「出るよ」

 ネオン街の端、薄暗い有料駐車場に車を止めた終夜は、あっさりとそう言って運転席から外へ出た。
 四苦八苦しながらなんとか助手席に移動して座っていた明依も、慌てて外へ出て終夜の後ろに続く。水を吸った着物は酷く重い。それは、初めて終夜に会った日に感じていた不快感に似ている。
 人と人とがやっとすれ違えるくらいの裏路地。ビルの隙間にあるその道は、吉原の裏道よりもずっと冷たい。

 少し先には、今にもおっぱじまりそうな雰囲気で見つめ合っているカップルがいる。熱く絡まり合っているカップルに空気も読まず、ちょっとどいて、とでも言うつもりなのか、終夜はためらうことなく足を進めている。

「うっそ、花魁じゃん!うける」
「は?え、マジじゃん。やべー」

 女が先に声を上げ、それから男がこちらを向いてポケットを探った。
 あの熱い雰囲気はどこに行ったんだと思うくらいの切り替えを見せるカップルに呆れながらも、まあそうなるよな、と思いながらこれからどうするのが正解なのだろうと終夜を見た。

「写真撮っていいすか?」
「ゴメン、お兄さん。ちょっと寝てて」

 終夜は突然、男の腕を掴んで壁に押し付けた。それから男の首を抑えると、鈍い声を漏らして手からスマホを落とし、そのまま終夜に寄り掛かった。

「ひ、人殺し!!」

 終夜の勘に触ったのか、それとも計画通りなのか。予想外の動きをする終夜に唖然としている明依の意識を正常に戻したのは、女の叫び声だった。

「殺してない殺してない。寝てるだけだよ。この人、お姉さんの彼氏?」
「そうだけど……」

 男を壁に寄り掛からせながらそういう終夜に、女はおびえた声で返事をする。

「じゃ、このお兄さん人質」

 終夜は軽い口調でそう言うと拳銃を取り出して、眠っている男の頭に突き付けた。場違いな笑顔を浮かべたまま。女は顔を真っ青にして、泣きそうな顔をしている。
 明依は思わず息を呑んで、静かに状況を見守った。

「お願い、殺さないで」
「うん、いいよ。俺のお願い、聞いてくれるなら。今から女物の服買ってきて。上から下まで全部ね。マネキン一式とかでいいから」

 終夜はそう言いながら封筒を取り出すと、今にも泣きだしそうな女に向かって弧を描く様に投げた。女はやっとのことでそれを受け取る。

「……殺さないでよ」
「うん。殺さない」

 そういう終夜を女は軽く睨むと、走ってこの場を離れた。

 その一連の出来事を見て、やっぱりこの男は頭のネジが外れていると思った。普通、一般人を拳銃で脅すか。お使いに行かされた女性に心底同情した。
 ただ冷静に考えてみれば、どんな未来を辿っても終夜は男も女も殺す気どころか、ケガ一つさせる気はない。かつては得体のしれない鬼の様に思っていたのに、今となっては終夜という人間が掴めてきている事が何となく嬉しくもあった。

「あんな言い方しかなかったの?」
「びしょ濡れのスーツ着た男とガチ装備の花魁なんて不審者なんだから、もういっそ振り切った方がうまくいくよ」
「警察に通報されたりとか」
「それはない。だってあのお姉さん、多分根っこがいい人だから。彼氏見捨てたりしないよ」

 そういうものなのか。とよくわからないままの明依の隣で、終夜はなぜかスーツを脱ぎ捨ててネクタイを緩めて放り投げ、シャツのボタンを外していた。

「何してるの!?」

 明依は思わず終夜に背を向けた。

「だってびしょびしょだもん。着替えないと」
「……着替えは?」
「このお兄さんの服貰う」

 やっぱり頭のネジが外れてるな。と思いながら、着物とはまた違った衣擦れの音を聞き、派手なネオンを眺めた。

「私、帰りたいんだけど」
「あれ、話は?もういいの?」
「……じゃあ、話すけど、」
「今?後にしてよ。俺、着替えてるし」

 その〝後〟は一体いつやってくるんだよ。という苛立ちを明依はそっと押し込めた。そして溜息をつく。
 大体、帰る場所も動きやすい服もないのだから、この男のいう事を聞いておくしかない。

