噂は三浦屋辺りにまで広まっているらしい。好奇の目で見られるというのは、あまり気分のいいものじゃない。
 しかし、相手は現在、吉原の次代頭領に一番近い男だ。それに異例の方法で松ノ位に昇格した遊女。もし自分がそれを見ている立場なら、確かに気になるだろうなと明依は納得した。

 この立場を、羨ましいと思うだろうか。そうに違いない。きっと、幸せの絶頂にいる様に見えるだろう。

 あんな女より、私の方が努力しているはずだ。それなのに報われない。私がこんなに苦しんでいるのに、あの女だけどうして楽な思いが出来るのだろう。きっと媚を売ったに違いない。
 好奇の目の中に、そんな恨みもある事は容易に想像ができる。

 幸せとは遠い場所にいる事なんて、想像もつかないに違いない。ましてや自ら地獄に残り、これからさらに深い所へと飛び込もうとしている事なんて想像もつかないくせに。

 少しの恨み言を吐きながら、黙って宵の隣を歩いた。

 終夜が吉原にいる。それは終夜が宵の命を狙うという事。つまり、どちらも救えない可能性があるかもしれないという事だ。
 心の内が陰る。誰かに泣きついて喚いてしまいたい。そんな弱い自分がまた顔を出して、それからくよくよしている暇はないと自らを励ました。

 宵に明日の話をしよう。

「宵兄さん、」
「終夜の説得はできなかったんだね」

 出鼻をくじかれる、とはこの事だと思った。
 宵はまるでいつも通りの世間話の様に、穏やかな口調でそういう。

「……どうして、そう思うの」
「もしそうなら、この街に帰ってくるはずがない。終夜も、明依もね」

 本当に、ただの世間話をしている様な口調。
 宵の表情や口調から、宵はもしかして本当に自分の事を好きなんじゃないか。なんて思っていた。だけど、もしかするとそれは勘違いだったのかもしれないと思うくらい。
 宵が本心を必死に隠しての事なのか、それともやはりどこまでも利用すると割り切っての事なのか。明依には全くわからなかった。

 ただ、もし割り切っての事なら少し、虚しい。
 その結論に至ってから、どこまでも自分勝手な考えが浮かぶことに若干呆れていた。

「明日、海外に拠点を置いている犯罪組織が吉原に来るよ」

 ピンと張り詰めた緊張が走って、使命感の様な気持ちが芽生えて、それから悲しい気持ちにたどり着いた。
 どうしてこんな時に、大変なことが重なるのか。

 『海外で怪しい動きがあります。吉原のメンテナンスの時期と重なっているのが気になる。気を付けて』
 屋形船の中で竹下は、終夜にそう忠告していた。
 竹下は情報を専門に扱っているのだから、知っていたとしても不思議ではないだろう。しかし、日本の警察官はこんな情報まで知っているのかと思うと少しの恐怖心と、全く怪しまれずにその情報を共有するスキルにも驚いていた。

 水面下というのは本当に見えないものだ。ましてや自分よりも圧倒的にスキルを持った人間が本当に隠そうとしている事なんて見破れるはずがない。宵にしても、あの終夜にしても。

「もしかすると吉原にスパイがいて、頭領不在の所でかたを付ける為に昨日の夜、頭領の命を狙ったのかもしれない。確証は得られていないから、何とも言えないけど」
「炎天さん達はそれを知ってるの?何か対策をしているとか」
「警戒はしているけど、詳細な情報は知らないはずだ。そして、唯一それを知って対策を打とうとしている人間を、明日殺そうとしている。そっちはもう、知ってるよね」

 『でも、俺には選べない。だから、明依が選んで』

 もし二人で吉原を出ると選択をしたなら、この事を見逃したのだろうか。吉原を外部の人間に乗っ取られる未来を。
 
 あれがきっと最後のチャンスだったのだと、明依は何となくそう思った。
 終夜はきっとあの瞬間に全てを賭けて、あの瞬間に覚悟を決めた。
 吉原を救う事に命を賭ける道を選んだ。決断させてしまったのかもしれない。
 今の終夜に何を言ってももう、彼は吉原を捨てない。

 もう本当に手遅れなのかもしれないと思って縋る場所を探すのはきっと、自分が弱いからではなくて人間の本能。
 そこから持ち直そうと必死に自分の手綱を引き寄せようとするのは、きっと覚悟だ。

