「何の能もないくせに、気だけは強いね」

 終夜はそう言うと手を差し伸べた。放心状態のままその手を取り上半身を起こすと、終夜はあっさりとその手を放す。
 しかし明依は、俯いたまま。立ち上がる気力すらない事に自分自身で驚いていた。

「腰でも抜けた?」

 終夜は呆れたような口調でそう言う。
 明依は混乱しながらもゆっくりと息を吐いた。身体が小刻みに、それから大きく震え始める。それを見た終夜は目を見開いた。

「見ないで」

 なるべく優しく聞こえる様にという最低限の配慮をしたつもりだったが、終夜がそれに対してどんな感情を抱いたのかはわからない。
 明依は身体の震えを抑えつけようと、自分を抱きしめる様に手を肩に添えた。

「すぐ落ち着くから」

 申し訳程度にそう付け足すと、終夜はいつの間にか笑顔をひっこめた無表情で寄越していた視線を逸らした。またあの顔をしている。と考える余裕はあるのに、身体が言う事を聞いてくれない。

 死ぬ覚悟をしていた。精一杯やった結末に納得さえしていたのかもしれない。あの時本当に殺されていたとしても、きっと自分の死を認識して化けて出るなんて事にはならなかっただろう。

 ただ、本当に死んでいたと思ったら怖くなった。そこに助けてもらった安心感に、喜びに。心の中はぐちゃぐちゃと騒がしい。
 なんて情けない話なんだと思いながらも、やっぱり体の震えは止まらなかった。

「どうしたらいい?」

 終夜はやはり何を考えているのかわからない様子で、顔を逸らしたままそう言う。
 終夜にもわからないことあるんだな、何でも手に取る様にわかりそうなものなのにと、他人事の様に思っていた。

「どこにもいかないで」

 こんなみっともない姿は見ないでほしい。
 ただ、またどこかに行かれたら見つけられないから、少し離れた所で待っていてほしいというのがわがままな明依の本心だった。

 終夜は視線を逸らしたまま、その場を動かない。

 その間に明依は、落ち着け、落ち着け。と身体に言い聞かせていた。
 終夜が守ってくれたから何もなかったじゃないか。
 早く落ち着かないと。

 ふいに終夜が、肩に回している明依の手を握って解いた。
 何事かと目を見開いている明依をよそに、終夜は座り込むと優しく、本当に優しく包み込むように抱きしめた。

 終夜の手のひらが後頭部に回って、彼の肩に誘導されて動きを止める。それから終夜は、逆の手で明依の背中を撫でた。
 まるで、泣き止まない子どもを相手にしているみたいに。

「もう何も怖い事なんてないよ。……どっかにやったから」

 どこか固い口調で、でも戯けた様にそういう終夜に、押しつけがましい何かは全く感じなかった。
 人はきっと、この感覚を〝満たされる〟というのだろう。大門前での終夜のあの冷たい態度さえ忘れようと、心の底から思うくらい。終夜にDVの気質があったらきっと底なし沼にはまっているのだろうな、なんて考えていた。

「うん」

 絞り出すようにそう言って頷いた後、明依は終夜を抱きしめ返した。
 この途方もない安心感に埋もれていられたらいいのに。

 そういう訳にもいかないのが現実というやつで。本当にろくでもない女だなと、自分の事を心の中であざ笑う。その頃にはもう、震えは止まっていた。

「もう大丈夫」

 そう言って明依が終夜の背中に回している腕の力を緩めると、終夜もゆっくりと添えていただけの腕を少し明依から離した。

「ありがとう、終夜」

 二人の距離が離れた後、終夜はやっぱり何を考えているのかわからない表情をしていた。しかし瞬きを一つすると、すぐにいつも通りの笑みを浮かべる。

「いいよ。今のは後払いにしとくね。とりあえずこれくらい」

 そういうと終夜は、明依に向かって五本指を見せつけるように立てた。
 またしばらく放心する。この男は一体、何を言っているんだろうか。頭の中に浮かんだ答えは、最低な結論だった。

「考えている金額にゼロをいくつか足した方がいいよ」

 ああ、やっぱりそうか。そうだよね。やっぱり金の話してるんだよね。と思った明依は、目を閉じて先ほどの終夜への途方もない感謝の念を思い出そうとしたが、既に手遅れかもしれないと気付いて目を開けた。

