自分は水上バイクのハンドルの中央付近に頭を置いて背を向けて横になっている。
 覆いかぶさる形で終夜がそれを運転している。
 だから海に落ちなかった。

 そう認識した頃にはもう、水上バイクは屋形船から離れようとしていた。

「終夜、貴様ァ!!」

 炎天は怒号を飛ばしながら、船縁へと足をかけた。

「おい!落ち着けって!!!落ちるぞ!」

 時雨は後ろから炎天を羽交い絞めにして必死の様子でなだめている。

「離せ時雨!!泳いでいく!!」
「追いつけるわけねーだろ、バカか!!とりあえず、連絡入れるのが先だろ!!」

 そんな状況を隣で見ている鳴海は相変わらずへらへらと明依に向かって手を振っている。鳴海の部下と思われる男はこちらに向かって浅く頭を下げた。
 竹下、赤城、天辻は鳴海の仕業だと察したのか、屋形船の中に入っていった。

「まーまー。落ち着いてください。ウチの組のモンも出しますから。それまでウチの店で待ちましょうや。ね、時雨サン」

 時雨はめんどくさくなったのか、それとも洋服の女を思い出したのか。炎天から手を離した。炎天が何かを叫びながら、夜の海に落ちた。

「さて、明依。旧家の豪邸・のびのびコースか、都会の最上階・夜景独り占めコース。選んでいいよ。どっちがいい?」

 終夜が放った言葉を、しばらく脳内でロードした。

「嘘でしょ……?」

 明依はすぐそばにある終夜の顔を見たが、彼はいつも通り笑っているだけだった。

「離して!!帰る!!」
「ダメだよ。今夜は帰さないから」
「なんか使い方違う!!!」

 顔だけでゴリ押ししていけると思ったのか、セリフじみた言葉を吐く終夜に殺意すら湧いてくる。何が今夜だ。そんな所に監禁されてマイクロチップなんて埋められたら、今夜どころか一生涯出られないに決まっている。

「船に戻って!!」
「危ないって」

 身体を起こそうとする明依を、終夜は身体を寄せて抑えつける。

「その着物で海なんか落ちたら、浮かんでこられないよ。黙って捕まってて」

 確かにそれもそうだ。話を聞いてくれるかは知らないが、陸に上がる前に死んだら元も子もない。
 そんな風に自分を納得させて、離れて行く屋形船を横目に、もし本当に二度と吉原に戻れなかったらという絶望感や不安に唇を噛みしめる。

 力も知恵もなければこんな時、他人の顔色を伺うしかない。この状況で、それが酷く悔しかった。
 明依は終夜の腰に手を回してしがみ付こうとした。

屈辱(くつじょく)感、味わいながら」
「もう、本っ当に……!人間の底辺!!!クソ男!!」

 ぶん殴ってやりたい気持ちだが、もし本当に海に落ちた場合、助かる未来が見えなかったので、終夜の言う通り屈辱感を味わいながら終夜にしがみついた。

 この男はなんでこんなに性格が悪いんだ。そしてなんでそんなに生き生きとしているんだ。

「着いてきてよかった。まさかこんなチャンスに恵まれるなんて」

 唐突に聞こえた終夜ではない声に、明依は少し顔を横にずらした。そこには、晴朗が立っている。
 信じられない気持ちでもう遠くになった屋形船を見たが、豆粒くらいになった人の中に晴朗はいない。

「晴朗さん!!よかった。お願い、助けてください!!」
「あなたの助けになるかは知りませんが、僕が終夜を殺した後は好きにしてください」
「ダメ!!終夜は殺さないで!でも助けてほしいの!!何でもしますから!!」
「女が男に懇願した後の『何でもします』は、アレ以外ないと思うけど蕎麦屋の二階の時みたいに『知らなかった』『やっぱりやめる』って被害者ぶったりしないよね?」

