そういえば丹楓屋に行く途中に終夜に捕まって十六夜が迎えに来た時にもこんな風に首に刀を押し当てられたことがあった。
 あの時に比べると随分と気が楽だ。とりあえず殺されない事は確定している。

「手、邪魔なんだけど」

 まあだからと言って、この男を信用しているわけではない。以上が結論だ。

「そうなんだ」

 テキトーな返事をして終夜が諦めるのを待つ。
 手の緩みは心の緩み。今まで散々してやられたんだから、そう何度も何度も同じ(てつ)は踏まない。そう自分に言い聞かせて、もう一度しっかりと終夜の腕を両手で握りしめる。

「放さなくていいから、そんなに力入れないで」
「無理。信用できないから」
「うっかり首刺しちゃいそう」
「お茶目な感じで言わないで。怖いから無理」
「少しは信用してくれてもいいんじゃない?一緒に窮地を切り抜けた仲だろ」
「まずはその窮地を招いたのが一体誰なのか考えた方がいいんじゃない?」

 警戒する主郭の人間の様子を注意深く観察する終夜と、冷静に恐怖を感じている明依は、ぼそぼそとやり取りをしながら少しずつ正面の階段に向かって進んだ。

 日奈も旭も幼少期の終夜を相手にするのはさぞ大変だった事だろう。公共の壁に地道に穴を掘って、向こう側から気づかれない様に小細工をする子どもだ。

 もしもこの男と幼少期に知り合いだったなら、うまい事大人を騙して何でもかんでも責任を押し付けられ、悔しい思いをしていた自信がある。心底嫌いになっていた事だろう。

 日奈と旭の懐は、どこまでも続く空や青い海。広大に広がる大地よりも深くて広いと感服するばかりだ。こんなどうしようもない人間と関わってくれたのだから、あの二人の懐の深さは保証する。

 そんなことを考えている明依と何を考えているのかわからない終夜は、お互い徐々に腕に力を込め合った。その時、握っている手がほんの少しだけ滑った。

「あ」

 たった一文字。
 終夜が不吉な一文字を吐いた途端、首筋がチクッとした。

「痛いーー!!!」
「ごめん。ちょっと刺しちゃった」

 明依の盛大な叫び声に被せて、終夜は小さな声でそういう。

 男たちは前のめりになって警戒を一層強めた。

「黎明大夫!!しばしご辛抱を!!」
「すぐにお助けいたします!!」

 威勢よくそう言っていただけることは本当にありがたい。ありがたいとは思っているが、今の痛みでテンションが下がりすぎた明依は返事ひとつする気になれなかった。

 裏の頭領の所までこれが続くのか。そう思うともう歩くことさえしたくなくて、終夜のバカ力に任せようと思い立って足の力を抜いた。

「なにサボってるの?自分で歩いてよ」
「……もうやだ。今のひとチクでめっちゃテンション下がった」
「ひとチクでよかったじゃん。ひとグサじゃなくて」

 グサッなんて効果音で首なんか刺されたらもう明るい未来は見えない。
 終夜にずるずると引きずられながら、正面の階段を上がっていく。

「女を人質に取るなんて卑怯なヤツだ」
「自分の贔屓にしている遊女を盾にするなんて、なんて卑劣な」
「まさに鬼の所業」
「クソッ、外道め」

 余りにぼろくそな言われように、明依は全身の力を抜いたまま思わず笑いを漏らした。

「何したらこんなに嫌われるの?腐れ外道は言われ過ぎでしょ」
「そこまで言われてなかったと思うんだけど。……あ、ごめんねー」

 そう言うと終夜は少しだけ腕の力を緩めた。当然重力に従って降下した明依だったが、終夜はすぐに腕に力を込めた。
 その腕は明依の首に沈んで、ぎゅうぎゅうと締め付ける。急に止まった息に危機感を覚えた明依は必死に終夜の腕を叩きながら、地面に足をつけようともがいた。

「滑っちゃった。重いからかな」

 ほんの少し足が付いた瞬間に、終夜は首元からまた少し腕の位置を下げて戻した。自ら立つという事にすら意識が向かない程混乱していた明依は、再び終夜に体重を預けながら何度も肺に空気を取り込んだ。

「反省したなら〝ごめんなさい〟は?」
「……本当に嫌い」

 〝外道〟も〝腐れ外道〟も大して意味変わらないじゃん。〝最低最悪のクソ野郎〟という悪口の〝外道〟に、ちょっと花を添えたくらいのモンだ。刺身の横についてくる飾りの黄色い菊みたいなモンだろ、どこにキレてんだよ。と終夜に責任転嫁する。
 それを目ざとく察したのか、今度はグサッの効果音を首で再現しようと近付いてくる刀を、必死で首元から遠ざけた。

「死ぬ死ぬ!!本当に!!」
「おー。かんばれ、がんばれ」

 終夜は力を入れたり緩めたりしながら心底楽しそうにそう言う。
 女が怖がっているのを見て楽しむなんて本当に腐れ外道だ。人間の底辺。やっぱりお前なんて、顔だけで釣った女が性格を知って離れて行く人生を送ればいいんだ。

 攻防戦を繰り広げながらしばらく引きずられていたが、階段を上がり切った後で明依はやっと地面に足をつけた。

 その途端、終夜は明依の手を引いて走り出す。
 あまりに一瞬の事に放心していたのは男たちだけではなく、明依も同じだった。しかし、誰かが叫んだ「追えー!!」という声で一斉に人が動き出し、明依も我に返った。

「ちょっと、急に……」
「たらたらしている内にジジイ死んだら大変じゃん。老い先短いんだから」

 老人に対して明依が思い浮かぶ限りの悪口を吐きながら、終夜は明依を的確に盾にして進む。刀を振るう事が出来ない男たちは、終夜に薙ぎ払うようにして避けられるだけだった。

