「そうだよ。俺が日奈にあの簪を渡した」

 終夜は今までのらりくらりと交わしていた事なんてまるで嘘のようにあっさりとそういう。
 他人の全てなんてわかる訳もないと思っている。しかし、大切だった人の知らない部分を知りたいと思う気持ちは当然あって。

 終夜の知る日奈と旭に、終夜が語る日奈と旭にどうしても触れてみたいと思った。だから明依は、なるべく終夜の邪魔にならないように息すら潜めている。

「あの日ね、旭に呼び出されたんだ。そしてこう言われた『今の仕事から手を引いてくれよ。なるべくそんな仕事が無くなる様に、俺なりに考えたから』って。俺は〝汚れ仕事〟ってヤツが得意だから、適材適所だと思ってたんだけど旭はそうじゃなかったらしい。まさかあの旭がそんな事を考えているなんて思わなくてさ、本当にびっくりした」

 そう語る終夜は、綺麗な思い出に触れている顔をしていた。

「『だから終夜が過去を清算して、俺が吉原を解放したら、四人で吉原の外に行こう』って言うんだ。アホだなーって思ってさ。俺の過去なんて一生かかったって清算できやしない。何より、裏の頭領への絶対的な信頼は、吉原から出ない事が担保になっているって完全に忘れてて。……その時、気付くまで黙っとこ、とか、旭が外に出る為にはどこにどんな根回しが必要かな、とか、ぼんやりそんな事を考えてた」

 旭は死ぬ前に、明依にも日奈にもそんな未来を語って聞かせた。

 終夜が語る、生前の旭の姿。
 終夜と同じ話を聞いていた。それに感慨深い思いを抱きながらも、二人の関係が想像通りであることに思わず笑みが漏れる。成り行き任せの旭を、終夜が後ろから支えている。
 旭はきっと、終夜がいると分かっていたから思いきり自由に動けたに違いないと明依は確信していた。

「旭の提案だったんだ。それに向けて幼い頃から今までに空いた日奈との距離を少しずつ戻していこうって。だから清澄の店に日奈の簪を買いに行った。でも清澄の店は閉まってて、仕方がないから主郭に戻って来た。そうしたら、どうなってたと思う?」

 終夜は問題を出すみたいに戯けた様子でそう言う。大して楽しくも無さそうに、不快感すら感じている様だった。
 いったい何が、終夜にそんな思いをさせるのだろう。

「致命傷の傷を負った旭がいた」

 ぬるい思い出の中から、極寒の現実に引き戻された様な錯覚だった。

「ざっと見ただけでも急所を三か所。すぐにもう手遅れだって思った。人間、本当に予想外の事が起こったら頭も身体も動かないんだね。そんな俺を見て旭は、『遅ェよ、バカ。最期の言葉があるんだからこっち来て話きいてくれよ。じゃなきゃ化けて出るぞ』って笑ってた。……俺があの時店に行かなかったら、旭は死ななかったかもしれない」

 番傘の中棒を肩に預けたまま、終夜はどこか気だるげに少し上を見上げた。

「俺が旭の最後を看取った。その後は妙に冷静でさ。旭と親交が深かった宵の所に知らせが入ったらきっと明依が来るだろうから立入許可証を発行しておかないとって考えて。前々から考えていた警察官の宵を捉える為の計画をこのタイミングで実行したらいい、その為に頭領の許可を。それからそうなったら自分を追いかけてくるから明依を完全に折る為の手筈を、って。本当に呆れて、嫌気がさした。こんな時でも冷静に頭を使ってる自分に。でも、それからどうやって行動したのかはよく覚えてない。……せめて旭の遺体がある内にと思って、もう一回清澄の店に行ったけどやっぱり店は開いてなかった。少し雨が降っていたから、留守印の傘を借りて帰っていたら、雨の中で倒れている明依がいたって訳」

