「乱暴ね。苦労するわ」

 夕霧は呆れた様にそう言いながら、時雨が落ちかけた木の手すりに背を預けて、明依が落ちてきた上階を眺める。
 明依は室内から夕霧の方向を見た。そこは上階よりも外側にせり出していて、バルコニーの様な造りになっている。地面は竹で出来ていて、小さな坪庭がその空間を華やかに見せていた。

「アンタが落っこちてきたって事は、終夜はまだ生きてるって事だね。……まったく、悪運の強いヤツだ」

 そういう勝山の声は呆れている様で。でも嬉しそうで。そんな勝山の様子は、やはり終夜の命の危険を感じさせて、胸が騒がしくなった。

 終夜は無事なんだろうか。
 どうして十六夜は守ってくれたのだろう。陰の仕事は個人を守る事ではないはずだ。それとも松ノ位に上がると守らなければいけない様になっているのだろうか。万が一そうだとして、十六夜である必要はないはずだ。彼女は丹楓屋の勝山の下で遊女としての立場をしっかりと築いていたのに。

 じゃあ、どうして。そうやって、たくさんの事を考える。しかし、答えが出るはずもなかった。そしてあの状況を細部にわたって説明できる程の冷静さも持ち合わせてはいなかった。

「私、終夜に殺されかけて……」
「それは演技だ、明依ちゃん。終夜くんは、明依ちゃんが施設を抜け出して、それから自分が生きていたら、この上から明依ちゃんを落とすから受け止めほしい。って、明依ちゃんが施設に預けられた後、時雨くんに頼みに行ったんだ」

 終夜はあの施設内から明依が抜け出そうとすることは考えていただろう。では一体、施設から実際に抜け出す可能性はどれくらいあると考えていたのか。恐らくそんなに大きくはなかったはずだ。それなのに、その対策まで打っている。

 終夜は無意味な行動はとらない。
 あの時の終夜は間違いなく自分を殺そうとしていた。真っ直ぐに殺意を向ける終夜の顔と、最後に見た柔らかい表情が頭の中に浮かんで、先ほど彼の刃が裂いた着物の左肩に触れた。

「違います。終夜は二回、本気で私に刀を振るいました」

 清澄と時雨は目を見開いた。

「本当に殺されかけたって事かい?」
「演技じゃねーの」
「さあどうかしらね」

 清澄と時雨の疑問を打ち切る夕霧は、上を見る事をやめて薄く笑って室内を見た。

「だって振り子は、左に振れば」

 夕霧は先ほどの終夜の様に宙を指さす。清澄と時雨はその様子を穴が開きそうな程じっと見つめていた。

「右にも同じ幅で振れるもの」

 夕霧の指は、しなやかな動きで半円を描く。時雨と清澄はそれを視線どころか顔で追いかける。それから夕霧の顔に視線を移すと、綺麗な顔と口角を少し上げる夕霧に、二人は示し合わせたように俯いて頭を抱えた。

「おい清澄さん。俺の事ブン殴ってくれねーか」
「ああ、当然だ。でも先に俺を殴ってほしい」
「こんな時にバカやってるんじゃないよ」

 勝山に怒られて、二人は「ごめんなさい」と本当に反省している様子で俯いたまま謝っていた。
 しかし勝山の視線は夕霧に向いていて、勝山の呆れた視線を一身に浴びた夕霧は「面白そうだったから」と申し訳なさそうな素振りは微塵も見せずにそう言った。

「仮に終夜くんが本気で明依ちゃんを殺そうとしたとする。でも、どうしてわざわざ、下に時雨くんを待機させたんだ」
「……それは」
「十六夜が必ず黎明を守り切ると知っていたからだろうね」

 気持ちを整理するために口に出そうと思った言葉は結局、糸が絡まりすぎて出てこなかった。
 そんな最中、勝山は当たり前のような顔でそういう。明依は目を見開いた。

「知っていたんですか……?勝山大夫、十六夜さんの事……」

 勝山は言ってはいけない事を言ったとでも思ったのか。眉と口を少し曲げて口を閉ざした。しかし、そんな勝山の様子すら観察する余裕のない明依は、触れている肩を強く握った。