 晴朗への必死の懇願の最中、終夜はそういう。

「蕎麦屋の二階まで来て『知らなかった』『やっぱりやめる』は詐欺ですね。間違いなく」
「だよね。じゃあ俺、被害者だ」

 明依が頭をフル回転させている間、晴朗と終夜は珍しく仲良く会話していた。

 確かにそうだ。こんな言い方をして何も知りませんでした。はさすがにありえない。なんてったって遊女なんだから。そういう言葉を使って男を落とすのが遊女の仕事だ。

 しかし、この際仕方ないのかもしれない。
 もしこのまま陸に上がり、無理矢理連れていかれる事になれば自分に勝ち目はない。

「本当に何でも――」

 覚悟を決めてそう言いかけたが、明依の頭の中にはふと夕霧が浮かんだ。
 晴朗と夕霧の関係が何なのかは知らないが、身体の関係があるとして。あの造形美の様な身体に触れているという事だ。

 ああ、無理だ。終わった。
 あの身体には、今持ちうる全てをつぎ込んでも一瞬だって対抗できない。

「同情するよ」
「アンタは黙ってて!!」

 本当に哀れみを含んだ声でそういう終夜に、明依は思わず大きな声でそう言った。

「申し訳ないんですが、スペースが必要なので降りてください」

 そういう晴朗の言葉を聞いて、終夜は左手で自分の胸へ押し付ける様に明依の頭を移動させた。
 先ほどまで明依がいた所には晴朗の刀が深々と刺さっている。明依は「ひっ」と息を呑んで終夜の服を強く掴んだ。

「私はもういいんじゃなかったの!?」
「優しさですよ。溺れて苦しんで死ぬより、マシじゃないですか?」

 全然話が通じない。逆に晴朗がいるおかげで話がややこしくなっている。

「でも俺、今全然そんな気ないよ」
「じゃあ、どうやったらその気になれそうですか?」
「どうせ吉原が休園になれば、嫌われ者の俺は本気で戦うしかないんだよ?それなのにこんなところで怪我して本気が出せなかったら、アンタも楽しくないんじゃない?」
「なるほど。一理ありますね」

 晴朗はなぜか終夜の言葉に納得しようとしていた。こうなったらもうさっさと引き離してくれ。そんなことを思っていると、港の明かりが段々と近づいてくる。

「って事で、またね。晴朗」

 終夜はそう言うと、拳銃を取り出して港の方へ向かって撃った。
 それからすぐ、終夜と身体がぐっと密着して、明依が苦しさを感じるよりも前に、水上バイクは起き上がる様に縦になる。港の方で、鈍くも高くも聞こえる音が何度か鳴った。

 重力が背中から足の方へと移動する。
 海に放り出される。明依はその恐怖で終夜の服に強くしがみついた。しかしすぐに躊躇する。
 このまま一緒に海に落ちれば、終夜も溺れ死んでしまう。そう思った瞬間、明依はほとんど無意識に終夜の背中に回している腕の力を緩めた。人間は土壇場で本性が出ると言うが、自分はやっぱり根本的に他人本位なんだな。なんて心の内側で感じていた。

「ちゃんと掴んでろ!!」

 ぼんやりと思考を止めていた明依の意識を叩き起こす様に、終夜は珍しく声を荒げる。終夜が抱きしめる様に左手でしっかり支えてくれていると気付いたのは、終夜の声で思わず彼に強くしがみついた後だった。

 バランスを崩した晴朗が海に放り出される。前に手を伸ばしたが、何を思ったのか港の方を見て水上バイクを蹴った。水上バイクはその反動で水面に戻り、先ほど晴朗がいた場所には終夜が撃ってどこかに反射して戻ってきたであろう弾が一瞬のうちに通り過ぎて行った。
 飛沫をあげて夜の海に落ちた晴朗を見て、終夜は安堵したのか息をついた。

「頼る人間は選んだ方がいいよ、世間知らず。世の中には話の通じない人間がいる」

 こんな顔もするのか。そう思ったのは一瞬で、終夜はまたいつも通り飄々とした態度で口を開いた。

「自分の事、言ってるの?」
「俺は超まともだよ」

 先ほど声を荒げた事も、息をついた事さえまるでなかったように、終夜はいつも通り。軽薄な様子でそういう。
 明依は鳴海の話した終夜の過去は作り話ではないのかと心のどこかで思っていた。いつもの終夜は、とても壮絶な過去を経験した人間には思えなくて。