「ここは現代の吉原みたいな所。でも、吉原よりも治安は悪い。酔っぱらいが喧嘩したり、店と客が揉めたり」

 いつの間にか着替えた終夜は、明依のすぐ後ろに立ってそう言った。振り返って顔を見ても、終夜は狭い裏路地の隙間の向こうにあるネオン街を眺めているだけだった。

「吉原に戻ればもう、外の世界を見る事はないよ」

 その言葉で、改めて考える。
 日奈と旭と、いつか外の世界に行こうと言った。旭はそれを叶えるより前に死んで、旭の分まで明依を連れていろんなところに行くと言っていた日奈も同じように死んでしまった。
 日奈と旭は、自分にどうしてほしいのか。もし一度だけ話をすることが許されるとして、吉原から出る事を二人は望んでいるのか、それとも願った吉原解放を叶えることを望んでいるのか。それを聞いてみたい気持ちになる。
 そしてそれが叶うなら、終夜へ抱いている気持ちも全部、日奈に打ち明けてしまえたら。日奈は、なんて言うだろう。その答えはきっと、一生涯わかることはない。

「だからその前に、外の世界を見せてあげる」

 『アイツは賭けたんだ。そしてアンタがその賭けに勝った。だからここへ連れてきた。そして本心を言えば、今もまだアンタを吉原に縛り付けようとしている自分との折り合いはつけられてない。って、俺は考えてる』
 先ほどの鳴海の言葉を思い出し、明依は俯いた。

 そうか。終夜はきっと、すぐに吉原に帰す気でいる。そうじゃなければ、吉原解放に協力してくれた高尾や鳴海達に合わせる顔がないだろう。これはきっと、双方同意での事。

 しかし、吉原休園前にこんな事をすれば、自分の評判が悪くなるのは終夜なら分かり切った事だろう。それなのに無理矢理連れ去る様な形で外の世界に連れてきた。もう取り繕っても無駄だと諦めているのか、それとも決死の思いか。どちらにしても、その終夜の気持ちに少しの時間だけ甘えようと思った。

 そして吉原に戻って、宵や炎天たちの前で一緒に頭を下げよう。

「どこに連れて行ってくれるの?」
「どこに連れて行ってほしい?」
「そう言われても……外の事、わからないし」
「買ってきたよ」

 女は荒い息を整えながら終夜に向かって大きな紙袋を差し出した。終夜はそれを無言で受け取る。
 いや、受け取るならお礼くらい言えよ。と思う明依を他所に、終夜は女の小さなバックの中からスマートフォンを取り出す。そこに表示されているのは録音画面だった。終夜は怖いくらい冷静に録音を止めて、そして当然の様な顔をしてバックの中にスマートフォンを戻した。

「服、ありがとう。助かったよ」

 そして何事もなかったかのようにニコリと笑う。
 味方、という表現が正しいのかはわからないが、仲間であるはずの明依でさえ、勘の鋭さと遠慮のなさが恐ろしかった。

「スマホは現代人には必須アイテムだよね。壊すのは可哀想だから、こっちを貰っていくね」

 終夜はそう言うと、相変わらず笑顔を張り付けて何かを女の前に差し出した。いつ取り出したのか、終夜の手にあったのは、男と女の免許証だった。

「世の中にはね、知らない方が幸せなこともあるんだよ。今夜の事は忘れて。幸せに生きていきたいなら」

 女は真っ青な顔をして、その場にへたり込んだ。

「協力ありがとうね、お姉さん。彼氏サンの服も必要だと思うし、おつりは取っといて」

 本当にとんだ災難だなと心底同情しながら、自分が脱ぎ捨てた服一式を掴んで先を歩く終夜に続いた。少し歩くと、終夜は二人分の免許証を年季の入ったゴミ箱に捨てた。

「捨てるの?」
「うん、いらないから。あれだけ脅されれば、まともな人間なら誰にも相談できないよ。それに、現代人にはあれくらいやらないと効かない。だから吉原みたいにみーんな夢の中にいる様な世界は、俺たちにとっては本当にやりやすい」
「……なんか私、良心が痛むんだけど」
「なんで?もし優しくして後から警察に通報されたり、SNSで情報をばらまかれたりしたら、殺さないといけなくなるよ。俺のやり方の方が優しくない?」