「私、訳が分からなくて……どうして十六夜さんは私を……」
「さあ、どうしてだろうね。……陰と関わる事なんてない遊女には、関係のない話さね」

 少し目を伏せて視線を逸らす勝山はきっと何かを知っている。そう思って明依は口を開こうとした。

「明依、怖かったでしょう。もう一緒に、帰りましょうか」

 吉野がそういう。凛と一度だけ、鈴の音を響かせる様な声で。それは心の隙間に入り込むみたいに、優しい。

「それがいい。満月楼の中にはもう、危険は及ばないだろう。少なくともここよりはずっと安全だ」

 清澄は吉野の言葉に深く頷いてからそう言った。

 満月屋に帰る。
 それはつまり、ここから逃げるという事。それは、終夜を見捨てる行為だ。そこまで考えて、見捨てるってなんだと心が反発した。殺されかけた。明らかな殺意を向けられた。
 それなら、最後に見せたあの終夜の表情は、あの優しい様子は、一体何だったんだろう。

「では、念のために満月屋までは梅雨をつけよう。梅雨、行ってくれるな」

 高尾の提案に、梅雨は珍しく素直にこくりと頷いた。

「待ってください」

 自分の耳に入った自分の声は、想像しているよりもずっと力強く聞こえた。

「私はまだ、帰りたくない」

 わかっている事はいたってシンプルで、でもはっきりと言葉にするには散漫しすぎている。
 自分の知らないところで何かが動いているのだろうという、ぼんやりとした何か。ただ何となく感じるのは、自分の根本を揺るがすような大きな出来事なのかもしれないという、感じの悪い予感。

 ただ、このまま満月屋に帰れば一生心に残る後悔を背負うという確信。
 それ以上の後悔が、今の明依には思い浮かべる事が出来なかった。

 それが、どんな経路を辿って着地したのかわからない。もしかすると、最初から道なんてないのかもしれないとすら思う答え。

 今度はちゃんと、終夜の顔が見たい。

「どうしてみんな、私をここから遠ざけようとするの?」
「ねえ、明依」

 吉野が優しくそう問いかけた。吉野の優しさに触発された自分の顔はもしかすると、決意に反して凄く頼りなく見えているかもしれないと思った。

「知らない方が確実に幸せだと断言できる事を、あなただったら知りたいと思う?」

 以前にも同じ質問を吉野はした。どんな返事をしたのかも覚えている。吉野も覚えているはずだと明依は確信していた。だから真意は分からない。もしかすると、念のためにもう一度確認しておきたかっただけなのかもしれない。

 ただ明依には吉野がどうしても〝胸を張れ〟と言っているように感じて仕方がなかった。

 明依は混乱してすっかり浅くなった呼吸を、意図的に深呼吸することで深めた。それから背筋を伸ばして竦んでいた身体を叩き起こす。

「その質問には前にも答えました。吉野姐さま」

 松ノ位が聞いて呆れる。
 自分を見失うなんて、なんて情けない。でもきっとこれも自分らしさなのだろうと思う、諦めとは違う穏やかな色の気持ち。

 明依はもう一度、吉野の言葉を心の内でなぞって気持ちを巡らせた。

 今も何一つ変わっていない。
 ではそれが怖くないのかと言われればそうではなくて。

「知りたいです。知った上で気持ちを整理したい。感謝したり、憎んだり。そんな気持ちは、真実を知らないと見えてこないから」

 そういう明依に吉野は小さく頷いて、どこか悲しそうな顔で笑った。

「……では」

 そう切り出したのは高尾だった。布で覆われている顔からは何も読み取ることは出来ないが、高尾の声は部屋の中の空気を変えた。

「お前に隠し事をしているのは宵だけではない。終夜も同じ事だ。お前にたくさんの事を隠している」

 宵が自分に隠し事をしているというのは理解できる。宵は警察官だ。自分に言えない事なんてたくさんあって、きっと言える事の方が少ないのだろうという事は考えなくてもわかるから。

 そこまで考えて、明依は鳴海の言葉を思い出した。
『俺にはアイツが、何か大きなものを背負っていて、それを何食わぬ顔で隠しているように見える』

 この言葉の続きが、終夜の核心。
 触れられそうで触れられなかった、終夜の全て。

 知りたいという強い衝動と、恐怖心という役に立たないブレーキ。

「黎明。私たちは皆、終夜にそのたくさんの事を口止めされている。そして皆、お前のこれからの人生の為にその事は知らない方がいいと思っている」

 その言葉に同意したのはきっと、この場所にいる自分以外。
 もしかすると梅雨はどちらでも構わないと思っているかもしれないが、先ほど高尾の言葉に嫌な顔をすることなく満月屋まで送り届けようとしてくれたのだから、少しは心配してくれているのかもしれない。

