「残念」

 終夜がそう呟いて、はっとした。
 気が付けば、終夜の口を手のひらで覆っていたから。

 終夜は自分の口元を覆う手のひらを優しく握って下した後、顔にかかっていた明依の髪を払って、それから額に触れるだけの優しいキスを落とした。

 頭の中に浮かんで消えたのは、これから吉原で一緒になろうとする宵ではない。

 日奈だ。
 終夜の事を友達として大切にしていて、親友の明依にも本当の感情を隠して慕っていた、日奈の顔。

 これから先。一歩を踏み込む勇気が、明依にはなかった。
 そんな明依を見て何を思うのか、終夜はどこか気の抜けた穏やかな笑顔を向けた。
 終夜が明依に宵の正体を明かした時。真意を探る事が出来るのなら、探って教えてほしいくらいだと思った。今、あの時と全く同じことを思っている。

「これ。清澄から預かってる。この前、渡しそびれたって」

 終夜は少し間を開けた後、明依の前に何かを差し出す。
 見覚えのある桐箱。
 見覚えのある字で書かれた〝売るな!!〟の文字。

 息を呑む。
 見覚えがあった。それも、強く。
 日奈の昇進祝いの時に清澄の店で見た桐箱。
 満月屋で書類整理をしているときに時に見た、旭の書いた字。

「普通、箱に直接書く?頭おかしいよね」

 状況が理解できないまま受け取る事も、ましてや返事すらしないこの状況を終夜がどう思っているのか知らない。ただ、終夜は桐箱の蓋を開けて明依の方へと少し傾けた。

 それはあの日、日奈に選んだ簪と同じ。
 日奈が殺された時に身に着けていたものと同じ。
 ただ、雛菊の柄とは違うだけ。

 太陽の柄が描かれた、二本の簪と一本の櫛。

「……誰から?」
「旭と日奈から」

 信じられない思いで終夜の顔を見るが、手元を見ている終夜と視線が絡む事はなかった。

「清澄が日奈のと一緒に仕入れた。それを旭と日奈が買ってたって事だね」

 明依が恐る恐る手を伸ばすと、終夜は手の上に優しくそれを置いた。
 あの時は精神的に随分と脆かった。それなのに日奈と旭は、松ノ位に上がる事を信じてくれていた。

 「日奈の分は貰ってくけど、ソレ絶対、店に出しちゃダメだからな。……やっぱ前払いしとくから、店の奥にしまっといて。いや、待って。うっかり売られたら困るから、売り物じゃないってわかる様にしとくから!」とか何とか言って、箱に文字を書く旭が、容易に想像できた。

 それなら、日奈は一体いつ。
 あの時だ。旭が吉原から外に出る事に煮え切らない態度を示していた日の夜。明依の部屋に来る前に、先に日奈の所へ行ったと言っていた。その時に旭が日奈に話したに違いない。

 自分の知らなかった、日奈と旭。

 吉原に居られることに安堵していた。
 あの二人の期待を裏切らなかったことに、心底安心している。

 それなのに、終夜と道を違えようとしている事が、胸を刺すように痛めつけている。
 終夜と一緒にいたい。
 それが、何一つ包み隠さない自分の本心だったのだと知った。

 この気持ちは一体なんだ。

 どうして両極端な感情が一気に出てくる。
 明依は飽和した意識の外側で、煮え切らない自分の気持ちに苛立ちを感じていた。

「俺達は似てるのかもね。問題を見て見ぬフリが出来る程、人間が出来てない。多分もう、死んだようには生きられないんだろうね。どこまで行ってもずーっと、何かに縛られてる」

 吉原の中でやりたいことがあったから、この街に残る選択をした。どうしてわかってくれないんだろうと思った。でも、分からなかったのは自分の方だ。終夜もきっと、一緒だった。

 無理矢理外に出そうとする事は、終夜にとっての地獄。
 終夜にとっての人生の大切な何かは、吉原の中にある。
 明依と同じ様に。

「ただ、その気持ちだけは受け取ってやってもいいよ」

 終夜はどこかふざけた口調でそういう。明依が視線を上げると、終夜はもう明依に背を向けて歩き出していた。

「ありがとね」

 終夜のその言葉を最後に、襖が閉まった。

 また、ひとりぼっち。
 無意識に、そんな事を考えた。

 だったら、どうしたらよかった。
 どんな未来なら、納得できたんだろう。
 どうして終夜は、一緒に吉原を出ようなんて夢物語を話して聞かせたのだろう。

 旭と日奈が生きていれば、終夜とこんなに深く関わることはなかっただろう。
 旭の恋が実る日は来ただろうか。それとも、日奈は終夜と。その未来はその時の自分にとって、幸せと呼べるものだろうか。
 そこまで考えて、きっとどんな未来でも、納得なんて出来ない事を知った。