「アンタの身体のどこにそんな価値があるの……?」
「助けてやったじゃん」
「それは、ありがとう。本当に。死ぬかと思った」
「どーいたしまして。この金額には、この前のアフター分も含まれてるから」

 散々脳内で美化してなぞったあの夜を、目の前の男が〝アフター〟とかふざけた名前で呼んでいた事実に言葉にならない衝撃を受けながらも、態度に出しては負けだという気持ちだけは強く持ち合わせていた。

 本当にどうしてこんな男がいいんだろう。AIがもっと発展した世界に生まれてきたかった。そうしたらAIと人間を同期して、自分の想っている気持ちの詳細を説明してくれるなんて技術が生まれていたかもしれないのに。

 まじでクソ男だな、終夜。
 どうか、どうか。顔だけで釣った女が性格を知って離れて行く人生でありますように。

 今のやり取りで緊張感の全てがそぎ落とされた明依は深くため息を吐き捨てた。つまり、心底安心しているという事だ。

「吉原帰ってきた時は珍しく空気読んで耐えてると思ったら、大門前でワーワー騒ぎ出す、施設は抜け出す。で、襲われかけて気丈に逃げたかと思ったら怖がってさ。……情緒、ジェットコースターなの?」

 確かにそれだけ聞くと間違いなく情緒ジェットコースタ―のヤバいタイプの女だが、その間にいろいろな感情がちゃんとあることをしっかりと考慮してほしい。

 こちらからすれば、宵と話をして終夜を助ける事で話がまとまり、今ちょうどその重要な部分にいる。しかし終夜からすれば、明依が何をしているのかわからない訳で。

 つまり終夜は満月屋の前で別れたあの日の続きにいる。
 大門前で身代わりになったのはおそらく本当に予定が狂って腹が立ったのだろうが、冷たくされた理由の大部分が解き明かされて安堵していた。

 あんなに終夜という男が嫌いだったというのに、一体いつからこんな風に考える様になったのだろう。やっぱり、AIがもっともっと進化した時代に生まれたかった。

「おとなしくはしておかないと思ったけど、どうやって出たの?」
「誰かさんが空けた施設の穴から」

 そう言うと終夜はきょとんとした顔をした。

「……雪?」
「そう」

 そう言うと終夜は、くすりと笑う。

「やっぱり相当人たらしだね、明依」

 終夜は少し弾んだ口調でそういう。やはりこの男の考えている事は、全くもってわからない。

 『明依お姉ちゃん、お願い。終夜の事、助けてあげて』
 『終夜をお願い。明依』
 雪と男の子の言葉を思い出す。人たらしなのは自分の方かもしれないという考えは、終夜にあるだろうか。

「アンタには言われたくない」

 そう言うと今度は大人びた顔で笑う終夜に、本当に表情がよく変わるなと思った。
 しかしどんな結末を辿ろうがまもなく終夜の表情を、それどころか彼自身を見る事はなくなるだろう。

 終夜が吉原を去るハッピーエンドか、それとも終夜が死ぬバットエンドか。どちらにしても、もう終夜を見る事はない。
 全く別のトゥルーエンドでも待っていれば話は別だが、そんな未来は残念ながら微塵も想像がつかなかった。

