「暮相さんは、宵兄さんが吉原に来た後に死んで……」

 意味が分からない現状を整理するように、明依はぽつぽつと呟く。ゆっくりと理解する事に重きを置いているのか、明依の言葉に高尾が口を開く事はなかった。

 宵の正体は頭領の暁が吉原から追放した息子、暮相。それは今まで予想を掠めすらしなかった事実だった。

「……じゃあ宵兄さんが警察官って言うのも、あれも、嘘なんですか……?」
「それは本当だ。警察官だという事は事実。暮相はおそらく、吉原奪還の切り札として自らを国に売ったのだろう」

 自らを吉原奪還の切り札として国に売った。吉原を追放され、恨みを持っている裏の頭領の息子。吉原奪還のために、受け入れない理由がないように思えた。

「だから国は、暮相を自殺に見せかけるために死体を偽装し、新聞やニュースで細かく執拗に報道した。宵が暮相と同一人物だという事を吉原の人間に悟られない様に。……恐らく暮相の提案だろう。ヤツはあの頃から警戒していたに違いない。暮相は終夜と旭をよく見ていた。成長した終夜はきっと、その計画に気付くと思っていたから」

 『新聞にもニュースにも、話盛ってんじゃないのってくらい詳しく載ってるんだよ』
 終夜は蕎麦屋の二階で、暮相が死んだ事に対してそう言っていた。

「じゃあ、終夜は知っているんですか……?宵兄さんが、自分が兄さんって呼んでいた暮相さんだって事……」
「知っている」

 高尾ははっきりとした口調で言い切る。

 どんな色の地獄だろう。
 かつて兄と慕った人を、吉原の敵として殺そうとするのは。

 明依は吉野を見た。自分に当てはめて考えてみれば、吉野を殺そうとしているようなものだ。
 できるはずがない。これほどたくさんの思い出をもらった大切な人を殺すなんて。考えるだけで胸が張り裂けそうで、叫び出してしまいたくなるくらいの、絶望。

 終夜はその苦しみに、何食わぬ顔で耐えている。
 もうそれだけで、終夜という男の強さを思い知っている。

「終夜はそれを知っていて……。自分が兄と慕った人を……吉原の敵として殺そうとしている、という事なんですね」
「……それだけで済めばよかったんだがな」

 高尾は淡々と、しかし哀れみを含んだ口調で呟く。

「この街にお前を迎え入れたのは野分。そうさせる様に野分に報告したのは宵。そこまでは知っているだろう。……ではあの日。どうして野分はそれほどいいタイミングでお前のいる公園に現れたのか。わかるか」

 もしかして、野分は何日も朝から晩まで自分が来ることをあの公園で待ち構えていたのだろうか。
 いや、一人の子どもにそんな膨大な時間を割くはずがない。それなら、あれは偶然以外の何物でもないはずだ。

「お前は親戚夫婦が自分の両親の話をしている場面に遭遇して、公園に向かった」

 どうして高尾がそんなことを知っているのか。そんな疑問が浮かばなかったわけではないが、いまはそれを追いかけている場合ではない事は本能で理解していた。

 そのありきたりな事実に一体何の意味があるのか。高尾は何を言おうとしているのか。
 とにかく落ち着かなかった。ざわざわと騒がしくて。あるのはただ、途方もなく、嫌な予感だけ。

「簡単な話だ。お前が帰宅する時間を見計らって、電話を一本入れておけばいい。思わず口悪く罵りたくなるくらいの話。例えば身に覚えのない、金銭トラブル。〝あなた方は亡くなったお兄さんの連帯保証人になっていますよね〟とかな」

 呼吸も鼓動も、早くなる。
 胸の奥が痛い。打ち付ける心臓の鼓動が物理的にそうさせるのか、ほとんどわかってしまった事実が精神的にそうさせるのか、明依には分からなかった。

「もうわかるな、黎明。宵は、いや暮相は。そうやってお前をこの街に誘い込んだ」

 警察官だと知って覚悟をした。利用される覚悟も、利用する覚悟も。それでも宵は〝好きだ〟と言った。最後に言われたその言葉は、ストンと心の内側に落ちてきた。その感覚もしっかりと覚えている。

