「やっと出てきた」

 終夜はそう言うと、明依の隣から伸びた誰かの手首を握った。

「会いたかったよ、十六夜(いざよい)

 終夜はそう言うと、挑発的な笑顔を作った。十六夜は終夜のその表情を見ると、少し俯いて考えるそぶりを見せる。

「示し合わせている訳ではなかったでしょう。あなたは本気で黎明を殺そうとしていた。それなら、どうして……。私はあなたに騙されたのでしょうか、終夜さま」
「その答え合わせに意味はある?好きな解釈でいい。でも、アンタが止めなかったら黎明は今頃死んでるって言うのは正解。そしてこれから先も、アンタが守らないなら黎明は死ぬよ」
「……わかりません。どうしてあなたは、」
「わからなくていいんだよ」

 十六夜の言葉を遮った終夜は、刀と十六夜の手首を握っている手に力を込めた。十六夜は咄嗟に、終夜の力に押し負けない様に力をこめる。

「下がって、黎明」

 十六夜にそう言われ、明依は唖然としたまま横にずれて、後ずさる様にして二人から離れた。

「どうして、十六夜さんがここに……」

 十六夜は身請けられて吉原の外に出たはずだ。『幸せになって』、という言葉を残してこの街を出て行ったはずだった。

「十六夜は陰だよ。身請け話なんて都合のいい嘘。ただの人事異動だ」

 終夜はあっさりとそう言い放つ。
 十六夜は陰で、身請け話は嘘。
 心の中に落としてみても、そうだったのか、という納得でおしまい。その一つの事実では、この状況を説明する理由にはならない。

 頭の中ではもう、無意識にこれまでの十六夜と終夜の様子を算出する事に努めていた。

 丹楓屋に行く途中の事。明依を人質に取り、十六夜を引き止めていたあの時の事が、頭の中に浮かぶ。どうしてこんなことをしたのか。どうして終夜は十六夜に〝会いたかった〟のだろう。一人では到底紐解く事ができない、疑問。

 混乱した明依は、冷静でいる様に努めて深く呼吸を繰り返した。
 終夜に殺されかけて。十六夜が守ってくれて。それは全部、終夜の作戦の一部。しかし終夜は、あの時本気で殺そうとした。十六夜の言葉に完全に同意する。終夜が自分を殺す気であった事は間違いない。

 考えても訳が分からないまま、明依は未だに平行線をたどっている終夜と十六夜のやり取りから目をそらせなかった。

 十六夜は自分が明依と終夜の間に入る様に、明依に背を向けようと身体を少し動かした。

「どこ行くの?……遊ぼうよ」

 そう言うと終夜は、握っている十六夜の腕を引き寄せる。

「やっと会えたんだから」

 そういう終夜の顔は、無機質で。
 ただ目の前の人間を殺す事しか考えていない。そんな顔。

 角度を変えて力をこめた終夜の刀の切先は、十六夜の心臓に向かって一直線に伸びた。
 空気を震わせる破裂音に、終夜は十六夜に向けていた刀の動きを止めた。それと同時に明依は思わず目を閉じてさらに後ろに下がり、我に返ってすぐに顔を上げた。宵の放った銃弾は、終夜の刀を持っている手の皮膚表面をほんの少しだけ掠めていた。

「危ないな」
「動くな、終夜」
「嫌だね」

 宵の制止の声も聞かず、終夜は十六夜を振り払って一直線に明依の方へと走った。何度も鳴る銃声に驚いている暇すらないくらい、明依の反応速度では一歩後ずさる事しか出来ないくらいの、少しの間の出来事。

 刀を振りかざす終夜からは、やはり本気で殺そうとしているのだという事が伝わる。
 その事実が何らかの感情を連れてくるより前に背に障子窓があたり、明依は反射的に終夜から目を逸らした。次に終夜を見た時には、ギリギリの所で十六夜の刀が終夜の刀と明依の身体の隙間に入り込んでいた。

「あなたの本来の目的は、私を殺す事でしょう。その目的の為に黎明を利用している」

 少し切羽詰まった声でそう言う十六夜は、ゆっくりと息を吐く
 明依は障子窓に隙間なく身体を押しつけていた。力で押し負けている十六夜の刀が少し沈み、掠めた終夜の刀が明依の左肩の着物を小さく裂いた。