 〝宵兄さん、お願い。終夜を助けて〟
 先ほど言い損ねた言葉を、これから口にする。
 これは自分を恩に縛り付ける言葉で、〝これからあなたを利用します〟と宵に宣言する言葉だ。

「宵兄さん、」
「何も言わなくていいよ、明依。その言葉はきっと、明依の傷になる」

 息を呑む明依を他所に、宵は優しい顔で笑っている。

「全部わかってる。だから、何も言わなくていい。……協力するよ。そういう約束だから」

 確かに〝そういう約束〟だ。
 でもその言葉は、明依が背負おうとする荷物を明らかに軽くしている。
 〝好きだ〟と言ってくれる人を利用する。こんなに優しい人を。

 だからこそこの痛みは、(いまし)めに相応しい。

「ありがとう、宵兄さん」

 宵の心遣いに〝ごめん〟は余りにも不釣り合いに思えた。

 『本気で考えるよ。そういう約束なんだから』
 こんな状況で、花火の最中に終夜がそう言ったことを思い出した。似ているはずがないと思っていた二人だが、何を考えているのかわからない所や、言葉の雰囲気が、何となく似ている気がした。

「明依は明日、終夜から目を離さないで」
「どうして?」
「主郭も陰も、松ノ位には簡単に手を出せない。日奈が死んだ時は、お披露目の前日だって事もあって相当手を焼いたと聞いている。この短期間で、しかも世間の注目を集めた〝黎明〟が死ぬ事は絶対に避けたいはずだ。それに、松ノ位は吉原の外でも利用価値がある。犯罪組織なら、なおさら」

 宵はそう言うと、どこか厳しい顔つきで明依を見た。

「わかるね。危険な事だよ」

 明依は十六夜を思い出していた。そして改めて思う。やっぱり十六夜は宵の事が好きだった。だから明依が丹楓屋へ行った時、何のためらいもなく協力を望んで、あの終夜に挑もうと思った。
 今、十六夜と同じ気持ちを持った事を少し嬉しく思っていた。恐怖心なんてない。
 可能性が少しでもあるなら、なんだって喜んでやる。

 そして、叶わなかった十六夜の想いがチクリと胸を刺した。

「わかってる」
「じゃあ、よく聞いて。……昨日の頭領殺し未遂。それを利用しようと思ってる。犯罪組織が攻めてくるのは正面、大門だ。だから終夜はそっちに行くはずだ。炎天さん達もね。それから、俺が主郭の中で騒ぎを起こす。そうすれば、終夜を殺す所の話じゃなくなる。いいね、明依。終夜の側を離れないで。終夜が吉原の拠点、つまり主郭に近付かないように説得して。頭領の危険を察した陰は、主郭に集まる。……それに晴朗さんは多分、終夜の先を読んで主郭にいるから」

 晴朗は終夜と戦いたがっている。
 だから絶対、終夜を主郭には近付けてはいけない。

「できそう?」
「うん。やる。……でも、宵兄さんは大丈夫なの?」
「大丈夫、上手くやるよ」

 躊躇いなくそういう宵に、明依は安堵の息を吐いた。
 とりあえず明日は大門に行って終夜を見張り、それから終夜が主郭に行かない様に引き止める。
 終夜を助ける事が、宵のおかげで現実的になってきた。

「その後、俺が明依の所に行く。それから、終夜と話をするよ」
「……終夜と話なんてできるの?終夜は、宵兄さんを殺したがってるんだよ」
「明依の心配する事じゃないよ。俺達二人の問題だ」

 宵は、当たり前のような顔をしてそういう。

「だけど安心して。悪い様にはならないから」

 何度も騙されていたのに。今もまだ、宵の言葉を全部そのまま受け入れたらダメだって思っているのに。こんな時の宵の言葉には、途方もない安心感があった。

 明依がそう頷くと、今度は宵は安心したように笑った。

「随分遠回りしちゃったね」

 そういう宵の言葉で辺りを見回すと、夏祭りの時に宵と来た神社の前にいた。
 まだ何も知らなかったころ、宵と一緒にいる事を誓ったのもここだった。

「ねえ、明依。明依が俺を許したのは、全部、終夜の為?」

 全部が全部。そんなはずはない。
 明依は自分がそんなに強い人間ではない事を知っていた。そこに宵への感謝があってこそ、成立するもの。しかしそれは〝理由〟じゃない。
 だから今それを口にすれば、言い訳にすら聞こえるだろう。

