「二重人格なの?それともそっくりな双子がいるとか」
「どっちだと思う?」

 明依の言葉に、終夜は間髪入れずに一言そう問いかける。
 馬鹿にしたように挑発的な言葉を選んでいる事に、終夜が気付いていないはずがない。だからこれが、人間心理を理解した終夜が用意する簡易的な〝二人だけの世界〟だという事に気付いていた。

 だから明依はなるべく、自分から初めた話を広げようとする終夜の質問の答えを考えない様に努めた。

「それとも、どっちも違う?」

 いつもよりほんの少しだけペースも音階も落とした声に、刀の鞘を腰紐に通すときに着物が擦れる音。気を張っている外側から耳に入るそれは、座敷での始まりを連想させた。終夜の手によって自分の中に感情が造られると感じている。

 それは概ね、嫌な気持ち。身体を許さないといけない屈辱。でも同時に、自分が相手を試している優越感。そこからほんの少しだけ除く、期待。

 何度も何度も思い通りになると思っているなら、本当にどこまでも下に見られているのだろう。
 でも、終夜に身を任せている。それは力でも頭脳でも、この男には勝てないと知っているから。ただ往なす方法を、心が揺れる事だけがないように努めている。

 終夜は結んでいた指を解いて明依の手のひらを掬うと、一本一本指の隙間に絡めていく。そして逆の手でもう一方の明依の手を握った。
 違和感がないくらいのペースでゆっくりと瞬きをした終夜が口を開いた。

「『確かめて』」

 思わず表情が固まって、とっさに下を向く。しかし終夜は、両手で明依の顔を掴むと無理やり視線を合わせた。

 終夜が囁くそのたった一言で、綺麗に笑う顔で、一瞬で頭の中が染まって馬鹿になる。
 見たことがない程美しくて、でも身体を害する程甘い。これから始まるそんな〝何か〟を、本能に無理矢理教え込まれている様な。

 言葉で遊ばれるというのは、こんな感覚なのか。遊女や陰間に心酔する人の気持ちがこれほどわかる日が来るとは思わなかった。
 先ほど陰相手に選んだトドメの言葉と同じ言葉を、まさか自分が吐かれるなんて。

 そして同時にこう思う。終夜の作る世界はまるで、霧のように実体がない。

「〝お前を誘導した。俺の思い通りだ〟って言いたいの?」

 終夜のペースを途切れさせる言葉を吐いて、脈打つ気持ちを殺す準備をした。

「そんな酷い言い方してないけど、そういう事かな。一緒に遊べて楽しかったよ」

 何もかも思い通り。
 終夜の用意した簡易的な〝二人だけの世界〟は、もう間もなく終わる。

「遊女と戯れたいなら妓楼へどうぞ」

 そう冷たく言い放つと、終夜は綺麗な顔で笑う事をやめて明依の顔から手を放し、代わりにいつも通りの薄ら笑いを浮かべた。

 あの感覚をしっかりと表現する為の言葉も名前も知らない。藤間だったら何か思いつくだろうか。
 そう思った頃にはもう、終夜が作る簡易的な世界からは完全に抜け出していた。
 少し前の自分なら、あっさりとこのペースに飲まれて、あっさり自分という個性を手放していたに違いない。

「ここまでって何?どういう意味で言ってるの?」
「ここで死ぬって事」
「誰が?」
「アンタだよ、明依」

 この状況から薄々勘付いてはいたのだろう。ショックはなかった。でも、夢でも見ている様だ。ついさっき守られて、約束をした。それまでにもたくさんの〝思い出〟が確かにあって。終夜という男を信用すらしていたはずだった。

 理解できない。何がどうなって、終夜の中でそうなったのか。一瞬でも重なったと思ったあの時間は、一体何だったのだろう。

 先ほどの時雨とダーリアのやりとりを思い出していた。終夜には出来ないと思っていた。女性の喜ぶ言葉をかけて、気持ちよくその場を終わらせる。あの時、きっと終夜にはそんなことは出来ないだろうと、確かにそう思った。