「よく出来てたでしょ、あの穴」

 すっかり考え込んでいた明依だが、終夜のその言葉で我に返り、施設から外に続く穴を思い返した。

「子どもの頃から今まで、絶好調で終夜なんだなって思った」
「イヤだなー。そんなに褒めても何も出ないよ」

 戯けた口調に、いつも通りの苛立ちを感じる。二人の関係はいつの間にか、いつも通りになっていた。

「この街の広さ知ってる?闇雲に探し回って近くにいるって……。その運の強さどうなってるの?日ごろの行い、悪いくせにさァ」
「日ごろの行いがいいから強運なの」

 そう言いながら立ち上がる終夜に、明依も同じように返事をしながら立ち上がる。そして、着物についた砂埃を払った。

「……気付いてるよ、施設の子達」

 何が、とは言わない。明依のその言葉に終夜は何も返事をしなかった。

「子どもに悲しい思いをさせるのは、本望じゃないでしょ」
「人間は慣れるようにできてるんだよ。旭と日奈が世界の全てだったアンタが、一番よく分かってるはずだ」

 確かにそうだ。人間は慣れる。世界の三分の二を失った。しかしあの鮮烈なまでの悲しみを思い出して胸の奥が痛んでも、それが糧になる事も知っていた。

 しかし、その結末が望ましかったという事ではなくて。でも、今の自分は嫌いじゃなくて。
 どんな言葉で伝えようか。感情というのは、言葉というのは、本当に難しい。

 終夜は何かを考えている様子で、ぼんやりとどこかを見ている。

「でも、生きていてほしいんだよね。わかるよ。その気持ちは」

 そう。詰まる所、そういう事だ。端的に言えばたったそれだけ。〝生きていてほしかった〟。
 しかしその言葉はひねくれ者の終夜が言うには素直過ぎる様に思えて、やっぱり終夜が何を考えているのかはわからなかった。

 今、終夜の綺麗な思い出の中で〝誰か〟が息をしているんだろうか。
 それにしては終夜は、日奈や雪の様な顔をしない。どこか切なそうで、思いつめているようにも見えた。

 終夜は溜息に似た息を吐くと、瞬きをして明依に視線を移した。
 薄く笑う終夜の顔に、明らかに心臓が鳴った。

「怪我してない?」
「うん、してないけど」
「傷は?」
「痛くない」
「そっか」

 そっけなく言う中にも、温かさがあって。一瞬だけ見えた終夜の笑顔は柔らかくて、たったそれだけで心臓はさらにうるさくなるのだから、本当にどうかしている。

「何もなくてよかったね。吉原にはああいうのも結構いる。世間知らずは知らなかっただろうけど」
「本当に、余計な一言」
「何かあってからじゃ遅いってわかった?」
「わかってるよ」
「なら、気を付けて帰りなね」
「え……あ、うん」

 そう言うと終夜は踵を返した。
 離れる事が寂しいという思いと並行して感じる、本当になんでこんなに終夜は掴みどころがないのか。という疑問。

 そして終夜の背中を見送ろうとしている事に、違和感を感じた。

「いやいや!!何当たり前みたいな顔で去ろうとしてるの?」

 明依は数歩走って終夜の肩をがっちりと掴んだ。

「そんなのに騙されないから!!」
「チッ」

 終夜は心底恨めしそうに舌打ちをする。危なかった。見送っていたら一生後悔するところだった。本当にコイツ油断も隙もないなと思った明依は、終夜の肩に手を添えたまま彼の正面に立った。

「主郭にはいかないで、終夜」
「はいはい」

 目が合わないように明後日の方向を向く終夜は、テキトーな口調でそう答える。
 コイツ聞いてんのかと思った明依は、むっとした後少し声を張った。

「主郭で騒ぎを起こしているのは!宵兄さんなの!」
「ふーん。だから?」
「だからって……だから、終夜は主郭に行かなくていいの!!」
「あー。ハイハイ、わかったわかった。じゃ、また後でね」

 そう言うと終夜は、明依の手を振り払って先へ行こうとする。
 また後で……?その言葉に明依は思わず終夜の胸ぐらを掴んで大きく揺らした。

「またテキトーな事言う!!どの口が後でとか言うの!?死んだら後とかないの!!」

 明依の必死の説明を聞いた終夜の返事は

「うん」

 だった。
 こんなに心に響かないものなの?と絶望していると、終夜が小さく息を呑んで視線を上げた。

「いたぞ!!」

 高い所から聞こえた声に、明依はびくりと肩を浮かせた。
 屋根の上には数人の男がいた。

「ほら見つかった。明依がでかい声出すから」
「それは……!ごめん」
「じゃあまた、」
「とりあえずこっちに逃げよう!!」

 去ろうとする終夜の手を握って、先ほど彼が出てきたであろう細道に逃げ込もうとした。
 しかし終夜は小さく舌打ちをした後、そちらに行こうとする事自体を阻止するように明依の手を掴むと、強く強く引っ張った。
 バランスを崩したが、終夜に肩を支えられてなんとかバランスを保つ。その後すぐに走り出した終夜に釣られて、手を引かれたまま走った。

「何してるの!?」

 明依は細道を振り返った後、前を走る終夜を見た。
 男たちがいる場所から考えても、大通りを走るよりも細道に逃げ込んだ方がいい事なんて、何の能もない明依にもわかる。

「そっちはダメ」

 走っているとは思えない程安定した声でたった一言、終夜はそう言った。