「可哀想にね。もうどっちに転んでも地獄でしょうに」

 そういう夕霧は、楽しそうでも憐れんでいる様子でもない。口調からも表情からも、何を思っているのか読み取ることはできなかった。

「本当に知りたいかい。アンタのいままでとこれからが大きく変わる」
「……それでも、知りたいです。ちゃんと自分の心で、判断したいから」

 緊張感から手足が冷たくなり、感覚がなくなっている事は分かった。恐怖心が心臓を打ち鳴らして、早く楽にしてほしいと叫んでいる。

 これから先が、本当の地獄の始まりかもしれないのに。

「ではまず、どこから話そうか」

 高尾がそう言った後、明依はしっかりと高尾の顔を見た。高尾が息を吸い込み、ほんの少しだけ顎を上げた。

「お前は随分、宵にいいようにしてやられたな」

 その言葉に、ドキリと胸が音を立てる。言葉を選ばないその言い方。しかし、全くもってその通りだと思ったから。

「自分に逆らわないよう、反発しないよう。長い時間をかけて心の内に宵という人間とそれに付随する感情を植え付けられた。しかしな、黎明。お前の今見ている世界はもう宵が造ったものではない。……お前は今、終夜が造った世界を見ている」

 つい先ほど、自分の中に感情が造られる感覚をしっかりと味わった。終夜は雰囲気や五感を利用して心の中に感情を造る。
 その事を言っているんだろうか。

 しかしそれに〝世界〟というのはあまりにもそれは大げさに思えた。

「終夜は、宵がお前に見せた幻想世界を利用して、都合のいい世界を造って見せた」
「……終夜にとって都合のいい世界、という事ですか」
「いや、お前にとって都合のいい世界だ」

 全く理解が出来ない。
 いったい何が、都合のいい夢なのだろう。

「黎明、終夜が宵に執着する理由を知っているか」
「……それは、宵兄さんが……」
「警察官だから、か?」
「……はい」

 知っていたのか。という多少の驚きはあるもののあまりにも当然にそういう高尾に、誰一人として声を上げないこの現状で、明依は小さく肯定を呟くことにした。

「では、どうして終夜が宵をすぐに殺さないのか考えたことがあるか」

 チャンスは何度だってあった。宵を地下に連れて行った時なんて、誰もが宵は生きて帰ってこないかもしれないと思っただろう。
 あの時、叢雲が手を打つより前に宵を殺しておけば、終夜の身の回りで今起こっている面倒ごとはほとんどなかったはずだ。

「終夜は、『今生の罪くらいは認めさせてから殺さないと、寝覚めが悪い』って」
「それは半分が本当で、半分が嘘だ。……終夜は宵を殺さなかったんじゃない。殺せなかったんだ」

 終夜が宵を殺せなかった。そんなはずはない。もしも宵の能力が高かったのだとしても、地下牢では繋がれてボロボロになっていた宵を見た。あの状態で、宵に分があるはずがない。

 どうやら明依に少し考える時間を与えたらしい。それから少しして、高尾はすっと息を吸った。

「この世界に〝宵〟という人間は存在しない」

 偽名くらいは使うだろう。
 〝宵〟という名前は、仕事の為に使う偽名だと言われても驚きはしない。

 ただ、高尾からはそんな程度の低い話をしている様子には見えなくて。

「宵の本当の名は〝暮相(くれあい)〟という」

 頭を鈍器で殴られた様な衝撃。

 どこかで聞いた名前だと、明依は何度も頭の中でその名前をなぞった。

 〝暮相〟

 現代の裏の頭領、暁の息子。

「かつて吉原から追放され自ら命を絶った、私達が友と呼んだ男だ」

 誰かがその人を友と呼び、誰かがその人を兄と呼んだ。
 かつてこの吉原に希望を与え、吉原から追放され、自ら命を絶った人。
 この街を縛り付ける、呪い。

 そんなはずがない。
 だって時期が合わない。宵がこの街に来てから、暮相は死んだんだから。

 『お前は暮相という人間にあった事はあるか』
 『ありません。俺が来た時にはもう、この街にはいませんでしたから』
 『では、吉原の街にあの男が死んだという一報が巡った時の事は覚えているか』
 『覚えていますよ。主郭もこの街自体も、騒然としていた』

 高尾は確かに、三浦屋で宵とそんなやりとりをしていた。
 忘れているんだろうか。いや、高尾に限ってそんなはずはない。

 逃げ場があったはずの明依の後ろで、たった今地獄の門は、音を立てて閉ざされた。