 それなのに、今目の前にいる終夜ならあっさりとやってのける気がしていた。それは終夜の言う〝最高の善人〟、つまり日奈や旭、雪や施設の子が見ていた終夜と、〝最低の悪人〟である吉原の厄災と呼ばれる終夜の違いなのだろうか。

 それなら自分の中の終夜という人間はもう、〝最高の善人〟固まりかけていたはずだったのに。

 しかしうろたえている内側を、一瞬たりとも態度に出す気はなかった。それはまるで、つい先ほど陰の男に殺されかけた時と同じ感覚。

「どんな時でも保険はかけとかないと。アンタは宵と身を固める。万が一俺がしくじった時、これ以上宵に権力が偏っていたら困るんだ。だから、この抗争に巻き込まれて死んでもらおうと思って」

 やっぱり、理解できない。いや、理解しないように無意識に努めている。
 終夜の本性がまさか〝吉原の厄災〟と呼ぶにふさわしい人間だなんて、信じたくないから。

「そういう事なら松ノ位の姐さま方もきっと納得してくれる。松ノ位に上がる人間には規則性があるって言ったろ。みんな自分の事は自分自身で責任を取って、自分の人生を生きる覚悟がある人達ばかりだ。これが明依が選択した末路だって理解すれば納得する。吉原解放の話も流れる事はない」
「……じゃあどうしてさっき、私を助けたの」
「俺が殺すことで、副産物があるからだよ。二人で吉原から帰ってきたとき、みんなきっと黎明は吉原の厄災の贔屓にしている遊女で、宵と身を固める事が気に入らないから嫌がらせをしていると思ったはずだ。……アンタを殺した刀には、アンタの血と俺の指紋が付いてる。これをここに置いて行く」

 終夜は先ほど腰布に刺した刀を鞘ごと引き抜くと、確かめる様にゆっくりと握りしめた。

「みーんな、宵は婚約者ひとり守ることが出来ない男だって思うよ。俺に吉原の外に連れ出されて、挙句の果てに殺されるんだから。しかも相手は松ノ位だ。そんなヤツに頭領なんて任せられるとは思えない。ただじゃすまないよ」

 明依は息を吐く。
 納得してしまった。終夜が自分を殺す理由に。
 終夜は合理的だ。それだけの理由があれば、殺す事を(いと)わないだろう。
 気付けるはずがない。こんな事。

 自分の死後に宵に迷惑をかける事を心底申し訳なく思った。
 では、この末路は終夜に(たぶら)かされて一時の感情と知りながらずるずると身を委ねた事に落ち度があり、それだけが原因か。と問われればそうでもない様な気がする。

 本気で好きになった。
 自制すら利かない程強く。

「他に聞きたいことはある?なんでも答えてあげる」

 どうあっても状況が変わることはないという終夜の自信。
 自分が今、どんな顔を終夜に晒しているのかわからない。

「わかってたはずだよ、明依。これが俺の強さだ。必要ならどんなものでも利用する。どんな可能性もつぶしておく。わかっていてもまさか自分がその対象になるなんて思わなかった?」

 首を傾げて小馬鹿にしたように問いかける様子は、まさに〝吉原の厄災〟と呼ばれている以前よく知っていたはずの終夜で。かき乱される平穏と並行したどこかで、それを懐かしくも感じていた。

「自分の責任は自分で取らなきゃね。俺が〝腐れ外道〟だって忘れて行動を共にした、アンタの落ち度だ」

 わからない事ばかりの中で、分かっていることが一つだけある。
 今もまだ、心のどこかで〝終夜〟を信じている。

「今もまだ〝そんなはずない〟って、心のどこかでは期待してるんでしょ?」

 言い当てられた事に、今更感情が大きく揺れる事はなかった。

 感情は揺れすぎると、心はそれを認識すらしたくなくなるらしい。
 騒がしい感情の波の内側で、ぽつりと殻に閉じこもっている感覚。
 もしかすると終夜から見れば、人形の様な張り付けただけの無機質な表情をしてるのかもしれない。