 『俺にはアイツが、何か大きなものを背負っていて、それを何食わぬ顔で隠しているように見える』

 その鳴海の言葉は、ありえない事ではないかもしれない。終夜という人間は気に入らないという理由だけで判断するような薄い人間だったかと疑問に思っているからこその疑問。

 それなら終夜は、何を隠しているんだろう。
 明依は答えの出ないと分かっていることを考えていた。

 もし鳴海のいう過去も、予想も、全てが本当なら。心が先に壊れてしまうはずだ。誰一人味方のいない状態で何かを抱えているなんて、正気とは思えない。こんなに飄々とした態度で笑っていられるはずがない。
 自分の常識で測るとそうなのに、なぜか明依には終夜という男がそれを平気な顔をしてやってのける様な気がしていた。

「落とさないでね。死にたくないから」

 こんなに近くにいるのに、誰よりも遠い。
 だから明依はこの距離を、この状況をいい事に、終夜の背中に回した腕に力を込めた。

「さすがに、こんな所で死んでもらっちゃ困るね」

 終夜はまるで子どもにするようにポンポンと二度、明依の頭を撫でた。
 生意気なヤツ。そんなことを思った。だけど、終夜が死んでしまったらこんな戯れさえできない。

 一緒になる男がいるというのに、一体何を考えているんだろう。もういっそ、おかしくなってしまえたら。

「ちょっと揺れるよ。降りるから」

 それがどういう意味なのか理解するより前に、水上バイクが陸に乗り上げて大きく跳ねた。
 眼下にはスマホを持って通話している監視役の男とほかの二人が唖然とした様子で飛び上がった水上バイクを見上げている。

 ああ、終わった。
 つい先ほど、こんな所で死んでもらっちゃ困ると言われたばかりな気がするが。

「いやあああ!!」

 上品さなんて放り投げて恐怖に身を任せて明依は叫んだ。

 明依が目を閉じている間に、終夜は明依を肩に担ぐように抱えた。
 水がかかって怯んでいる三人の男の内一人の胸ポケットから鍵を奪い去って車に乗り込む。

「助手席の窓、開けて。早く」
「ちょ、ちょっと待って……!腰抜けた……どれ?」

 終夜はエンジンをかけ、運転席の窓を開ける。まだ窓が開いている途中、隙間から終夜が出した手には拳銃が握られていた。

 終夜の膝の上に乗っている明依は、満身創痍の状態で軽くパニックになりながら助手席の窓を開けた。
 終夜は車を猛スピードでバックさせながら、弾を打った。それによって、監視役の男の手からスマホが弾き飛ばされた。

 次に助手席側に手を伸ばす。明依が思わず頭を抱えて身をすくめると、終夜は二度、弾を打った。それは的確にもう一台の車のタイヤに当たる。

 急発進、急カーブの後、終夜はすべての窓を閉め切った。
 静かになった車内で明依は息を整えた。
 それからふと思う。当たり前に終夜の逃走を手伝ったが、吉原の街に帰らなければいけないのに何をしているんだ。

「ちょっと!また騙したの!?」
「別に騙してないよ。俺は窓開けてって頼んだだけ。ありがとね。おかげで助かった」

 思いっきり殴ってやりたい気持ちになったが、今この男が運転を誤れば間違いなく死んでしまう。

「重い。隣行って」
「……本当に失礼なヤツ」

 そうは言ってみたが、確かに重い。
 ただでさえ重い着物が水を吸っているんだ。重くないはずがない。運転席は二人分の衣服が吸った海水でびしょびしょだ。
 明依はすぐにでも終夜の膝の上から移動しようとしたが、余りにも着物が重くまた足を開くことが出来ずに苦戦していた。

「危ないって。前見えない」
「動きにくいんだから、仕方ないでしょ」
「もういいよ、そこで。重いけど」
「私が嫌なの!!……ちょっと!タバコ吸わないでよ!!」

 終夜は胸ポケットから先ほど明依がぐしゃぐしゃにしたタバコを一本取り出して火をつけた。

「あーあ。やっと静かになった。とりあえず、少しドライブね」

 終夜は運転席側の窓を少し開けた。

 こんなびしょびしょの状態でドライブ?正気か?

 そんな疑問にはきっと、この男は答えない。