身体能力の差なんて最初から明らかだ。それが分かっていても明依は、何度も隙を見計らって逃げようと試みていた。
 しかし案の定、振り払った瞬間に捕まる。この一連の流れを何度も何度も繰り返していた。

「いい加減に諦めてください、黎明大夫!!」
「だから!!どうして私が閉じ込められないといけないの!?終夜と話がしたいだけなの!!」
「だから!!それが出来ないんです!!」
「もう!!だから!!」

 この一連の流れも、このやりとりも堂々巡り。埒が明かないとはこの事だ。
 最初は一人の男に腕を掴まれているだけの明依だったが、とうとう両端から密着されてほとんど身動きが取れなくなっただけではなく、前後にも男が配置された。
 これではほぼ犯罪者だ。

「まったく。どうして松ノ位はこう揃いも揃って気が強いんだ……」

 微塵も諦める様子も見せずなお喚いて抗議をしようとする明依に、一人の男がため息交じりにそう言った。

「こんにちは。ご機嫌いかがです」

 その声で明依は我に返った。過去に二度訪れた、子どもを相手に書道教室を開いている建物。
 入口の前ではこの状況に表情一つ変えない師範が、以前と何も変わらない様子で微笑んでいる。

 もうこんな所まで来てしまった。そんな絶望感を振り払うように、最後のチャンスに賭けて男に体当たりをしてみるが、やはりうまくはいかなかった。

 必死の抵抗も虚しく、あっさりと地下道へと連れていかれる。相変わらず不気味な道。しかし今となってはそんな事すらどうでもよかった。この道を明かりなしで端まで行ければ出してやる。なんて条件だったら、考える間もなく答えはイエスだ。

 暗い道が、絶望感を誘発する。
 しかし諦めて堪るかと、唇を噛みしめて自分自身を奮い立たせていた。

 なにか台を持って来れば塀は超えられるだろうか。もしくは、従業員だけが利用している潜り戸か何かないか。施設の中に入ったら確かめてみよう。

 とうとう静かになった明依を逆に不審に思ってるのか、男たちは一切警戒心を解く事はなかった。

「何をしでかしたんだかねェ」

 男たちに連れられて入った部屋にいた野分は、呆れた様子でそう言って笑った。男たちはやっと一仕事終えたとばかりに、疲れた様子で部屋から立ち去っていく。

「アンタの事だ。無茶したんだろ。明依」
「野分さん、お願いです。ここから出してください」

 野分は明依の真っ直ぐな目と言葉を聞いて、ゆっくり息を吐いてから明依の後ろへと視線を逸らした。

「アンタら、いるんだろ。……今は空と海って言ったかね」

 明依が振り向くと、ちょうど廊下から空と海が顔を出した。双子の幽霊が人に呼ばれて姿を現したことに驚いている明依を他所に、二人は野分の近くまで歩いた。

「終夜の命令」

 相変わらず抑揚のない声で、海はそう言う。

「犯罪組織に満月屋の遊女が人質に取られた。終夜は見殺しにしようとしたけど、黎明が〝松ノ位〟って言って遊女を庇ったから、終夜がキレた」

 海に続いて空がそういう。そのやり取りはまるで、双子の幽霊が野分に現状の報告している様子に見えた。

「なるほどね。そういえば、前にもこんな事があったねェ」
「……一度、あった。十五年前の秋。当代頭領の息子、暮相が一度だけこの施設に陰見習いを閉じ込めた事がある」
「感情が欠落していたその本人は、どうして閉じ込められたのかもわからないまま、ただここで食事もとらずに時間が流れるのを待っていた。感情が欠落する事なんて、幼いころから厳しい訓練に耐える陰には珍しい事じゃない。よって、特筆(とくひつ)性はない」

 十五年前の出来事。この二人はまだ生まれてすらいないだろう。
 それなのに野分の一言で、すぐに頭の中から情報を引っ張り出して来る。
 ここ最近、空と海、特に海にはからかわれてばかりで、子ども扱いしていた。実際に子どもなのだが。しかしこの二人の様子を見ていれば、やはり〝双子の幽霊〟は凄まじいなと感心していた。

 しかし、やはりこの状況は読み込めない。
 どうして双子の幽霊が野分に報告をする必要があるのかという事だ。

「アンタは空と海とよく関わっているそうじゃないのさ、明依。じゃあ、双子の幽霊がこの街で過去の出来事を記憶している理由を知ってるかい」
「知りません……」
「それはね、判断する為だ」
「……判断?」 
「双子の幽霊は、語り部としてただ吉原の出来事を記憶するだけじゃない。終夜が主郭に所属し、アンタが満月屋に所属しているように、双子の幽霊はこの施設に所属している。この施設は、吉原から独立した中立の立場だ。過去の出来事から今の出来事が吉原の〝平均〟に沿っているのかどうかを判断する為の知識を持ち、材料を集めている。それをもとに、この〝施設〟は吉原って街を第三者の目線で監査しているんだ」