「やっぱり私にはわかりません。教えてくださいませんか、終夜さま。もし私を殺す為に黎明を利用しているのだとしても――」

 体勢を立て直した十六夜は、それから終夜と視線を絡めた。

「――どうしてあなたは、愛する人を本気で殺そうと思えるのですか」

 〝愛する人〟
 十六夜のいうそれが誰を指しているのかわからない程鈍感ではなくて。でも、どうしてこの状況に陥ってまでそう思えるのかわかる程敏感ではない。

 純粋な十六夜の問いかけに、終夜は鼻で笑う。その嘲笑は、他の誰かに向けたものではないという事は明らかだった。

 終夜が短く息を吸う音が、嫌味な程はっきり、鼓膜を揺らす。

「愛なんてたった一言で片付くほど、単純じゃないから」

 二つの銃声が重なる。明依は頬のすぐ横を掠めた弾丸を思わず視線で追い、それからもう一度目の前に意識を向けた。
 銃声の内一つは、刀とは逆の手で十六夜の右肩口を至近距離で打ち抜いた終夜の物。それからもう一つは、銃を持つ終夜の腕の表面を深く抉った宵の物だった。終夜は堪える様に一瞬だけ眉を潜めた後、ゆっくりと息を吐いた。

「宵兄さん!!!」
「近寄るな!!殺されかけたんだぞ!!」

 明依は責めるような口調で宵の名を叫んだ後、二人の間に入り終夜に手を伸ばす。宵の言葉を理解して、終夜の着物に触れるか触れないかの所で戸惑い、中途半端に動きを止めた手が宙を彷徨っている。

 つい先ほど殺されかけた人間を守っている。どうして自分がこんな行動をとっているのか、自分自身にもわからないまま。
 これが狂った末路だというなら、とんだ喜劇だ。

 明依はこの状況に視線を巡らせた。宵の放った弾丸が当たった終夜の腕は、覆っている着物が赤く染まっていて状態を確認することが出来ない。十六夜も同様。ただ、撃ち抜かれた肩を抑えた手が真っ赤に染まり、血が溢れていた。

 どれだけこの状況を観察したところで、どうしたらいいのか、何ひとつの勘も働かなかった。

「動くなよ、終夜」

 宵の声で現実に引き戻された意識は、焦りを連れてきた。

「殺さないから、そこをどいて。明依」

 冷静な様子でそう言って銃を構える宵の表情を、なぜか無慈悲だと思った。

「……これでもう、右手で物は握れないね。十六夜」

 終夜は我関せずと言った様子で言う。十六夜は唇を噛みしめて触れている肩に力をこめた。その途端、先ほどよりも速いスピードで血が着物を染めた。

「そこから離れろ、小夜(さよ)
「大丈夫です。かすり傷ですから」

 血を一秒ごとに吸い込んで、陰の黒い着物の色が変わっていく。
 これがかすり傷である訳がなかった。

「どういう事……?」

 ごちゃごちゃと騒がしい、なんて穏やかな言葉では表現できない程の蠢き、反響する轟き。その果てにぽつりと浮かんだのは、情けないほどシンプルな疑問。

 そしてこの場で、この状況をわかってないのは、自分だけだという確信。

「どうして終夜が、十六夜さんを殺そうとするの?」

 それに当然、終夜は答えない。

「どうして十六夜さんは、私を守ってくれるんですか」

 十六夜は、返事をしない。

「宵兄さんはどうして、十六夜さんが陰だって事を知ってるの?」

 宵は表情一つ変えずに終夜を見ている。明依の質問に、視線がずれる事はなかった。

「……偶然知った。それだけの話だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ、明依。信じて」
「……私に、何を隠してるの?」
「説明するよ。後で、全部。だから今は、終夜から離れて」

 その言葉に、明依は肩の力を抜いた。
 それなのに、蠢く。心の中で何か。
 宵がそう言うのだ。きっと、ちゃんと説明してくれる。

「……ねえ、宵兄さん。その説明は――」 

 確信を付いた質問には、誰も、何も、答えない。
 だから自分で答えを出した。
 自分が見てきた、宵という人間に対する、答え。

 『人は極限の状態になった時に、本心を言う』
 ほらまた、終夜の言葉を思い出す。

 本気で殺されかけた、憎んで憎んで、それから愛した男の言葉を。

「――自分に都合のいい〝事実〟なんでしょう」
「一分でいいから休ませてくれない?」

 明依が言い終わってすぐに放った終夜の言葉に、宵は明依に移そうとしていた視線を留め、何かを言いかけて薄く開いた口を結んだ。

 終夜はゆっくりと息を吐く。それから刀を手放し、銃を懐にしまった。腕を下ろした終夜の指先から、血が滴り落ちる。

 先ほど躊躇した事など、もう忘れていた。明依は抱きしめようとでもする様に、終夜の正面から腕を伸ばして両手で終夜の腕に触れた。

 終夜の片手が動いて、明依の片手は先ほど同様、宙を彷徨う。終夜は着物の袖で明依の頬を撫でた。それから腕を下ろした終夜の袖には、いつ、誰の物なのかわからない血が霞んでいる。