 優しくないよ。優しいの認識間違ってるよ。と教えてあげたい気持ちになったが、伝わることのない思いをため息に乗せて吐き出した。

 裏道をしばらく歩くと、スーツを着たガタイのいい強面の一人の男がぽつりと立っていた。明依は少し警戒したが、やはり終夜は何も気にせずに先に歩いて行く。

「久しぶりだな、終夜」
「うん、久しぶり。ここは鳴海がオーナーの店だよ。とりあえず中で着替えさせてもらおう」
「どうぞ」

 強面の男に「お邪魔します」と返事をして、案内してもらった椅子やテーブルが乱雑に並べられている物置の様な部屋で服を着替えた。

「着替えたー?」

 外からそう言われて「着替えたよ」と返事をすると、終夜に部屋の中に入ってきた。

「さっきのお姉さん、センス悪くなくてよかったね」

 終夜がお使いを頼んだ女性が選んでくれたのは、シンプルなワンピースだった。ちゃんと下着までつけてくれた事は意外だったが、とりあえずあの女性のおかげで自由に動く権利は手に入れた。

「あとこれも」
「なに、これ」
「パンツ見えない様に穿()くやつ」

 終夜に手渡された黒いパンツのようなものに、めちゃくちゃ不信感を抱きながらも終夜が後ろを向いている隙に足を通した。
 外へ出ると強面の男がヘルメットと鍵を持って立っていた。

「お前だけだと思ってメット、一つしか準備してないけど」
「いいよ。一つで」
「そのワンピースで乗せるのか?」
「うん、そんな距離ないし」

 終夜はヘルメットを一つ受け取ると、乱暴に明依の頭に被せた。それから鍵を受け取ってひらひらと手を振った。

「じゃあ、ありがとう」
「気をつけろよ」

 強面の男は終夜に向かってそういう。この人も鳴海の部下なのかと思って少しの間見ていると、男は明依を見た。
 身構える明依に男は呆れたように笑ってそれから終夜の背中をツンツンと指さした。そしてゆっくりと、頭を下げる。

 それは明らかに終夜を頼む、という態度だ。
 鳴海があれだけ終夜の事を気にかけているのだから、その周りの人たちも終夜を気にかけていても、何もおかしくない。
 明依はこくりと頷いて、それから深々と頭を下げて終夜の後に続いた。

 終夜に敵は多いが、意外と味方もいるんだなと思うとなんだか嬉しくなる。これからの終夜の事を考えると、喜んでいる暇なんてないのだが。

 身体が軽い。初めて着物を身に着けた時には不自由さを感じたが、洋服がまさかこれ程まで動きやすかったとは。

 歩いている途中で終夜にヘルメットをつけてもらい、先ほどの裏から店を出る。終夜はいつの間にか準備されているバイクにまたがった。

「さっきみたいに放したら即死だよ」

 終夜に手を引かれるまま、腰辺りに腕を絡めた。

「よし。じゃあ出発」
「どこ行くの?」
「うーん。デートっぽい所」

 そういう終夜にトクンと心臓の音が鳴った。
 デートって、付き合っている男女がするものなんじゃないの。そんなことを思っている明依をよそに、バイクの音が狭い空間に反響する。後ろに身体が傾きそうになって、思わず終夜の腰にしがみついた。

 狭い道を、終夜はそこそこのスピードでバイクを走らせた。
 スピードが上がるごとに終夜との距離は近くなる。しかし今の明依には、それにドキドキしている暇は一瞬だってなかった。

「ねえ!!」
「なにー?」
「パンツ!!見えるんだけど!!」

 必死に翻るスカートを抑えながら、明依は風に負けずに叫んだ。

「ああ。大丈夫ー。パンツの上に穿いたじゃん。それに、誰も見ないから」
「一回止まってよ!!」
「そんな暇ないよ。時間、押してるんだから」
「何の時間!?」

 『アイツ、やっぱ男としては底辺だな』
 そう言った鳴海の言葉を思い出すが、底辺なんて言葉じゃ片付けられない。  

 ドキドキどころかヒヤヒヤしながら、明依は必死にスカートを抑えつけた。