「もしかして終夜サマ探してんの?無理だよ。あの人見つけんのは。俺もう半ば諦めてるもん」

 いやお前に何が分かるんだよと思いながらも、確かに難しいかもしれないと思ってしまう自分にイラつきながら、明依は何も感じていないフリをした。

「放っといて」
「そういう訳にはいかないじゃん?」

 めんどくさいなと思ったことが態度には出ていると思うが、男にそれを気にする様子はない。

「いいなーって思った。アンタの事」
「そう、ありがとう。ではまたご縁があれば」

 あっさり隣を通り過ぎようとする明依を、男は身体をずらして遮る。

「待って待って」
「後にしてください。今忙しいから」
「お願いって頼むなら、俺が一緒に行動してやってもいいよ」
「……何のために?」
「見つかったら施設戻りだから守ってあげる。悪くなくない?」

 確かにそれは悪くない。まあ、その提案がおおらかな親切心のみで成り立っているならの話だが。

「代わりに俺と遊ぼうよ」

 ほらきた、やっぱりな。と明依は思った。男ってどうしてこうなの。いや、この男が特別ダメなのか。とにかく危険人物だと思った明依はため息を吐き捨ててわざとらしく男から視線を外した。

「ではどうぞ、そのうち満月屋へおいでなんし」

 テキトーな口調でそういう明依だが、男は全く動じていない所か薄ら笑いすら浮かべている。

「じゃあ、施設に戻る?」

 まあ普通はそうなるよね、と思った後に意地悪な男の口調で思い出したのは終夜だった。部分的な性格の悪さで言えば、あの男と五分五分だ。
 危機感を覚えていると同時に面倒くさくなった明依は、深く深く溜息を吐き捨てた。

「私にとっては一大事なの」
「わかるよ。終夜サマの所に行きたいんだろ?俺が一緒に探してやるよ」
「もう半ば諦めてるんじゃなかったの?」
「そういう事なら話変わってくるじゃん」

 どんだけテキトーに会話してんだこの男と思ったが、相手は陰。どうあがいても真っ向勝負で振り切れるはずもない。

「どうしたら諦めてくれる?」
「今、抱かせてくれたら」
「嫌なんだけど」
「じゃあもういーよ、嫌がってても」

 いや、素直かよ。どんだけ抱きたいんだよ。とお気楽に考えていた明依だったが、瞬きをする一瞬の間に、首に冷たい何かが触れた。

「こういうの、一回やってみたかったんだよなー。〝脱いで〟って」

 短い刀が首元に触れている。動きが全く見えなかった。
 怖い。しかしやはり、終夜に相当メンタルを鍛えられた事は間違いないらしい。
 相手の目的が自分を殺すことではない。かつ、それを逃れられる確実な方法を提示している時点で、怖がる必要は何もないという事。
 だから怖くないのかと言われればそうではないが、終夜を助ける目的が果たせない事が今の明依にとっての一番の恐怖だった。

 ここで動じればペースの全てを相手に持って行かれる事は、とっくに終夜で学習済みだ。呼吸のペースを意図的に落とす。終夜を相手にしていると思えば、この男なんて可愛いものだ。

「これでも動じないの?さすが。吉原の厄災お気に入りの遊女。終夜サマの女か」
「その言い方やめて」

 男が顎で進行方向を指示する。明依はその方向へと、後ろ向きに一歩一歩ゆっくりと確かめる様に歩いた。

「中、入って」

 指示通り長屋の一室を開けて中に入ると、男は後ろ手で引き戸を閉めた。
 あのタイミングで声をかけたのは、あらかじめ人がいない事を確認しておいたこの場所に入る最短距離だったからだろうか。

「早くして。時間ないんだから」
「えー。俺ゆっくりしたいー」

 もし自分が男の立場なら、この状況でそんな気は絶対に起きないだろう。
 だからおそらく、この男とは一生わかりあえないのだろうなと明依は感じていた。

「俺、今日はツイてるわー」
「よかったわね」

 自分らしくない言葉を吐く。
 たった一言、その一言に全部込めて。

 メリットがあると思ったから望んで抱かれる。それ以上でも、以下でもない。自分の願望が叶ったと思ってるなら、せいぜいそう思ってろ。
 嘲る素振りを見せずしかし何かを含んだ言葉に、男はきょとんとした様子だったが、楽しそうに笑った。

「いいねェ、そういうの」
「身体に傷、入ってるけど」
刺青(すみ)の事?」
「違う。傷。刀傷」
「へー。どこに?」

 男は興味あり気な様子で明依にそう問いかけた。

「確かめて」

 身体を寄せる男の首に腕を絡めると、すこし自分の方へと引き寄せた。
 目を見開いていた男は、乾いた笑いを漏らした後で、楽しそうに笑う。

「好きだわ。やっぱ俺、アンタ」

 吉原に来る客はしとやかな女を求めている気がするが、男は案外振り回されたい気質も持っているんだろうか。難しいな、男は。いや、お互い様か。

 そんなことを考えながら、唇を寄せた。
 警戒心は説いた。だから触れ合うまでのこの時間が、一番意識が薄れる事を知っている。

 『距離、口調、声のトーン、言葉の言い回し、表情。相手に与える情報を自由に選べるって事はね、自由に他人を操れるって事だ』

 明依は膝を思いきり男の股間に沈ませた。

 男はその場に倒れ込んでうずくまっている。

 なんだ。案外やればできるじゃん。と、一秒くらいは成功した感動に浸っていたが、あまりに痛そうにしている男の様子を見て明依は思わず「うっわー」と声を上げて顔をしかめた。そして自分でしておいてなんだが心底申し訳ない気持ちになってからは、すこしあたふたした。