 着物の袖から、終夜に視線を移した。
 つい先ほどまで殺し合っていたとは思えない程、殺意を向けた相手に向ける表情とは知らないのではないかと思うくらい、柔らかい。

 都合のいい夢かもしれないと思った。余りに極端に、感情が揺れるから。

 自分に触れている明依に応える様に、同じように手を添える終夜のその動きはやはり柔らかくて、優しくて。
 でもその手は、優しい力で自分から引き離そうとするから、それをやめさせたくて俯きながら数歩後ろに下がるのに、離れたくなくて。自分の今の望みが叶う様に、俯いたまま精一杯、終夜の着物を握りしめた。

 状況が何一つわからないのに、終夜の行動は胸を締め付けて切なくさせる。

「明依、こっち見て」

 その言葉に明依は俯いたまま、首を横に振った。

「お願い」

 珍しい終夜の下からの要望にも、首を振った。

「なんで。もう嫌い?」

 その質問にも、明依は首を横に振る。

「私を、殺すんじゃなかったの……?」

 かすれた声でした質問に、終夜が答えない事を知っていた。だから、震える喉元で息を吸ってから次に言う言葉は決まっていた。

「答えてくれないなら、嫌い」
「ええー。わがまま」

 終夜は冗談めいた口調でそう言うと、切り替える様にゆっくりと息を吐いた。

「待たれてもさァ……案内人には頼りないし、役に立たなさそう。リサーチ能力も低そうだし」

 無駄に明るい声で、一体何を言ってるんだ。そう考えたから、気が緩んだ。終夜は一瞬で明依を自分から引き離した。

「バイバイ、明依――」

 そういう終夜に肩を押されて、明依の身体は重力に従って後ろに倒れた。
 明依の体重を支え切れなかった障子窓は外れ、屋外に投げ出された。当然、それに従って明依の身体も、主郭の屋外に放り出される。

「――旭と日奈によろしくね」
「明依!!!」
「黎明!!!」

 宵と十六夜の言葉が重なる。それさえ、どうでもいい事の様に思った。
 もうこちらを向いていない終夜の顔は、陰になって見えない。

 どうして。
 どうしてあの時、終夜の顔を見なかったんだろう。

 意地を張って、俯いてしまった。
 そうしていれば終夜は自分の望みを叶えてくれると、そう思ったのかもしれない。
 本当は、終夜の顔が見たかったのに。

 終夜の顔が見たい。
 それが叶わないなら、あの時救われないまま陰に殺されていた方がいくつもマシだと思えるくらいの、果ての無い、一生涯胸に残り続ける、最悪の後悔。

 この高さから落ちたら確実に死ぬというのに、先ほどのような切迫感が心のうちに一つとして浮かび上がってこないのは、一体なぜだろう。

 忠実に、きわめて忠実に重力に従って落ちて行く。
 しかしそれは、大きな衝撃と共に終わった。

「明依はちゃんと捕まえたからな!!終夜!!聞こえてんだろうな!!」

 誰かの腕の中で、唖然としたまま上空に向かって叫ぶ声を聞いていた。

「……時雨さん」

 明依がそう呟いた途端、腕を伸ばして明依を捕まえた時雨の身体ごと木の柵越しに傾きそうになる。

「梅雨」

 その声は、穏やかな川の流れの様で。

「ああ!!おい、オマエ!!ぐえ……」

 梅雨が柵に体重を預けている時雨の背中に遠慮なく足を乗せ、頭を踏みつけたおかげで時雨が柵の向こうに放り出されることはなかった。梅雨は片手で明依の胸ぐらを掴むとあっさりと持ち上げて時雨から降りる途中、ついでと言わんばかりに時雨の首根っこを掴み、仰向けにさせた。

 梅雨が手を放した後、明依はその場にへたり込んだ。

「怪我はないか、黎明」
「……はい」

 反射的に返事をする。それからやっとの事で視線を巡らせた。
 凛と立つ梅雨、寝転ぶ時雨、心配そうな顔で座っている清澄。

 それから、四人の松ノ位。

 そしてこの場で、この状況をわかってないのは、自分だけだという確信。