 旭に会う為に必死になって主郭まで走った日の夜。終夜はやはり、日奈の簪を買う為に清澄の店に行っていたのか。そう思うと、いたたまれない気持ちになる。
 せめて死んだ友の願いをと、開いてないと知っていてもう一度店に足を運ぶ。万が一開いていたのだとしても、もう旭にその思いは届かない。逃げ場のないその思いは、耐えがたい苦しみに違いない。
 だから終夜はあの日、あの無機質な表情をしていたのか。

「しばらくしてから清澄の店に簪を買いに行った。だから清澄は、明依の松ノ位昇格祝いの簪を俺に預けたんだろうね。日奈に渡す三本のうちの一つを俺が買ったんだから、明依の分も俺が渡すんだろうって考えて」

 清澄は二人の関係を考えて一揃いのそれを終夜に託したのだとばかり思っていたが、そんな深い理由があるなんて考えもしなかった。
 結局終夜は、残りの一つを自分からの贈り物だとは認めていない様子だが、そんなことは今はどうでもいい。

「日奈は、何て言ってた?」

 『日奈は最後に、何て言ってた?』以前部屋で終夜にそう問いかけた時、『何も。俺が行った時には、もう死んでた』と言っていた。
 だけど、もう駆け引きは必要ないだろうと明依は察していた。
 きっと終夜も過去のあの出来事を思い出したのだと思う。少しだけ笑みを浮かべると懐かしむような表情を浮かべて、ゆっくり瞬きをした。

「『ありがとう』『嬉しい』って、笑ってた」

 日奈の笑顔が目に浮かぶ。幸せだったに違いない。
 最後に大好きだった終夜に会えた。昔と変わらない終夜の優しさに触れる事ができたんだから。

「……よかった」

 思わず目に涙が溜まり、零れない様に堪えたが無意味で。頬を伝う前に俯いて袖口を目元に持って行くが、間に合わなかった数滴が地面を濡らした。

「え、なんで泣くの……?」

 終夜は意味が分からないと言った様子を隠さずに明依を見ていた。
 別にわかってくれなくていい。この感情を誰かと共有したいだなんて思わない。

 痛くて苦しかったはずなのに、日奈は笑っていた。
 顔には血を擦って拭き取った様な痕があり、広く裂けていた着物ははだけない様に重ねてあった。あの全てが、終夜の日奈に対する思いやりだと、日奈は気付いて死んでいった。

 日奈があんな穏やかな笑顔をする理由なんて他にないと思っていたが、それが確信に変わった事が堪らなく嬉しくて。

 だからきっと、終夜は朔を殺した。
 ルールを破ったからなんて真っ当な理由ではなく、日奈の未来を奪ったという至極個人的な感情で。
 やはり終夜も普通の人間なんだなという時々感じる、安心感。

 しかし終夜はどんな気持ちで日奈に簪を渡したのだろう。終夜は他人に言われてどうこうするような性格ではないし、旭の説明を聞いて納得をしたから日奈にあの簪を渡したに違いない。
 聞けば応えてくれるだろうか。そう思ってやめたのは、弱虫だからだ。
 終夜と日奈が両想いだった可能性もあるんだよなと、変に勘ぐったから。

 現実という地獄を遮断する様に膜を張った内側の世界は、当然の様に澄んでいた。自分の知らない旭と日奈に触れて、終夜の思い出に触れて。
 このままで終わりたい。それなのに、まるで邪魔をするみたいにできた一点のシミは明らかに自分の内側から。

 きっと終夜は死ぬまで日奈を思い出す。

 ぽつりと浮かんだシミが現実と同じ地獄の色に染まって馴染もうとする。

 明依は強引に、しかし旭もよく一方的にライバルと思っている終夜の株を上げる様な事をしたなと考えた。ゆっくり、でも確実に、意識をそれに向ける様に努めた。
 そしてその疑問の結論はすぐに出る。旭はそういう人だった。きっと日奈を喜ばせたいという一心だったに違いない。日奈の中で終夜の好感度が上がるなんて邪な推測は、頭をよぎりもしなかった可能性の方が高い。

