「なんで俺が?」

 終夜は少しだけ考えて、それから冗談だろとでも言いたげに笑いながらそう言う。

 『俺は、この街が好きだよ』
 宵は確かに、嘘のない表情でそう言った。

 『俺は何も考えないで、楼主をしてきたわけじゃない。全部を理解できなくても、傍で見てきたからこそわかる事もある。だから、自分一人でこの街から逃げるなんて、無責任な事はしたくない』
 宵はよく、この街を見ている。

 『俺にとってはチャンスでもあるんだよ。ずっと自分の中で形にならずに散らばっていたものを、形にする』
 宵はこの街を守りたいと思っている。その気持ちは終夜と一緒のはずだ。任せていれば悪いようにはならない。
 その確信が、明依にはあった。

「終夜は吉原を国に渡すのが嫌なのかもしれないけど、宵兄さんは前、国が吉原を管理するのがいいとは思わないって言ってた。……宵兄さんを信じようよ、一緒に」
「宵に騙されていたくせに、その言葉はいい様に丸め込む嘘だとは考えない?」
「考えてない」

 明依の言葉に終夜は眉間に皺を寄せて、それから何か言いたげに口を開いて、(つぐ)んだ。代わりに吐き出すようにため息をついて、それから少し、何かを考える様に黙った。

「うん、いいよ。考えとく」
「……また、その場しのぎの嘘じゃないよね」
「言い方悪いよ。今夜の事だって自分が勝手に勘違いしただけだろ。本気で考えるよ。そういう約束なんだから。……とりあえず今は、コレ見ようよ」

 吉原のメンテナンスの休園は、もうあと数日に迫っている。悠長にいつまでも考えている訳にはいかない。
 本当に考える気なのかは知らないが、もともと終夜の中では検討する余地すらない事だ。待つ事にして、明依は花火を見上げた。

 それにきっともう、花火を見る事はない
 これがきっと、人生で最後の花火。

「そうだね」

 そう言って味のついた牛乳を飲みながら景色を目に焼き付ける。終夜がいなければこんなに胸が躍る経験はなかったかもしれない。本当はいけない事をしている。でも、終夜に手を引かれて、日常から連れ出される事もきっと、これで最後。
 そう思うと、胸が締め付けられる様な錯覚を覚えていた。

「行こっか」

 花火が終わってしばらくの沈黙の後、終夜は隣に座ったままそう言って明依の顔を見る。
 終夜が綺麗に笑うから、動揺して「うん」とそっけなく言ったことを終夜は問い詰めてはこなかった。また歩いて、またバイクに乗る。それはまるで、夢のような時間を巻き戻している気分だった。

 男の汚い部分ならたくさん知っている。突き詰めれば男はみんな、女を自分の支配下に置いて悦に浸る生き物だと思っていた。

 それなのに、言葉なんて何一つない。それ所か酷い事をたくさんされて来たのに、到底言葉には出来ない何かが心のうちに温かく溢れている。

 旭と日奈に心配をかけた。宵への感謝の念から年季が明けてもいないのに吉原の外に出ると考える事すら渋っていたから。宵が望むことだけが幸せの基準なら、今はどれだけの幸せを味わっていただろう。

 吉原の皆から祝福されて、誰もが羨む人と一緒になる。たくさんの人が自由になる所を見る事が出来る。ただ、吉原から外に出られないだけ。
 心ひとつで見る世界が変わる事なんて、身をもって知っている。
 だからきっと、自分の選ぶ未来で幸せを選べる。その自信が明依にはある。

 だけど今、この幸せな時間が終わればあの狭い世界に取り残される。なんて心のどこかで思っている。住めば都というし、飛び込んでしまえば案外大したことはないはず。そう思っても怖くて堪らなくなるのはもう、きっと被害妄想。
 神様がいるなんて思わない。でも、思い至る事からその先まで誰かに全て知っていてほしくて、許してほしいという気持ちはよく分かる。きっと神様はこんな考えの下で広まって行ったのだろうななんて考えていた。