 だったら、どうしたらよかった。
 その繰り返し。

 ぽろぽろと涙が零れて、明依は桐箱を抱きしめる様に胸のあたりに持って行き、強く強く抱きしめた。

 苦しくて、悲しい。
 このやりきれない思いを大事に抱えた先に、これから先も救いなんて訪れない。

 死んだ親友と同じ人を好きになった事が罪なら、この底の知れない暗闇はきっと罰だ。





 落ち着いてから、目の赤味が見えない様に化粧をする。
 慣れた着物に着替えてから、損料屋から外に出た。

 既に着物に着替えて店の前で待っている終夜は、少し離れた所にある大門を眺めていた。
 明依が隣に来たことを確認すると、終夜はちらりと明依を見て、それから大門の方向へと足を進める。

「ねえ、終夜」

 終夜は、何も答えない。

「日奈と旭からの贈り物なら、残りのひとつは誰から?」

 別に賭けてみようとか、何か裏があっての質問じゃない。
 ただ、終夜がどんな返事をするのか。気になっただけ。
 きっと清澄は終夜から渡してほしかったのだろうと、明依は確信していたから。

「さあね。清澄じゃない?」

 終夜は清澄の本心を知ってか知らずか、いつもの様子でそう言う。

 ここから一歩でも足を踏み入れればもう二度と外界には出られないと知りながら、終夜の身の安全を約束できない事を知りながら、明依は大門を潜る一歩を踏み出した。

 観光客は何のためらいもなく中に入って外に出て行く。
 幸せというのは本当に、気が付かないものだ。もしかするとこうやって狭い世界で生きる事を、心の底から望んでいる人間も、世の中にはいるかもしれないんだから。

 いつも通りの、吉原の街を歩く。

 終夜はきっと、一緒に行くと言えば、あの桐箱を渡さなかっただろう。
 それが吉原の外に出る選択をした明依の枷になると知っているから。

 いつから終夜という人間は、明依の中でこんなにも優しい人物になったのだろう。

 そう思ってるといきなり身体が傾いて、引っ張られる。

「痛い!」

 終夜は明依の腕を強く掴んで、歩いていた。歩幅の違いも考えないで、どんどん先に進んでいく。
 先ほどまで思っていた優しい終夜の面影どころか、何を考えているのかわからないその終夜の様子は、彼を自分の理解が及ばない鬼の様だと思っていた時に似ていた。

「痛い、終夜!放して!!」

 訳が分からなくて、明依は強く目を瞑って俯きながら腕の痛みを逃がそうとしたがどうにもならない。掴んでいる終夜の腕を握っても、やはりびくともしなかった。

 満月屋の前では、宵は勿論、炎天や時雨も険しい顔をして集まっていた。
 宵が終夜の存在に気付いた頃、終夜は時雨に向かって放る様に勢いよく明依の腕を離した。時雨の腕の中に勢いよく突っ込んで動きを止めた後、時雨は「お前、大丈夫か?」と驚いた顔をしていた。

「終夜、貴様!!!」

 時雨に返事をするより前に、明依はその声で視線を移した。

 炎天が怒号を飛ばして胸ぐらを掴むが、終夜は抵抗しない。「明依、怪我はないか」という宵の声さえ、返事をする余裕がなかった。

「昨晩、頭領の命を狙ったのは貴様だな!!」

 何の話だ。
 そう思う明依だったが、終夜は分かっているのか表情を変えない。

 一瞬。
 本当に一瞬、終夜を疑った。またしてやられたのではないかと思って。しかし、それは違う事に気が付く。昨日の夜は、本当にずっと、一緒にいたんだから。

「俺じゃないよ。俺は吉原の外にいたんだから。知らないはずないよね」
「口実を作る為だろうが!!どんな理由があって明依を外に連れ出したかと思ったら、」
「俺にはできないよ。……証明してくれるよね?」