「本当にごめんなさい!!でも、時間ないから!!」

 しかしこうなってはもう仕方ない。話が通じなかったから。と割り切る事にして明依は長屋から出て全速力で走った。

 とりあえず上手くいった。とやっぱり浮かれそうになる気持ちに蓋をする。
 次を考えろ。とりあえず何より先にどこかに隠れなければ。ほとぼりが冷めた頃にまた、終夜探しを再開しよう。捕まっては元も子もない。あんな事をしたのだから、最悪殺される。

「黎明!!絶対殺してやるからな!!」
「うわ!!もう来た!!」

 しかし身を隠すより前に、超絶な痛みから短い時間で持ち直した男は、先ほどの悶絶なんてなかったかのように鬼の形相で走ってくる。

 うまくいったと思ったが甘かったらしい。
 やっぱり終夜は凄い。きっとこんな危機的状況でも涼しい顔をしているのだろう。何パターンも打開策を考え、それが失敗したときの代替案も考える。
 きっとそうやってギリギリの所で生きてきた。自分を追い込んできた。だから終夜は、この街で誰よりも強くなったのだろう。

 しかし、どうやら運は向いているらしい。
 終夜を探していると思われる主郭の三人の男が、通りの曲がり角を曲がってこちらに歩いて来ようとしているのが見えた。

 こうなればもう、致し方ない。他力本願。
 いや、襲われかけたのだからこれは妥当な判断のはずだ。

「お願いですー!助けてくださいー!!」

 明依は、私が!!私こそが被害者です!!と言わんばかりの様子でそう言って、今まさに精魂尽き果てたと言わんばかりに弱々しく男の一人に抱き着いた。

「れ、黎明大夫!!どうしてここに、」
「私はおとなしく施設に居たんですぅー。そうしたらこの男が来て、外に出ろって……!!襲われかけて、私……やっとの事で逃げてきたの!!私は施設に居たかったのにぃー」
「違っ、はァ!?」

 全身全霊をつぎ込んでそう演技をすると、陰の男はこちらに向かって走る足は止めず、しかし二の句も継げない程愕然とした様子でいた。
 知らない男の胸にしがみつきながら襲われかけた陰の男に向かって舌を出すと、男はさらに怒り狂った様子で走ってくる。

 主郭の男たちは明依を庇う様に背中に隠した。心底申し訳ないと思いながらも、明依はゆっくりとその場を離れてまた走った。

「おい、待てや!!」

 もうただの(やから)じゃん。と思いながら怒号を飛ばす男を振り返ると、こちらに意識をやりながら主郭の三人をあっさりした様子で戦闘不能にした。

 その時、ふいに朔を思い出した。
 助かった気になっていたが、陰の身体能力は普通じゃない。主郭の人間もみんな元は陰。戦闘能力がある。しかしそこから主郭の運営側に回った人間は、適材適所で陰に残った人間よりも戦闘能力で劣るのは当然の事。
 現役を退いた主郭の人間より、あの男が強いのは当たり前だ。

 細道に入り込めれば、朔から逃げた時の様にどうにかなるかもしれない。

 後二歩で細道に届く。そう認識したとき、すぐ後ろから強く踏み込む足音がした。
 もうダメかも。そう思った時には、地面に強く体の正面を打ち付けていた。痛みを感じるよりも前に、男は明依の肩を掴んで仰向けにさせ、胸ぐらを掴んだ。

「やってくれたな、てめェ」
「顔、怖いよ」

 身体を打ち付けた痛みと全速力で走った反動の内臓の痛みに耐えながら、平然を装って息を整えながらそういう。

 『力がないって言うのは悲しい事だね、明依。自分を守ることも、牽制する事も出来ない。でも身の振り方さえ間違えなければ、それでいいんだよ』

 終夜の言葉を明確に思い出し、それから同意する。
 力がなかったらこんな時に、本当にどうしようもない。
 そしてきっとどこかで、身の振り方を間違えたのだろう。

 万事休すというやつだ。
 死にたくない、できる事なら誰か助けてほしい。そんな事を思いながらも、そんな態度をこの男に見せる気にもへりくだる気にも、到底なれなかった。

「終夜ーって叫んだら?助けに来てくれるんじゃね?見つかるし一石二鳥じゃん」
「じゃあ叫ぶから、その時間ちょうだいよ」
「嫌に決まってんだろ」
「終夜よりめんどくさい男」

 吐き捨てる様にそう言うと、男は短刀出して切先を一瞬で明依の方向に向けて振り上げた。
 終夜が朔を殺した時もこんな感じだったっけ。

 そして思った。
 どうせなら、終夜に殺されたかった。
 そうしたら〝明依〟という人間を、終夜の心の中に刻んでおけたかもしれないのに。

 そのどこまでもバカな考えに、思わず乾いた笑みが漏れる。
 どんだけ終夜が好きなんだよと、自分で自分が怖くなった。
 でももう、いいや。

 詰まるところ、最後の最後に思い出すのが、終夜でよかった。

「これだけ騒げば聞こえるよ」

 すっと空気を裂く様な一言が聞こえた。
 誰かの蹴りが、男の頭部に入った。男は吹っ飛び、近くの店の中の物を薙ぎ払って動きを止めた。

「あーあ。まーた遊女黎明の被害者が増えた。そろそろ被害者の会立ち上げなきゃ」

 明依は唖然としたまま頭上を見た。

「かわいそ」

 そこにはずっと探していた男、終夜がいた。
 終夜は男の方を見ながら、なぞるだけの言葉を吐く。

 いや、どう考えても遊女の黎明に色仕掛けをされた被害よりも、終夜に蹴り飛ばされた被害の方が大きいと思うんだが。

「……終夜」

 そんな軽口を叩けないくらいの安堵と、嬉しさで埋め尽くされる。
 彼の名前を呼ぶ声が、震えた。