 『あの施設はちょっと特殊でね。……吉原の一部だけど、独立した組織として俺達は扱っているんだ。あくまで中立。かなり大げさに言えば吉原を、頭領という圧倒的な決定権を持っている人間を、第三者の目線で監査する立場』

 そういえば初めて施設に行くとき、清澄がそんな話をしていた。
 その監査には、双子の幽霊の現在の吉原を見て回る〝目〟と、過去を記憶している〝頭〟が必要不可欠なのだろう。

 その施設の内部事情は、主郭の人間ですらよく知らない。圧倒的な権力を持つ、頭領の独裁を防ぐために作られたのか。

 だから幼いころから怪談話として聞かされた〝双子の幽霊〟を今も恐れて関わらない。つまり、主郭にすら干渉されないという事。

 本当にこの街は、よくできている。

「この街はもう、随分前からおかしくなった」

 『抽象的な言い方をすれば、吉原は明らかに〝いい流れ〟になってた』
 『誰かが敵になったのか、敵が潜り込んだのか。どちらにしても、いまだかつてここまで吉原の動きがおかしい事はない』
 『この吉原には多分、何かいる』

 野分の言葉で明依はまた、初めて双子の幽霊に初めて出会った時の事を思い出していた。

 吉原の街を守る為に必要な事。だがそれは果たして、二人の子どもの人生を狂わせてでも必要な仕事なのだろうか。

 しかし今、それを考えている暇はない。
 明依は気持ちを切り替えて野分を見た。

「お願いです、野分さん。私、終夜の所に行きたいんです。ここから出してください」

 野分は冷静な様子で海と空に視線を移した。

「主郭の騒ぎってやつを聞いた終夜の様子はどうだった?」
「驚いた様子はなかった」
「黎明が話を聞いてほしいって言ったけど、終夜は『時間の無駄だ』って答えた」

 野分の問いかけに、海、空はそれぞれそう答える。
 野分はそれから明依を見て口を開きかけたが、明依は野分が何かを判断するより先に口を開いた。

「主郭で起きている騒ぎは、宵兄さんなんです。終夜を助ける為に私達二人で計画を立てたの。主郭に行くのを止めないと、終夜が殺されるかもしれない」

 野分は少し驚いた様子を見せたが、それからゆっくりと息を吐いた。その先に続く言葉が〝いい言葉〟ではない事は、何となくわかっていた。

「野分さん、」
「ここにいな、明依」
「でも、」
「アンタはもう、充分終夜に寄り添った。これ以上は無意味だ」
「……でも、終夜が死にそうになっているのに、何もしないで見ているだけなんて、そんなの……」
「気持ちは分かるよ、明依。だけどね、アンタも終夜の性格を知ってるだろ。他人からどうこう言われて、あっさり納得するような男じゃない」

 終夜が人の話を聞く人間ではない事なんて知っている。吉原に帰ってきたときの話は、たまたま色んな要素が重なって偶発的に起こった奇跡だという事もわかっている。だからこれ以上説得が無意味だって事も理解している。

 だから、これ以上何も言い返すことが出来ない。
 だから、堪らなく泣きたくなった。

 何もかも投げ捨ててしまいたいくらい。何度も何度も、味わった感覚だ。
 だったら、何もせずにこの場所で〝悲劇のヒロイン〟を気取っていればいいのだろうか。

「あ!明依だー」
「本当だ!!明依~」

 通りかかった数人の子どもが、廊下から明るい笑顔で手を振った。
 ふと気づけば、双子の幽霊はいなくなっていた。

「ね、明依。また遊ぼうよー」
「……うん、いいよ。遊ぼっか」

 そう返事をする明依を見て、やっと諦めたと思ったのか野分は安心したように息を吐く。

 明依は心の中で野分に謝罪をした。
 頼れないのなら、自分でここから出るまでだ。
 最初からそのつもりだったのだ。予定は何も変わってはいない。

「じゃあ、かくれんぼね!!明依が隠れて~」
「わかった」
「こら、走るんじゃないよ!」

 野分の声が聞こえていない様子の子ども達が部屋からバタバタと出て行く。明依も立ち上がって部屋を出た。

 隠れる場所を探すフリをして、建物の中を見て回る。手探りで地下を移動できるならやってみようと思っていた明依だったが、やはり男が入口を見張っていた。

「出しませんよ」
「あなたたちは、殺そうとしている人間の命令を聞くんですか?」
「聞きますよ。一般社会で言えば終夜さまはまだ〝上司〟ですから」

 眉を潜める明依にも、男は表情を変えない。身体能力で勝てるはずがない。男がここから退くつもりがないのなら、話をしていても無駄だと思った明依は踵を返した。

「ここはどうぞご辛抱を。黎明大夫」

 その口調は優く、それでいてそこはかとなく悲しそうにも聞こえる。
 明依が振り返ると、男は柔らかい表情で笑っていた。

「終夜さまからの最後のご命令です。どうか務めを果たさせてください」

 トクンと心臓の音が鳴る。この人はきっと、終夜を慕っている側の人間だ。
 あんな無鉄砲な上司のどこにいい所があるんだ。自分が部下なら、絶対にあんな男は慕わないな。と、異性として意識してどうしようもないクセに自分の事は棚に上げてそんな事を思っている。