 すっと裂いたように、空気が変わったのを肌で感じた。
 終夜はあの薄い笑顔を張り付けて、明依を見ている。

「だって俺達、一晩中ずーっと一緒にいたもん。ね、黎明」

 ここまで直接的な言い方をされては、炎天でさえ二の句が継げないらしい。

「何も言わなくていいよ、明依」

 打ち払ったような空気の中、すっと息を吸ったのは宵だ。
 終夜はそれをいつも通り、楽しそうに見ている。
 これがいつもの見慣れた終夜。

 でもきっと、本当の終夜じゃない。
 だったら今の終夜は、何がしたいんだろう。

「本当に甘いんだね、宵。教えてあげてもいいよ。今後の為にも必要でしょ?昨日の夜の事とか、俺との()()()()()とか」

 含みを持たせる言い方をする終夜が何を口にしようとしているのか、明依にはわからなかった。

「前にさ、黎明が表座敷の客を大門まで送って行った後、清澄と一緒に飲んで満月楼に帰ってきた時の事を覚えてる?妓楼の外はちょっとした騒ぎになっていた。気付いてるよね。黎明があの時から今も、自分に何か隠してるって」
「何を隠していても構わない。お前が明依を無理やり連れて行って騒ぎを起こした。それだけで十分だよ」

 宵を騙せているとは思わなかった。勘付いていることも知っていた。でも、まさかそこまで知っているとは思わなかった。
 当事者であるというのに、明依が言葉を挟む隙は少しだってない。

「本当に?俺は問題はその先にあると思うんだけど。……じゃあ、俺と黎明が二人で身を隠していたのは一体どこでしょうか」

 宵は思わず、といった様子で息を呑んだ。

「じゃあ、ヒントね。八千代さんと黎明は、最初の花魁道中よりも前から顔見知りだった」

 宵は目を見開く。
 それを見て、終夜は笑う。

 何もかも、明依のよく知る〝終夜〟だった。

 『切り札ではもう脅せそうにないしね。……でも、最後のダメ押しくらいには使えるかな』
 夏祭りの最中、終夜がそう言っていたことを思い出した。
 淡々と事実だけを宵に伝える事が出来る。その時の事だって、昨日の事だって。
 何の問題もない。そんな事くらい、終夜ならわかっているはずだ。

 きっと全部わかっている。それなのにどうして、わざわざ終夜は今、そんな話をするのか。
 よほど宵が気に入らないのか。それなら、その理由はなんだ。

 何よりも、こう伝える事で公になりつつある宵と黎明との関係に亀裂を入れようとする人間だと公表している様なものだ。
 この行動も計算なのか。
 明依にはまた、わからなくなった。
 終夜という男の事が、何一つ。

「何も、なかったでしょ」

 誰かにとっては、言い訳に聞こえる言葉かもしれない。
 だけど、きっと終夜は気が付いた。
 どうして自分の評判をさらに下げるような事をするのかという意味が、その言葉を埋め尽くしている事に。

 終夜はきっと笑う。ほら、笑った。
 それから先の言葉は、何だろう。

「楽しかったよ、明依」

 この男は、人から勘違いされる言葉を選ぶ天才だ。
 そんな言い方をすれば、他人の女に手を出す最低な男と思われても仕方がない。自分の中の重要な部分以外は、どうでもいい。潔い男だとすら思った。

 炎天が去ろうとする終夜を追いかけようとして怒号を飛ばしている間、昨晩の出来事が頭の中を走馬灯の様に流れた。

 やっぱり、死んでほしくない。もう一度、この街から出る様に説得を。
 そう思ってほとんど無意識に一歩を踏み出した事と、宵が明依の手首を握って引き留めたのは同じタイミングだった。

「ここにいて」

 冷静な様子で、宵はそういう。
 それから、明依の手を放して歩き出した。

 我に返って、それから泣きそうになってから、喉元で息が震えた。

「耐えろよ」

 時雨は小さな声でそういう。どこか厳しい口調だ。
 時雨はいつも女に甘いばかりだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

「落ち着いてください、炎天さん」

 宵は冷静に、炎天を説得しに向かう。

 もしかするとこの思いは、たくさんの人を傷つけただけなのかもしれない。
 どちらかだけを大切にしていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって。

「終夜の思いを汲んでやりたいならな」

 守りたかった終夜に、守られた。
 これで終夜の思惑通り、みんな黎明という遊女は〝吉原の厄災〟の被害者だと思うだろう。

 終夜が自分の未来を覚悟している、何よりの証明。

 ――私だって、楽しかった。

 その言葉を伝えるには、遅すぎた。
 終夜はチャンスをくれた。吉原に入る前に。
 選ばなかったのは、他の誰でもない自分。
 
 選ぶ事すらしなかった女の何もかも自分が請け負って、吉原の外の楽しい思い出だけを胸に残してくれた。

 だから今口を開けば、誰も報われない未来が来る。

 それを知っているから、明依は唇を血がにじむほど強く噛みしめた。