 ぽつぽつと雨が降り始めた頃、終夜は立派な門の前でバイクを止めた。明依が地面に足をつけると、終夜は車庫にバイクを入れて門を開けた。

「ここ、誰の家?」
「俺の家」

 門構えから分かる立派な和風建築。終夜は門を開けて手入れされた庭を抜ける。少し先にある玄関から、明らかに一人では持て余す家の中に入っていく。

 俺の家はさすがに冗談だろうと思っていた明依だったが、勝手を知っていて誰もいない事から、本当に終夜の家のようだ。

「何でこんな立派な家」
「鳴海にもらったんだよ。先代がこっそり使っていた別荘なんだって。だから吉原の外にいるときはここを使ってる。だから近所の人は多分、おじいちゃんの脛をかじるろくでもない孫だと思ってるよ。……今日はここに泊まるから」
「いや、なんで?」
「考えるから。吉原はあと数日で休園になる。そうなると俺は吉原で命を狙われる。それより前に考えないといけないんだから、付き合ってよ」

 それのどこに自分が必要なのか明依には到底わからなかったが、時間がないという自覚がある事だけが救いだ。きっと宵は心配しているだろうから早く帰らないと。という気持ちもあるが、こうなると終夜は何を言っても聞かない事も知っていた。

 やっぱりちゃんと、一緒に頭を下げよう。
 倫理的にはアウトかもしれないが、別に恋愛結婚というわけでもない。本当に何もなければ後ろめたい事なんてないのだから堂々としておけばいい。

 それと同時に、ドクドクと心臓が鳴り始めた。
 この場所に二人きり。本当に、何もないよね。いや、何もないはずだ。

「隣の部屋使っていいよ。俺はここにいるから。何もないと思うけど、何かあったらここに来て」

 終夜は縁側を歩きながらそういう。その言葉には明らかに〝俺の時間を邪魔するなよ〟という圧力があった。
 よかった。やっぱり本当に何もない。

「うん、わかった。何もないとは思うけど」

 おそらく終夜の思っている事と考えている事は違うとは思いながらも、明依は念を押すようにそう言って終夜に案内された部屋に入った。

 和室には慣れているが、何となく吉原とは雰囲気が違う。この部屋は吉原の和室よりももう少し新しくて、自然な感じがした。同じ和室でも置くものや色によって雰囲気が違うんだなと感心していた。

 室内は打ち払った様に静かだ。明依はふと剥製の遊女の話を思い出した。
 きっとあの遊女も、こんな風に外の世界を見たに違いない。吉原と違う雰囲気を感じて、希望を抱いていたのかもしれない。こんなに自由な世界にいられるという、希望。

 まさか死んでもなお縛り付けられる事になるなんて知りもしないで。
 そう思うと急に怖くなった。沈黙がさらに、明依の恐怖を追い立てる。

 急にドアが音を立てて開いた。

「いやあああ!!」

 明依が近所迷惑間違いなしの音量で叫んでいる間、終夜はゴキブリか何かが出たと思ったのか、唖然とした顔で部屋を見回した。
 そして何もない事を確認した後、明依の顔を見た。

「え、なに?怖いんだけど」
「は、剥製の遊女、思い出して……」
「あー、義眼の。夜な夜な『私の目はどこ?』って、」
「やめてよ!!!」

 必死にそう叫ぶ明依を見て、終夜は楽しそうだ。腹が立つが、さすがにこの状況では何も言い返せない。それ所かずっとここに居てくれないだろうかとすら思っていた。

「風呂、入ったら?」
「うん。……わかった。ありがとう」
「気を付けて。幽霊は気配を感じたら後ろじゃなくて上にいるらしいから」
「もう!!やめてって!!」

 明依はたまらず一発殴ってやろうと終夜に手を伸ばしたが、終夜はその手をあっさりと避けた。

「風呂はあっちね」

 そう言いながら指を差す終夜に殺意すら湧きながら、明依は背後をしっかり確認して風呂場に向かった。
 背後と上をしっかり確認しながら、風呂に入って終夜が準備してくれた服に着替えた。入れ替わりで風呂に入る終夜を見送って、縁側に座って庭を見る。
 ここから月が見えたら、きっと素敵だろうと考えていた。雨が降っていなければよかったのに。でも、雨の匂いがする。それに混じる、土の香り。勢いを増す雨音が、嫌いな訳ではない。

「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」

 終夜は髪を拭きながら、そう言って明依の後ろを歩いた。
 そこで、ちょっと待てよ。と思う。今まで何度も何度も利用された事を急に思い出した。

「ねえ。まさかとは思うけど、また私の事利用しようと思ってるんじゃないの?」
「は?」

 終夜は、なんだそれ、とでも言いたげな顔をする。ぽつりとした疑念だったが、終夜の顔を見るとそれは増幅する。

「今まで何回もそうだったでしょ!私に花魁道中をさせている間も!夜の予定を開けさせて、外の会議に連れて来た事も!」
「いや、もうしないって」

 この男の〝もうしない〟なんて、遊女の〝好き〟より軽いに決まっている。鳥の羽くらい軽いに決まっているのだ。

「嘘でしょ!絶対!」
「しないって。信じてよ」
「胸に手を当てて考えてみなさいよ。信じてもらえる行動、してると思うの?」
「さあ。どうだろ。じゃあ、どうしたらいい?」
「どうしたらって、そんなの!……いや、どうしたらって、言われても……」