「嘘をついて異性を誑かすのは、遊女だけの専売特許じゃない。ちゃんとその脳みそに刻み込んだ?吉原で騙されるのは男だけじゃないって」

 泣いてみて何かが変わるなら、喚いてみて何かが変わるなら、その確証があるならそうしていたかもしれない。誰か側にいるだろうか。
 いや、一体誰がこの男を止められるんだ。

 それなら引き際はどこだ。どんな風に終わらせればいい。
 もういっそ、この流れに身を任せてみようか。

 そう思ってからすぐ、頬を伝って顎からぽたぽたと零れる涙すら拭う余裕がなかった。しかし終夜は、それを袖口でそっと拭う。その感覚には、何度か覚えがあった。

 終夜はなんだかんだ不器用な男だと思っていた。こんなことも出来る男だったのか。これから殺す人間の涙すら平気な顔をして拭う事が出来るくらい器用な。

「何度も言ったはずだよ。何度も警告した。〝アンタは自分すら守れない〟〝俺はいつか必ずアンタを裏切る〟って」

 終夜はそう言うと、刀身を下げて重力で鞘を畳の上に落とした。

「自分を過信しすぎたね。だから本当に良いヤツと悪いヤツの区別がつかなかった」
「勝手な事言わないで」

 抜け殻になった感情の中で形がない位ぼんやりと色づいて見えるのは、明らかに終夜に対する反骨心。

「私は、今までの全部で終夜を信じたの」

 死に際に返り咲いた目の前の男への複雑な感情が、最後の時をせめてと綺麗に綺麗に飾り立てている様な気がした。

「だから俺に、殺されちゃうんだよ」

 終夜は刀を振り上げた。
 明依は終夜の胸ぐらを強く掴み、それからしっかりと目を合わせた。
 結局、気持ちの整理はつかなかった。だから思いついた言葉を吐く。
 原色を思うままにぶちまけた様な、複雑な気持ちを、ぜんぶ。

「地獄で待ってるから」

 これから殺す女がはっきりと目を見て笑った事に、終夜が最後にどんな感情を抱いたのかは知らない。

「明依!!」

 そう叫んだのが宵だという事は一瞬で脳みそが理解する。ただ視界の端をちらついているだけで、直接最後に姿を確認することが出来なかった。

 万々歳の人生だ。自分の今やれる範囲の事をやった人生だ。後悔はない。
 それは陰に殺されかけた時の様な穏やかな気持ちではなくて。もっと荒々しくて、もっと堂々とした何か。
 その全てはおそらく、その脳みそに深く刻んでやると強く思う憎しみ。
 そしてほんの少しだけ。人生を捧げても構わないと思った男に対する、それの裏返し。

 そんな大往生の原色に水を差したのは、終夜の盛大な舌打ちだった。

 人が気持ちよく人生終わろうとしてる時に嫌がらせかよ、と思った明依は、最後に考えるのもやっぱり終夜に対する悪態かと呆れた気持ちになった。

「最悪」
「やめろ!終夜!!」

 刀を振りかざしながら吐き捨てる終夜の声と、宵の叫び声が重なった。
 遠慮なく刀を振りかざす。本当に何の遠慮もなく。
 本当に殺すつもりなんだという事実が、胸を縛っている。

 終夜の刀が身体を切り裂くまでに、宵がここへたどり着く事は不可能だ。宵が瞬間移動という特殊能力を持っているなら別だが。

 隣から誰かに握られた刀が伸びて、終夜の刀の動きが止まった。
 高い所で音が鳴った後、明依は思わず終夜の胸ぐらから手を放した。

 ここでやっと、終夜越しに入り口を見る。そこには宵がいた。じゃあ、この刀は一体誰だ。晴朗だろうか。いや、彼の性格的にわざわざこのタイミングで飛び出してきたりはしないだろう。

 守ってくれた。一体誰が、何のために。
 誰かは終夜の上から振り下ろす力に対等にわたり合う為に、刀の(みね)にもう片方の腕を添わせた。

 ゆっくりと、自分を守ってくれた誰かに視線を移した。

「……なんで」

 ここにいるはずのない人物に、ありきたりな言葉以外見つけられなかった。