「ダメって……どうして?」
「どうしても」

 どうやら終夜に説明する気はないらしい。この感じは何を言ってもダメだな。と思った明依は、これ以上は労力の無駄だという事を理解して、終夜に手を引かれるまま走る事にした。

「私の話、分かってくれた?」
「うん、わかった」
「嘘。……え、本当に?ちゃんと聞いてたの?」
「うん。聞いてたよ。主郭に行く」
「全然聞いてないじゃん!!」

 明依は思わず声を張り上げたが、相手の感情を考慮するという能力は持って生まれてこなかった終夜には通じていないらしい。

「え、なんで?なんでこの話聞いて主郭に行くってなるの?」
「大将首取られたらゲームオーバーだから」
「だから!それは、宵兄さんなんだって。宵兄さんは警察官。何もしなくても、終夜が吉原からいなくなれば、次代の頭領になれる。だから頭領を殺すなんてリスクのあることは絶対にしないよ。終夜も宵兄さんの性格は、ある程度知ってるでしょ?」

 終夜は少し黙った。何か考えている様子だが、何を考えているのかは相変わらずわからない。
 伝わっただろうかとドキドキしながら、終夜の返事を待っていた。

「それに紛れて他の人間が頭領を狙う可能性がないって言い切れる?」

 そんな可能性あるの?と思った明依だったが、終夜が言うならあるのかもしれないと思っている時点で気持ちで負けているのだろうなと何となく察して、悔しいというよりも焦りが、焦りというよりも悲しみが心の中に満ちていく。

「必然でも、偶然でも、万が一でも、奇跡でも。起こった後は全部まとめて〝現実〟って言葉で片付くんだよ」
「……もう、やだ。泣きそう。何にも伝わってない……。死ぬ思いで施設から出てきたのに……」
「俺も泣きそう。その諦めの悪さに。泣いていい?泣いて諦めてくれるなら喜んで泣くけど」

 なんで急に張り合ってくるんだ。嘘つけよ。泣けるモンなら泣いてみろよ。絶対泣かないだろ。と思いながら、このままでは終夜のペースになりそうな予感しかしない明依は、大胆に話を変える事にした。

「なんかさ、いっつも終夜とこうやって何かから逃げてるね」
「話変えた。……誰かさんが走るの遅いから。介護してあげてるんだよ」
「いや、誰かさんが嫌われ過ぎてるのがそもそもの問題だと思うんだけど」

 お互いに一発ずつジャブを打ち合う。未消化のまま数秒後に始まる次回戦に持ち越しかと思われたが、突然ナイフの様な何かが横切って少し離れた地面に刺さった。

「ひっ」
「ビビってるし」

 思わず息を呑む明依に、終夜は走りながら地面に刺さったナイフのようなものを拾い上げる。

「自分で選んだ地獄だろ。ここはまだ地獄一丁目一番地だよ」

 そう言うと終夜は、身軽な動き振り返ってナイフを投げ返した。
 屋根の上にいた陰の一人がバランスを崩し、もう一人に体重を預けて動きを止めた。

 そういえば晴朗も以前、似たようなことを言っていた。

 『夏祭りが終わればこの街は、本当の地獄になる。一般人には見知った顔の断末魔も転がる死体も傷になるでしょう。だから、あなたたちはただ耳を塞いで、目を閉じていればいい。そうしたらきっと、いつの間にか収まるところに収まっていますよ』

 人間同士で争う様をただ眺める。止める術も、志もなく、ただ眺める。
 見知った人間ならなおさら。それは本当に、地獄のような苦しみだろう。

 終夜の言う通り。目を逸らすことはできた。今だって、その気になれば耳を塞いで目を閉じる事が出来る。怖い思いをしないで済む方法なら今までにもたくさんあって、今もたくさんある。

「これ以上行くと、巻き込まれて本当に死ぬかもよ。さっきみたいな三文芝居でいいから、今度は陰に泣きついたらいい」
「俳優顔負けの演技だったでしょ」

 反射的に返事をしたが、明依の気は終夜には向いていなかった。

 つい先ほど死にかけたばかりだ。終夜が助けてくれなければ、確実に死んでいた。
 死ぬ事は怖かった。でも全部、自分で選んでここまで来た結果だった。

「手、振りほどいて。それから〝助けて〟って叫ぶだけ。簡単でしょ」

 終夜のその言葉に返事をする余裕は明依にはなかった。
 残念ながら終夜の様に、器用に脳みそを使いこなすハイスペックは持っていないから。

 『人間は自分に自信をもって、自分で責任をとる覚悟が出来て初めて、自分の人生を生きられるようになる』

 そんなことを考える頭のどこかでは、並行して勝山の言葉を思い出している。
 だからあの時、結末を受け入れようとした。自分で選んだ人生だったからだ。
 死への恐怖と自分の人生を、初めて天秤にかけてみる。