 めんどくさそうにしていた終夜だったが、急に速度が落ちる明依を見ると今度は終夜は楽しそうに笑った。
 これ以上戦うと負けると察した明依は、負けが確定するより前にさっさと切り上げる事にした。

「もういい。わかったから」
「俺は全然わかってないよ。ねー、教えてよ。わからないんだから。どうしたらいいの?」
「もういい。いいから。でも何かあったら、今度こそ許さないから」

 捨て台詞を吐いてさっさと自分の部屋に逃げ込もうとする明依の引き留める様に、終夜は明依の手を握った。

「もうしつこい!!」
「それじゃ困るんだよ、俺が。許してくれなきゃ困る」

 どこか真剣な口調でそういう。それから終夜は明依の腕を引いて自分の部屋の中に入った。

「ちが、違う!!なにかあったら!!今までの事はもういいから!!」

 かなり根に持っているのでもういい訳もないのだが、明依はこの状況に危機感を覚えて咄嗟にそう言った。

「でも信じて貰えてないのもやだ」

 コイツ、風呂場で酒でも飲んだのか。やたらグイグイ来る終夜は、明依を布団に押し倒した。

「ねえ、こういう事?」

 情欲を混ぜた声色に、まるで背筋を撫でられている様にゾクゾクする。

「一晩中、こうしてたらいいの?」

 多分顔は真っ赤だと思うが、顔を逸らそうとすると終夜は包むように触れている顔を引き戻して無理矢理目を合わせてくる。
 至近距離で見つめられて、相変わらず綺麗な顔で。

 頭がおかしくなりそうだった。

「もう、無理ぃ!!ごめん、ごめん!!ごめんなさい!!」
「はい、捕まえたー」

 終夜はそう言うと、明依の手首に手錠をかけた。
 それをじっと見つめて、とりあえず胸のドキドキを消化する。身を起こす終夜に釣られて、明依も身体を起こした。そしてニコニコ笑う終夜と手錠を見て何となく思った。

 ああ、多分またしてやられたんだろうな。

「……いや。で、何?やっぱり私、監禁されるの?」
「そうじゃなくてこうしようと思って」

 終夜はそう言うと、片方の手錠を自分の手首にかけた。

「え……な、なに?えっ?……え、SMプレイ?」

 そういう趣味があるのか。でもそれは個人の好みだから仕方がない。受け入れてこそ遊女と言える。と思ったあたりで、いやいや、客でもないんだから受け入れる義理はないだろ。と思って正気に戻った。

「やってみる?俺そういうの全然いけるよ」
「いや、いいです。……で、これなに?」
「これで俺達、一晩中一緒だね」
「……だから?」
「疑うから。これで俺の無実が証明される」
「されるわけないでしょ?私が寝ている間に手錠を外して、起きる前に戻ってくるんでしょ?」

 お見通しだぞ、バカにするなよ。という態度でそういう明依。しかしそれに終夜は、明らかにむっとした顔をした。
 こんな顔もするんだ。と思って胸が鳴ったのも束の間、終夜は手錠の鍵を開いている襖から庭に向かって投げ捨てた。

「ああ!!バカじゃないの!?雨降ってるんだけど!」

 明依はそう言って廊下の方へと歩こうとしたが、終夜は手錠を引っ張ってそれを引き止めた。

「だから、探すのは明日の朝だよ」
「……そこまでするの?」
「するよ。だって信じてないし。ムカつくから」

 お話にならなさ過ぎて、明依はため息を吐く。この男の破天荒は今に始まった事じゃない。いちいち気にしていたら身が持たない。

「もういい。おやすみ」

 ほとほと疲れ果てた後、終夜と手錠で繋がっている事なんてどうでもよくなってその場に寝転がった。

 寝心地は悪くない。今日は知らない事ばかりで疲れたし、ぐっすり眠ろう。

「襖閉めたいから起きて」
「もっと早く言ってよ!!」

 明依は起き上がって終夜に向かって叫んだが、終夜は立ち上がって手錠でつながった明依の手を引っ張っている。