「ごめんなさい、宵兄さん」
「いいよ、謝らなくて。……でもせっかくなら何で謝ってるのか教えてもらおうかな。で、なに?終夜と蕎麦屋の二階に行ったって黙っていた事?それとも俺の誘いを断って終夜と会う約束を優先した事?それとも終夜と一晩一緒に過ごした事?」

 宵はニコニコと笑顔を貼り付けながら、淡々とそういう。
 それはまるで、終夜が明依に圧をかける時の様子に似ていた。

「お、怒ってるよね……?」
「怒ってないよ。でも気分はよくない」

 それを世間一般では怒ってるって言うんだよ。と思ったが、決して口には出さなかった。

 宵は明依の事が〝好き〟なのか。
 そんなことを考えていたが、明依はだんだんと馬鹿馬鹿しくなってきた。
 他人の感情なんて、隠されればどれだけ疑ったって分かりはしないのだ。
 それなら自分の気持ちを素直に大切にしようと、この状況でそんなことを考えていた。

「でも勘違いしないで、宵兄さん。私、ここへ来た時にちゃんと言ったでしょ。宵兄さんに感謝してる。昔から、今も。宵兄さんがいなかったらきっと私、全く違う人生にいたと思うから」

 『終夜の側にいたい?』
 『でも、ごめんね。それは叶えてあげられない』

 宵はそう言った。でも、一緒にいる事を選んだのは自分だ。宵は優しいから、良心が痛んで悔やんでいる事もあるかもしれない。
 しかし、この結末は自分が断定したものだと宵がそう思っているのなら、それは酷い誤解だ。どこか馬鹿にされている様で。

 これは明依自身が選んだ結末。そんな曖昧な事を伝えたかった。

「宵兄さんは確かに私をいい様に操っていた。でも、私は宵兄さんを恨んでない。これから先も、恨む事なんてないよ。何度も言うけど、感謝してるの。私は宵兄さんと一緒にいる事を、私が選んだ」

 終夜からの誘いは、本当に大きな衝撃を一瞬にしてもたらした。
 〝恋は盲目〟。そんな不確かな言葉で片付くなにか。

 一番大切な人とは結ばれないと言う。それでも明依は、恋は美しいものだと思った。

 金輪際胸の内から出る事のないこの想いは、とても綺麗だ。
 だから、綺麗なままで終わりにする。
 そして鮮烈な思いはやがて、深く根を張り自分の一部になる。

「終夜が明依を連れて行ったって聞いた時、もう二度と会う事はないかもしれないって覚悟をしてたよ」

 大切にされている。想われている。そんな実感。
 利用する為だけの人間に、そんな言葉が自然と出てくるのだろうか。
 もし宵が本当に自分を利用するためだけにここまで言葉を選んでるのなら、もう見破れない。
 何度も何度もそう思った。だからもう、ここまでしてくれる宵を受け入れて素直に信じたらいいのかもしれない。

 明依は黙って、宵の言葉の続きを待った。

「でも明依は、吉原に戻ってきてくれた。だから乗り越えよう。今度は、一緒に」

 宵はそう言うと、明依の手を握った。
 宵の手は温かくて、少し冷えていた明依の手に熱が移って中間温度に落ち着いて行く。

「信じてくれなくていい。でも俺は、明依が好きだよ」

 そう言うと宵は明依の手を引き寄せて、それから抱きしめた。
 その言葉がストンと心の内側に落ちてきて、縋る様に背をなぞる感覚が胸を窮屈に締め付けている。

「明日。全部、終わらせよう。そしたら、やっと俺も平和でいられる」

 無条件で宵が好きだとか、恋をしているだとか。そんな事じゃない。
 だけど一緒にいる未来での最悪が思い浮かばない事を、悪い風に捉えようがなかった。
 自分から手を離さない限り、宵は離れてはいかない。そんな確信。

 お互いの利害関係が一致しての婚約だとしても、確かな愛なんてなくても、それでもこの道を自分で選んでよかったと思える日が、きっといつか来る。