 止まった涙と、予想外の感情が自分のものにならなかったことに安堵していると視線を感じた。

 俯いていた顔を上げると、終夜はなぜか気まずそうな表情をしている。
 それはまるで、自分でしておいてすっかり忘れていた悪戯を見つけた親と目が合った子どものような。

 最近、終夜に対してこんな顔をするのかと思う事が多いなと他人事のよう思って、それからやっぱり〝吉原の厄災〟なんて呼ばれていても女の涙には弱いんだな。と新たな発見をした気分になる。

「あーあ。悲しいなー。悲しい悲しい」

 明依がそう言うと、終夜は何が悲しいのかは一応気になるのか、少しだけ表情を変えた。

「簪と櫛、三つの内の一つは結局、誰からの贈り物かわからず終いでー」

 その明依の言葉を聞いた終夜は一瞬でその表情を引っ込めて、溜息を吐き捨てた。

「盛大な嫌味をどうも。そもそも俺は、明依の松ノ位昇格なんて望んでないし」
「はいはい、そうですか。……でもありがと、終夜。二人の事教えてくれて」
「どういたしまして」

 明依の感謝の言葉に、終夜はテキトーな口調でそう返事をする。これでひとまずいつも通りだ。

 日奈と旭の事を違う角度から知っている。
 それぞれ知っている事が違うというのは、とても素敵な事だと明依は思った。

「少しは時間を短縮できたんじゃない?」
「無駄話に付き合わされちゃったからどうだろうね。まあ、やり合う回数は圧倒的に少なかったけど」

 それはつまり、終夜の言葉で〝めちゃくちゃ時間短縮できました。ありがとうございます〟なのだろうという事にしておいた。
 何をしゃべることもなく、二人で主郭に向かって歩く。

 どうして終夜は急に日奈と旭の事を喋る気になったのか。
 その答えは簡単。これから〝主郭に行くから〟だ。しかし、それを悲しんでいる暇があるはずもない。ここから先は、自分の命の保証さえないのだから。

 主郭の人間は松ノ位に害を与えると後々面倒になることを知っているから、先ほどのようなイレギュラーを除いてはおそらく大丈夫だろう。
 しかし、問題なのは晴朗だ。もしも誰かが終夜と自分の間に割って入るようなことがあれば、何の躊躇いもなく文字通りに切り捨てるに違いない。

 晴朗に会わずに頭領に会う事は可能だろうか。
 主郭は広い。もしかするとそれも可能かもしれない。とにかく、今まで以上に気を引き締めなければ。

 主郭の中に入って終夜と頭領を会わせる。
 頭領が無事であることを確認してから宵と合流する。

 言葉にするとなんて単純なんだと、思わず現実との差異という重圧に笑いが漏れそうになる始末だった。

 しかし、泣いても笑ってもこれで最後だ。
 今夜をもって吉原は大きく変り、たくさんの人の運命も大きく変わる。

 明依は短く息を吐いて気合を入れた。

 長い長い階段を上って、誰もいない門を通り過ぎる。
 振り返ってみた吉原の街に人気はない。しかし、いつも通り煌々と街は光っている。

「勝手口とかないの?正面から堂々と入るって……」
「ない事もないけど、正面からが一番入りやすいんだよ。広いし。それに、せっかくだから。吉原最強の盾の本領を発揮してもらわないと」

 主郭への扉が、重そうな音を立てて開いた。
 終夜は明依の手を引くと、自分の前に移動させてがっちりと明依の肩に手を置いた。

「……え、なに?」
「いいからいいから」

 すぐ後ろにいる終夜を振り返る。あっさりそう言われた後、正面を見た。
 開いた扉の向こうには、陰から着物を着た男まで。とにかくたくさんの人が待っていた。

 終夜はいつの間にか取り出した短刀の切先を、遠慮なく明依の首に押し当てた。

「ほら、道あけろよ。松ノ位、殺されたくないでしょ」

 これを本人の許可なくやるところ辺りが絶好調でこの男らしいなと思いながら、しかし百パーセントこの男を信頼しているかと言われればそうでもないので、今度は首に傷でもつけられたらどうしようという思いもありながら、明依は自分に回っている終夜の腕を両手で掴んだ。