 今まで何度も、それに抗った。信じたらダメだと疑った。

 でも、自分から手を離さない限り宵は離れてはいかないという確信があって、確かな愛なんてなくてもこの人となら、この道を自分で選んでよかったと思える日が来るのではないかと思った。
 大切にされている。想われている。そんな実感を、今でも思い出すことが出来る。

 もし宵が本当に自分を利用するためだけにここまで言葉を選んでるのなら、もう見破れない。
 何度も何度もそう思った。

 つまり、本当に見破ることが出来なかったという事。
 『――自分に都合のいい〝事実〟なんでしょう』
 極限の状態で発したあの言葉が、ほんの少しの心の抵抗が正しかったという事だ。

 宵の言葉は、宵が、いや暮相が詳細に作り込んだ幻。
 自分に都合のいい〝事実〟。

 先ほど自分が吐いた言葉だというのに、突き付けられている現実に心が悲鳴を上げている。そこに一点の偶然もなかったのだろうかと、救いを求めている。

「どうして……私はどこにでもいるただの中学生で……。特別なことなんて、なにも……」

 本当にただの中学生だった。付け入る隙があったとすれば、親がいなかったこと。保護してくれた親戚夫婦との仲が良好だとはとても言えなかったこと。

 しかし、それだけが理由ならほかにもっと適任がいたはずだ。放任主義の親を持っている子どもも、そもそも中学校に真面目に行っていない子どもも、自分よりもずっと器量のいい子どもだってたくさんいるんだから。

「暮相の目的は自分を吉原から追放した裏の頭領、暁を苦しめる事。人間の憎しみというのは恐ろしいな。暮相はその為に名前も、顔も、声も、癖も。何もかもを変えてこの街に来た。そして裏の頭領に復讐するためには、お前の存在が必要不可欠だったんだ。……何故ならな、黎明。お前は――」

 地を踏みしめ、胸を張っていたと思っていた場所は、砂上。
 その砂上の楼閣は、音もなく零れる様に崩れていく。

「――私と吉野大夫の姐さん。先代・吉野大夫の一人娘だからだ」

 また、飲み込めない事実が一つ増える。

 先代・吉野大夫は死んだ。〝黎明〟という真っ白な着物を身に着けて、最後の花魁道中の後、揚屋で自ら命を絶った。吉原の事をよく知っている凪がそう言っていたのだ。間違いないだろう。

 当然、頭に浮かんだ母親と、見た事のない先代・吉野大夫は紐付かない。

 そんな明依を見た吉野は口を開いた。

「前に、姐さんが揚屋で死んだって話をした時の事を覚えている?」
「はい。……覚えています」
「姐さんにあの着物を着せて花魁道中をさせたのは。あの揚屋で待っていたのは、現代・裏の頭領、暁さま」

 暁が先代・吉野大夫を殺した?いや、そうじゃない。先代・吉野大夫は吉原から逃げて。母親で。

「暁さまは、身請けが決まっていたあなたのお母さんの死を偽装してこの街から逃がした。彼女には愛する男性がいると知っていたから」
「どうして……そんなことを」
「心の底から愛したからじゃないかしら」

 吉野は柔らかい言葉を選びながら、しかし確信を持った口調でそういう。

 死んだ母親は、吉原に来る観光客の誰もを夢中にさせた先代・吉野大夫。
 〝最もすぐれた人格者〟と呼ばれる人。

 使い古した思い出の紐を解いてみる。

 幼い頃にコップのお茶をこぼした時も、走ってこけて余所行きの服を泥だらけにした時も、母は決して怒らなかった。その代わり、こぼしたお茶を拭くタオルのある場所、汚れた服を洗う手順を教わった。

 それからいつもこう言った。失敗してもいい、大人でも失敗することはあるんだから、そこから学ぶ事が何より大切なんだ。

 両親と死別してから、沢山の人と出会ってきた。
 しかし、こんな感覚は滅多にない。
 母親がかつての自分にかけた言葉は紛れもなく生きている。そしてそこには、松ノ位の四人の様に熱く胸を打つ何かあった。