「凄いね。吉原最強の盾」
「頭領の安否確認したら、私と一緒に来るんだからね!!」
「はいはい」

 終夜はテキトーに返事をする。本当にわかっているんだろうか。
 わかっていてもらわなければ困るのだが。

「黎明大夫!!こちらに!!」

 叫び声に振り返ると、男がこちらに向かって手を伸ばしていた。

「終夜!!ごめん!!捕まる!!!」

 捕まっているところを助けてくれようとしている人に本当に本当に失礼な話だが、直感的に思ったことがそのまま口から出た。

 切羽詰まって単語でそう言ったが、終夜は見向きもしない。
 もしかしてここで見捨てて行く気なんじゃ。もともと主郭についてくるのは反対なのだから、その可能性は十分にある。

 そんな不穏な予感は、まもなく自分に触れようとしている男の手が弾かれたことによって杞憂に終わった。

「後ろはお気になさらず。どうぞお先に」
「ありがと」

 明依と男の間に入った陰は振り返りもせずにそういう。終夜もあっさり返事をしてやはり振り返りはしない。

 どういうことなのか聞こうと口を開きかけたが、正面から向かってくる男たちをみて出かけていた言葉は引っ込んだ。
 どうせ終夜は、どんな状況でも何とかしてみせるのだろうと思っている。しかしそれは〝絶対〟じゃない事を知っていた。

 それはあの雨の日から今まで、終夜という一人の男に触れて出た結論。
 終夜は鬼神でも人智の及ばない厄災でもない。
 本当は、どこにでもいるたった一人の男で。ただ、見えない程遠くにいる、たった一人、ただの人。

 だから終夜はきっと顔に出さないだけ。いつだって、ギリギリの所で生きている。

 もし松ノ位が一緒でなければ、本当にその場で殺すつもりでかかってくるのだろう。こんな状態になることが分かっていても主郭に来ようとする。
 吉原の外に逃げれば、この状況を見て見ぬふりをしていたという事で。数日前に一緒に吉原を出ようと終夜が提案したことは、都合のいい夢だったのではないかと疑ってしまうくらい。

 終夜は警戒すらしていない様子でスピードも緩めず走る。
 先ほどと同じようにひとりの陰が現れたかと思えば、あっさりと男たちを薙ぎ払って、正面の道を開けてくれる。その陰は、奪った一本の刀を終夜に向かって投げた。
 
「道中お気をつけて、終夜さま」
「ありがと」

 放物線を描いた刀を受け取った終夜は、やはりあっさりとそう言う。

「もしかして、仲間なの?」
「仲間……。まあ、そんな感じ。こんな時の為に組んだ、俺が選抜した精鋭チームだよ。優秀でしょ」
「終夜、仲間いたんだ」
「もう一回くらい刺しとけばよかった」

 本人は捻くれた性格から嫌味と受け取った様だが、明依は思わず笑みをこぼした。吉原は終夜の敵ばかりだと思っていた。しかし、終夜が他人に恐怖ばかりを耐えているのであれば、頭領選抜で二位という票をもらえるわけがない。
 わかる人には終夜の事が分かっているんだ。
 そう思うと、なんだかふっと息を抜きたくなる気持ちになる自分を諫めた。

「追手が消えた。上手く足止めしてくれたんだね」
「よかった。今のうちに先を急い、」
「じゃあ、ちょっと話そっか」

 急に何を言い出すのかと思えば、終夜は明依の手を引いたまま部屋の一室に入った。その大座敷には得に何もなく、床の間に松の盆栽が飾られているだけのシンプルな部屋だった。
 手を引かれて入った部屋を眺めた明依だったが、我に返って終夜を見た。

「そんな事してる暇ないでしょ。とりあえず暁さまの所に行こう」
「それは後でいいよ。一人で行くから」

 あっさりとした様子でそういう終夜に、明依は昂っていた何かがすっと収縮するのを感じた。それをゆっくり息とともに吐きだして終夜を見る。
 終夜は、薄ら笑いを浮かべていた。

「わかる様に言ってくれる?」
「アンタはここまでって事」

 そう言って一歩一歩と近付いてくる終夜からは、危険な香りがする。生物の本能。生存本能が警告を鳴らす感覚に身を任せて、視線を合わせたまま終夜の歩幅に合わせて一歩一歩と後ろに下がる。
 いくら広い座敷とはいえ部屋には端がある。いつの間にか背が壁に付いた。

 今度は横に逃げようと強く一歩を踏み出したが、終夜に腕を取られてそれは叶わなかった。

 何の遠慮もなく、終夜は明依を壁に押し付けた。鈍い衝撃に一瞬顔をしかめたが、明依はすぐに目の前にいる終夜を睨んだ。

 死への恐怖から震えが止まらなかった時に優しく抱きしめてくれた男と行動を共にしていると思っていたが、彼は一体どこに行ってしまったんだろう。
 この違いはなんだ。

「アンタ、本当にさっきと同じ終夜?」
「なに、その質問」

 終夜は挑発的な顔で笑っている。明依はさらに強く終夜を睨んだ。

「一応聞いてあげるね。何でそう思うの?」
「さっきと随分違うと思って」
「さっきの俺は〝善人〟だったって事?」
「今のアンタが悪人面って事」
「振り子はね、左右どちらにも同じ幅で揺れるんだよ。つまり最低の悪人なら……」

 終夜はそう言うと、人差し指で宙を指しゆっくりと半円をなぞる様に指を動かした。

「最高の善人も演じられるって事」

 優しい顔をして笑う終夜を見て、心の中に広がるのが綺麗な感情ではないという事は確かだった。