 それから、励まされた。
 終夜を慕っている人間がいる事に。

「嫌です」

 やはり自分は負けず嫌いらしい。
 こんな所で終夜の思い通りになって堪るか。

 絶対に死なせて、楽になんてさせてやらない。

「これから先もずっと、終夜は周りの人間を振り回すんだから」

 何度も終夜にいいように言いくるめられた時の屈辱も、蕎麦屋の二階に入るまでの現実から一歩外に踏み込んだ高揚感も、利用された花魁道中も、吉原の外での出来事も。

 終夜に何度も振り回されて、揺れ動かされた感情は強く心の中に残っている。
 その程度の迷惑くらい、何度でもかけられてやる。

 そもそも商売道具の身体を含めて、大切なものは全部あの男にくれてやったんだから。
 こんな所で絶対に諦めない。

 男はふっと息を抜いた様に、明依に笑いかけた。

「終夜さまの一見無鉄砲に見えるこれまでの行動は、きっとあなたに賭けての事だったんでしょうね。黎明大夫」

 きっと頭の中では同じことを考えているんだろうなと思った明依は、男に釣られて思わず笑った。

「私はいつだって、私に賭けてるの。だからまだ全然、終わってなんてない」

 ほんの少しの強がりと、宣言。
 この言葉は、他の誰でもない。自分に対する決意だった。

 ただ嘆いているだけの、動きのない物語なんてつまらない。
 もがいて苦しんで、自分で立ち上がって活路を見出すから、物語も人生も面白いんだ。

 だから悲劇のヒロインは、もういらない。

「明依みーつけた!!」

 そう言うと一人の男の子が、明依の腰に勢いよく抱き着いた。

「簡単すぎるよ!もっとちゃんと隠れて!!」
「ごめんごめん。じゃあ、もう一回ね」
「明依お姉ちゃん」

 そう言いながら廊下を歩いていると、庭から聞きなれた声がした。

「雪……?」

 どうしてここに。入り口は男がずっと見張っているはずだ。それなら雪は一体どこから。そんなことを考えている明依をよそに、雪はこくりと頷くとすぐに踵を返した。

「なんでここに、」
「うわああああーん」

 響き渡る大きな泣き声に、明依と雪は思わずそちらに視線を移した。
 勢いよくこけたのか、小さな女の子がうつ伏せの状態で泣いていた。

「大丈夫?」

 明依が駆け寄ろうとしたが、それより先に縁側に座っていた男の子が女の子を立たせて、着物についた汚れを払った。

 いまだにしゃくり上げて泣いている女の子の頭を、男の子は優しく撫でた。

「びっくりしたね。……ほら、これあげるから泣かないで」

 そう言うと男の子は、升に入った飴を女の子に差し出した。
 それは、雪が好きな店の物だ。

「ありがとう!なんか、終夜みたいだね!」

 女の子の発したその言葉に、明らかに心臓が音を立てる。
 この子は今、何て言った?

「そうかな?俺も大きくなったら、終夜みたいになりたいな」

 男の子も〝終夜〟という言葉に疑問を呈す事もなく、当然の様に笑っていた。

「ねえ、二人とも。知ってるの……?終夜の事」
「うん。私、終夜の事大好き!!」
「俺も。って言うか、多分この施設で終夜が嫌いな子なんていないよ」

 ドクドクと心臓が煩い。

 確かな予感がしている。
 自分の知らない終夜を、きっとこの子達は知っている。

「終夜はね、いつも皆にお菓子を持ってきてくれるんだよ」

 女の子は先ほど泣いていたことなんてなかったかのように、両手を広げて嬉しそうにそう説明する。

「終夜、凄いんだよ。みんなが一番目と二番目に好きな飴、ぜーんぶ覚えてるの!」
「……ねえ、雪」

 明依はやっとのことで雪の名前を呼ぶ。
 その声はかすれて、震えていた。

 『ありがとう、明依お姉ちゃんを助けてくれて。……これ、あげる』
 『青いやつは?』
 『もうないの。さっき明依お姉ちゃんにあげたから』
 『そっか。……じゃあ、これにする』
 『選んでくれて嬉しい。雪が二番目に好きな飴』

「満月屋に来る前から知ってたの?……終夜の事」
「うん。知ってたよ」

 あの時、終夜があの飴を選んだのは偶然じゃなかった。

 終夜は雪の一番目に好きな飴も、二番目に好きな飴も知っていた。
 知っていたからあの時、雪が二番目に好きなカラフルな飴を選んだ。

 そうする事で雪が喜ぶと、終夜は知っていたから。