 腑に落ちた。
 両親が駆け落ち同然で一緒になった理由も、母の美しさも強さも。

 内側で花が咲いた様に笑顔が零れる感覚があることを、知らなかった。
 思い出の中の母親が間違いなく、〝最もすぐれた人格者〟だったから。

 その母を、裏の頭領、暁は愛した。
 暁は自分が愛した女の娘だという事を知っているのだろうか。
 他の男との間に出来た子どもが、憎いのではないだろうか。

 しかしその不安の様なぼやけた気持ちは、きっと杞憂だ。

 『それならば尚の事、命ある限り精一杯生きなさい』
 『大好きな二人が生きていた証は、この世界でお前しかいないのだから』

 憎んでいる人間に、そんな言葉を継げはしないから。

「急に何もかもを飲み込めとは言わない。ただ、理解はしたな」
「はい」

 高尾の言葉に、明依はゆっくりと頷いた。感情はまだついてこない。しかし、高尾たちの言っている事はとりあえず理解できた。
 次に口を開いたのは、明依が頷いた事を確認した吉野だった。

「だからあなたじゃないとダメだったの。裏の頭領が吉原から逃がした、先代・吉野大夫の一人娘。明依を惑わせてこの街に誘い、この街に縛り付ける事で、裏の頭領への憎しみを形にしようとした。吉原から逃がして助けたつもりになっている頭領をあざ笑うみたいに。それから、頭領が手に入れられなかった〝吉野大夫〟と身を固める様を頭領に見せつける為にね」
「〝吉野大夫〟と、身を固める……?」
「そう。暮相は〝吉野大夫〟の肩書に明依を当てはめて自分のものにしようとしていた。天辻さまからの身請け話をあのタイミングで暮相が受け入れたのは、私が吉原を去った後で明依の松ノ位昇格話が出れば、あなたは〝黎明大夫〟ではなく〝吉野大夫〟になるから。だから終夜くんは、万が一の為に私の身請け話を延期にしたのよ」

 吉野はそれを知っていたんだ。だから、周りが理不尽だという言葉にも耳を傾けず、身請けの延期を納得して受け入れた。
 あの頃から終夜は、そんな事まで考えていたのか。嫌がらせだと思って非難した自分を恥ずかしく思った。

 そして、自分の知らないところで本当にいろんなものが回っていることに、恐怖心を感じていた。

 明依はやっと息を吐いた。なぜなら、そこから先の話はもう、知っているから。
 宵が明依を洗脳して、自分のいいように動かそうとしていた。そこまでする必要があったのは他の誰でもない、明依でなければいけなかったから。

 確かにこれは、大きな衝撃だった。利用されるべくしてこの街に迷い込んだ。ただそれをしっかりと形にしている。確かに衝撃は受けたが、今後の人生は変わらない。

 感情は未だに、ついてこない。それでも大丈夫だという実感が、精神的に強くなれている実感が、今の明依にはあった。

「ついてきているな、黎明」

 高尾は少し間を開けて、それからそう言った。

「大丈夫です」
「ほかの誰でもいけなかった。お前でなければいけない理由が山ほどある」
「はい」
「山ほどあるから、暮相はお前の両親を事故に見せかけて殺し――」

 不規則に不格好にまとまりかけていた何かが、離散する。
 そして頭の中、それから視界さえ真っ白に。

「――旭と日奈を手にかけた」

 宵が事故に見せかけて、両親を殺した?

 旭は叢雲に殺された。自ら命を絶った叢雲がそう書き残していたって、あの日時雨はそう言ったじゃないか。
 それに、日奈は朔に殺された。朔本人から直接聞いた事だ。日奈が宵を疑う様な怪しい動きをしていたから。

 わからない。
 何もわからなかった。
 何も考えられないのに、頭の中では勝手に事実と既存情報が結びつく場所を探していた。
 しかしまとまることのないそれは、まるで真夜中の嵐の海の様で。その中で嫌味なくらい一点、光って見える様な。殻に閉じこもって浮いているような。確信できる事が、たった一つ。

 誰かに否定してほしくてたまらない、たった一つ。

「私のせいで、日奈と旭は死んだの……?」

 明依の発したその言葉に、誰の否定も肯定もない。