 本当に女はたちが悪い。
 〝どっちがいい?〟なんて聞くときにはだいたい、何となくどちらがいいのか決まっているものだから。

 何も返事をしない明依に何を思ったのか、終夜は握っている手の力を緩めた。

「放すよ」
「ダメ。放さないで」

 そう言うと明依は、力を抜きかけている終夜の手を握った。

「死んでもいい。だから、一緒に連れて行って」

 あの時終夜と一緒に吉原を出る事を選んだら、どんな未来が待っていたんだろう。
 どんな未来でもいいや。それは自分が選ばなかった未来だ。だからその先なんて知らなくていい。

「……さっき怖い思いしたの、もう忘れた?」
「覚えてるから一緒に行くの。私が優先したいのは終夜を主郭から遠ざける事だけど、それが出来ないならせめて一緒に行く。きっと、最悪の後悔はしないと思うから」

 だけど、終夜と一緒の道を選ばなかった事で生じているこの状況には責任を持ちたい。終夜は絶対に引かない。だけど、終夜を宵の元に連れて行きたい。

 道の真ん中を駆け抜けながら、あの団子屋の前を通った。

 終夜と雪と一緒に、団子を食べたかった。
 いつかゆっくり終夜と話がしたかった。
 でももう、叶わない事を知っている。

 叶わなくていい。終夜が生きていてくれるなら。どこか遠くの場所で、何もかも忘れて生きていてくれたら。その可能性になら、命を賭けてもいい。いや、賭けなければきっと、後悔する。

「松ノ位は滅多な事では殺されないんでしょ。私がいれば、主郭に行くまでの時間を短縮できるよ。だから、頭領の安否を確認したら、私と一緒に来て」

 松ノ位は滅多なことでは殺されない。先ほど例外を味わったばかりだが。真面目に働いている人間に程、それは適用されるはずだ。
 持ちうる全てをつぎ込んで提案をしている。何も答えない終夜に不安になる気持ちを押し殺した。
 そして胸を張り、気丈な言葉を選ぶ。

「黎明大夫が吉原最強の盾になってあげる。よかったね、終夜。私を松ノ位にしておいて」

 そう言うと、今まで黙っていた終夜が乾いた笑いを漏らした。

「……可愛くないんだよ」

 ぼそりと呟いた終夜に手を引かれたまま、裏道からさらに細い道へ。

 そして終夜は、明依が握っている手を握り返した。
 否定の言葉を言わないという事は、本当は主郭に行くまでに苦戦していて一秒でも早くたどり着きたいと思っているという証拠でもあった。

 もっと素直になって周りに甘えていたら、楽になった部分がたくさんあっただろうに。だがきっと、これが終夜の性分なのだろう。

 終夜は曲がり角を曲がると、明依の手を引いて長屋の一室に入った。なるべく音が漏れないように呼吸を整えていると、引き戸越しに何人かが通り過ぎていく。

「ねえ、もし敵がいて頭領を狙っていた場合、その……なんていうか……」

 しばらく息を潜めた後、明依はそう言って言葉を濁した。そのニュアンスで察してほしいものだが、終夜は何も答えずに明依の言葉の続きを待っていた。

「もうダメなんじゃないの?」
「めちゃくちゃ不謹慎」

 そう言って終夜は笑った。その様子は、終夜が偶に見せる年相応の様子で。やはり心臓の音が鳴る。

「大丈夫」

 そう言って黙る終夜の横顔を見ながら、言葉の続きを待っていた。
 しかし一向に、終夜は口を開かない。

 え、終わり。何が大丈夫なのか、根拠のある説明はないの。と思った明依だったが、終夜は一人ですっきり解決しているらしい。

「出るよ」

 結局何が大丈夫なのか、全くわからないまま引き戸を開く終夜の後ろに付いて外に出た。
 裏通りから細道へ。細道から裏通り。それから大通りへ移動する。まもなく主郭につくという頃、一秒ごとにオレンジ色が深くなるのを感じていた。

 終夜は主郭を見据えたままゆっくりと歩き、やがて歩みを止めた。

「夜が来た」

 終夜のその言葉に視線を上げる。主郭側からこちらに向かって、一つずつ明かりがつき始めていた。
 店の看板、提灯。暖色の色が、吉原の街に広がっていく。終夜を背に付き始めた明かり達は、やがて終夜と明依の隣を通り越して主郭とは逆方向に進んでいく。

