなかった自分の不甲斐なさを呪ったことだろうな。その男が吉原に戻ったとなると、協力以外の選択肢はなかったはずだ。……だから、自ら命を絶ったのさ。自分が何もかもを背負って死んだ。終夜との頭脳戦に宵が負ける形で決着が付こうとしていたから」

 叢雲が死んだと聞かされた時の宵の顔は、旧知の人を亡くした暮相の本当の悲しみだったのだろうか。

「でも、実際に旭を殺したのは叢雲じゃないのよ。もう一人の協力者の罪をも被って、叢雲は死んだの」

 夕霧の言葉でまとまりかけていた何かがまた、固まる前に散る。

「旭を殺したのはもう一人の協力者、十六夜だ」

 やっぱり高尾の口調は冷静だった。
 宵の正体が暮相。たくさんの情報が頭の中を錯綜しているこの感覚は、もうまとまる気すらないのではないかと思うくらい、朧気で。

「十六夜さんが、旭を……」

 飽和する情報の中で、分かることがたったひとつ。
 十六夜が旭を殺した。それは間違いないという確信。
 なぜなら終夜が、十六夜の命を狙ったから。日奈を殺した朔を追い詰めた時と、同じように。

「だから終夜は、十六夜さんを殺そうとしているんですね」

 頭を整理するために口に出した言葉は、現実になってしみこんでいく。

「十六夜さんと、宵兄さん……暮相さんはどんな関係なんでしょうか」

 ほんの少しだけ取り戻そうとしている正気。
 その中で沸いた疑問を口に出した。

「十六夜は暮相に忠誠を誓っていた」

 どうして気付けなかったのだろう。

 宵を〝宵さま〟と敬称をつけて呼ぶのは、十六夜だけだ。
 宵が終夜に捕まったと聞いた時の十六夜の焦りも、彼をよく知る様子も、自分が宵の隣にいる事が出来ないと知っていたあの表情も。だけど、本当に宵の幸せを願うあの表情も。

 細かな所に、ヒントはたくさんあったのに。

「だから十六夜さんは、丹楓屋に異動したんですね」

 そう呟いた明依の言葉に、その場にいた全員は少し驚いた様子を見せる。

 宵の事が好きなら、どうして自分から丹楓屋に異動したのか。
 そう問いかけた時、十六夜は『好きだったからよ』と答えた。

 それが答えだ。
 宵の事が好きだったから、自分と宵の繋がりを疑っている終夜から目を逸らす為に別の妓楼に異動した。そして、旭を手にかけた。

 何となく、十六夜の気持ちがわかる様な気がした。終夜の為を想い、吉原の外に出そうと必死になっていた自分と重なるのかもしれないと思ったから。

 叢雲は陰の管理調整をしていた。それなら十六夜との関りがあっても何もおかしくはない。

 これで、終夜が十六夜が仕込んだ睡眠薬入りの料理を食べた後に主郭の地下に来た際に感じた気配は叢雲のもので、宵を助け出そうとした理由にも正当な説明が付く。
 十六夜と叢雲に関りがあれば、情報を共有して連携することが出来るのだから、何もおかしな点はない。

「そして『吉原を解放したい』『笑ってほしい女の子がいる』と暮相が言った相手は他の誰でもない。十六夜の事だ」

 宵の、いや暮相の内にあるであろう十六夜への気持ちが旭から自分に向けた様な感情なのか、それとも異性としての感情なのか。はたまた家族としての感情なのかはわからない

 ただわかることは、彼の中でも十六夜は大切な人だったという事だ。

 互いに想い合っていた。
 だったら一体、明依という人間は、あの二人にとってどんな存在だったのだろう。

「陰の中には、幼少期からの厳しい訓練で感情が欠落した人間も多くいると聞く。十六夜はそんな日々の中で、暮相という男に希望を見たのかもしれないね」
「勝山大夫は知っていたんですか……?」
「疑っちゃいたけど、言われるまで気付かなかったよ。……どうしてもっとよく考えなかったんだろうね」

 勝山はなんて事のない様な表情でそう語る。
 しかし明依は知っていた。勝山は情が深い人だ。きっと十六夜の裏切りを知って、深く心を痛めたに違いない。

「暮相さんは、自分が育てた弟の様な存在の旭を殺した……何が宵兄さんに、そこまでさせるんですか?」
「頭領への自制が利かない程の恨み。それ以外はない」

 時雨ははっきりとそう言い切る。
 暮相の恨みが、吉原の街を呪った。しかしもしも、この街に自分が来ることがなければ、旭と日奈は死ななかったじゃないか。
 叢雲が死ぬこともなかった。

 連鎖する呪いを、止められたかもしれない。

 ではどうしたらよかったのか。
 その答えが出るわけもなくて。

「勘違いするなよ、明依」

 終夜とこの街に帰ってきたときのような厳しい口調で言う時雨に、明依は俯いている視線を上げた。

「わかるだろ。こうなりゃもう、誰のせいなんて話じゃねーんだ。運悪く歯車が噛み合った。それだけだ。……仮にお前がこの街に来なくて、暮相だけが戻ってきていたとしても。終夜が暮相と相打ちを覚悟している結末は変わらなかった」

 『宵か終夜。二人の内一人しか、この吉原にいられないとしたら。どっちに賭ける?』
 丹楓屋に向かう際、そう言った時雨の言葉を明依は思い出していた。

 時雨はあの頃から知っていたのかもしれない。
 宵の正体が、かつて自分が友と呼んだ人間だという事も、終夜を苦しめているという事も。

「終夜は宵を殺さなかったんじゃない。殺せなかったと、先ほどそう言ったな」

 明依は時雨から、高尾へ視線を移した。

「殺せなかったんだよ。宵に忠誠を誓う叢雲と十六夜を殺してからでなければ、お前の価値がなくなる可能性を考えたから。万が一そうなれば、お前は命を狙われる。それにもしかすると。……終夜の中には今も、自分が兄と慕った男だという一抹の思いがあるのかもしれない」

 あの酷い態度も、貶す様な言葉も、全部守ろうとしての事。

 宵に気持ちが傾かない様に。
 松ノ位に上がらない様に。
 何事もなく年季が明けて、何も知らないまま、吉原の外で自由に暮らしていけるように。

「暮相はこの騒動に紛れて、裏の頭領の命を狙う。だから終夜はそれを止める為に主郭に来た。暮相に対抗できる人間がいるとすれば終夜しかいない。あの男はそれを、誰よりもよく分かっている」

 自分が行かなければ吉原に未来はないと、終夜は本気で考えていたのだろう。
 自分が兄と慕った人間が、友と呼んだ二人を殺した。
 それでも終夜の中にあるのはまだ敬慕だろうか。それとも、途方もない憎しみだろうか。

 『明依が俺の為に全部捨てるなら、俺も今までの全部を捨てていいよ』

 その言葉が今になって心の一番深い部分まで刺さって。
 言葉になんてできそうになかった。
 ただ途方もなく温かくて。それなのにもう、触れられないかもしれない。

 自分勝手な感情が浮かぶ。
 本当に自分勝手。それを全部巻き込んで、抑えつけて、心の中だけで想う。

 どうしようもなく、終夜に会いたい。