「光栄な事だね。吉原の街は今、俺を探す為だけに光ってる」

 吉原の店の看板は、一つ一つに手作業で火を入れる事でしか灯らないと信じて疑わなかった。5年もここに住んでいるのだ。実際にその現場を何度も見た。
 まさかボタン一つ、全自動で街中の明かりを付けることが出来ただなんて。

 建物も習慣も、生花の吉原とは違う。ただ何となく、雰囲気だけ。唯一同じなのは、遊女の苦しみだけだ。

 夜の空気は、人を虚しくさせる。
 心細い夜を照らす場所を造った人の気持ちが今なら何となくわかる気がした。
 もし終夜のあの問い掛けがこんな夜の始まりだったら、違う未来にいたのかもしれないなんて。つい先ほど知らなくていいと思った事を、また本気で考えて始めていた。

 ぼんやりとしていた意識を、終夜に向ける。
 切羽詰まった様子なんて微塵も見せずに、薄ら笑いを浮かべて街を眺めていた。吉原すべてを敵に回している終夜に余裕なんてあるはずがないと思ってたのに、もしかするとやはりこの街で最後に笑うのは終夜なのかもしれないとすら思わせる、圧倒的な余裕を持っている様子に見える。

 一体どれだけの苦難を乗り越えればこれ程肝が据わるのか、明依には想像もつかなかった。

 終夜の後ろから、刀を振り上げた陰が覗く。
 認識しているのに、声が行動が間に合わない。自分の反応の遅さに嫌悪する気持ちはあるのに。

 しかし終夜は、後ろに目でもついているのかと思うくらい的確に相手の顔面に拳を入れると、逆の手で刀を奪い取り、あっさりとした様子で蹴り飛ばした。
 振りかぶる別の陰へ刀を投げると、二本の刀は戦闘中には絶望的なほど遠くに弾かれ飛んでいった。
 
 他の刀を持った男とのリーチを考えたのか。終夜は道の端に立てかけてあった番傘を手に取る。
 それから五秒と経たず、道の真ん中に立っているのは終夜と立ち尽くしている明依だけだった。

「あーあ」

 終夜は道端に倒れている五人の陰なんて見向きもせず、唖然としている明依を気にも留めず、平たんな口調でそう言って番傘を広げた。

 思わず、息を呑んだ。

 明らかな、既視感だ。
 この光景を知っている。

「やっちゃった」

 終夜は広げた番傘を暖色に透かしながら、穴が空いたり形が崩れた部分を見ている。

 番傘が立てかけてあった建物を見る。そこはやはり、清澄が経営している小さな店だった。

 『そういえば。もう、前の事になるんだけどね。初めてこの番傘が持って行かれていたんだよ』
 丹楓屋へ応援に行った帰り、日奈の簪を買いに清澄の店に行ったとき、彼はそう言っていた。
 番傘が立てかけてあるときは、〝せっかく来てもらったけど留守です。雨が降ったらこの番傘使っていいよ。〟という宣伝するつもりは毛頭ない、関係者にしかわかりようがない印。

 偶然で片付く話だ。
 それなのに、違和感が消えない。
 雨の日、清澄の店の番傘、松ノ位昇進祝いの簪。

「……私本当に、終夜に翻弄されてばっかりだね」

 確証がないから、言葉を選んだ。
 終夜の反応を注意深く観察する。

「言葉を選ぶのが上手になったね。……で、今、試してる?俺の事」

 終夜は番傘から目をそらさないまま、薄笑いを浮かべた。

「やっぱりあの簪を日奈に渡したのは、終夜だったんでしょ」
「そういえばそんな話前にしたね。花魁道中の時だ。俺が日奈に簪を渡していて旭を殺していなかったら、アンタの中での俺の悪行は全部清算になるの?って」

 そうだ。あの時も結局、終夜には真相を聞けず仕舞い。のらりくらりと交わされた。いつもいつもうまく翻弄され過ぎて、どのような交わされ方をしたのかすら思い出せないが。

「でもそれは信じているとは言わない。騙されている、って言うんだよって、教えてあげたのに。物覚えが悪いよ。今度はちゃんと覚えて。人間は嘘をつく。もう少し汚れたら?」
「あの時の終夜は、嘘なんてついてない」
「根拠は?」
「清澄さんが、終夜に私の簪を預けたから」
「薄いね。じゃあ、おしまいだ」

 『こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよ』
 始めてあった終夜は見慣れた冷たい顔をしていて、雨の中にいた。

「初めて会った時、終夜はその傘を持ってた」

 終夜は傘の中棒を肩に預けて呆れたように笑って、やっと明依の方を見た。

「本当に。余計な事はよく覚えてる」

 ずっと知りたくて、でも届かないと思っていた終夜という人物を暴いている。
 今更だ。もう、どうにもならないところまで来ているのに。

 自制が利かないくらいに終夜を知りたいという、渇望。