何も答えない明依を見て、鳴海は少し笑顔を浮かべてから口を開いた。

「終夜の両親はさ、自分の学歴にコンプレックスがあったらしくて随分教育熱心だったらしい。アイツは小さい頃から、大人になったら親孝行する様にって言われて育った。親孝行って言うのは勿論、金銭面を含めて全面的に面倒を見るって事な。昔から賢かったアイツはガキでもそれに何となく気付いてた。来る日も来る日も勉強ばっかさせられて、友達と遊んだ記憶なんてほとんどない。……である日、学校から帰って家の玄関を開けると両親が血だらけで倒れてた。二人ともピクリとも動かないし、あまりに悲惨な現場で、確認しなくても死んでいるんだと分かるくらいだったらしい。その側には、包丁を持った男が立っていた。それを見たガキの頃の終夜は、何を思ったかわかる?俺には、想像もつかなかったんだけど」

 鳴海にそう問いかけられ、明依は今までの終夜という人間をなぞった。自分の知っている終夜と、子どもの頃の終夜。何か絡められる情報はないのかと。しかし結局、大した答えは浮かばなかった。

「これでやっと自由になれる、ってそう思ったらしい」

 明依はその状況と自分を重ねていた。
 もし、あの時野分に出会わなければ。宵が何もしてくれていなかったら。自分があの時親戚夫婦を殺していたとしたら、全く同じことを思ったかもしれないと、本能でそう感じたから。

 それを終夜は、ずっと幼い時に感じた。きっと、地獄のような日々だったに違いない。もしも終夜がそう思っているなら、旭と日奈と過ごした日々は、かけがえのない暖かい思い出なのではないか。でもその考えが正しいのか測る術を、明依は持っていなかった。

「それから両親を殺した男と目が合って、思った。こんなところで死んだら、自分の人生が台無しになる。せっかくこれから幸せになれるのに、ってな。男は子どもだと思って油断して、大して警戒もせずに近付いてきた。終夜はその男から包丁を奪って、何度も何度も男を刺した。だけどその時の感情も、肉を抉る感覚も何一つ覚えちゃいないらしい。はっと我に返ったら自分も血だらけで、目の前にはかろうじて人の原型をとどめている男が倒れていた。これでやっと自由になれる。そう実感したら、嬉しくて楽しくて堪らなくなった。その時、アイツは生まれて初めて心の底から笑ったんだ」

 ふいに頭をかすめた記憶を、必死で手繰り寄せる。

 終夜が宵を連れ去った時の事だ。叢雲はあの時、『あの男が初めて人を殺したのはまだずっと幼い頃だ。かろうじて人間の面影を残す屍を見下ろして、楽しそうに笑っていたそうだ』と言った。

 不気味な印象ばかりが先走っていた。しかしこうやって背景を知れば、同情という余地があることに気が付いて。終夜が残酷なばかりの人間ではないのだと、思い知っている。

「終夜が殺した男は吉原でやらかして逃亡しててな。命を狙われていた。とうとう逃げ場が無くなって、昔馴染みだった終夜の両親に泣きついたらしいんだが。断られて、逆上して殺したって話だ。情報を掴んだ吉原の人間が駆け付けた時には、血まみれで死んでる三人と、楽しそうに笑っている終夜が立っていた。そして終夜は、吉原に引き取られた。……って話を前に、酒をしこたま飲ませてゲロらせた。本人が覚えてるかは知らねーけどな」
「……他人の過去をペラペラしゃべるなんざ無粋だぜ」

 今まで黙って聞いていた時雨は、大した感情を乗せずに鳴海に向かって言い放った。

「気になって黙って聞いてたヤツが言いやがる。他人の過去暴露して楽しもうって腹じゃない。今まで黙ってたんなら、最後まで聞いてくれ」

 その言葉に、時雨はやはり何を考えているのかわからない様子で黙った。

「俺の知っている限り、初めて人間を殺して冷静を保っていたヤツはいない。でもアイツは平気な顔をしてる。アンタらも終夜が取り乱してる所なんて見た事ないはずだ。自分の身の回りで何が起こっても、いつも平気な顔をしてる」

 あの時終夜は希望について、『初めて人を殺した時に見つけて、どっかで失くした』と言った。
 おそらく男を殺した時、終夜は本当の希望を見た。
 そしてそれをなくした。一体、どういう意味なんだろう。
 考えれば考える程、終夜の事が分からなくなる。

「この中ではおそらく俺が一番アイツとは付き合いが長いが、俺にも、アイツが何を考えているのかほとんどわからない。……俺にはアイツが、何か大きなものを背負っていて、それを何食わぬ顔で隠しているように見える。勿論、聞いて答えるようなヤツじゃないし、探りを入れられる様なヤツでもない。記憶がぶっ飛ぶくらい酒を飲んでも、アイツはそれ以上の事を絶対に喋らなかった」
「終夜からそれ聞いて、何がしてーの?」
「……助けてやりたいんだよ」

 鳴海は少し声を震わせてそう言った。

「俺は、死ぬつもりでいるアイツを助けてやりたい」

 はっきりとそういう鳴海の声は大きな音ではないのに、悲痛な響きを持っていた。

 終夜は死ぬかもしれない。
 それを明確に認識させられている。それは明依を、無意味に焦らせた。

「俺らの世界じゃ縁を切るってのは簡単な話じゃなくてね。それも終夜みたいな嫌われ者は特に。その気なら、吉原と終夜の間には俺が入るって、何度も言った。けどアイツは、聞く耳を持ちゃしない。……吉原に残れば終夜は死ぬ。それは本人もわかってる。わかってて、戻ろうとする。俺には、何がアイツにそうさせるのか、わからないんだ」

 終夜は国が気に入らない。だから、宵が気に入らない。
 鳴海の話を聞いた今の明依は疑問に思っていた。
 自分の知っている終夜という男は、感情論で〝気に入らない〟という判断を下して、何もかもを否定する様な薄い人間だろうか。

「だから『死ぬ気満々の中途半端な覚悟のヤツの為に、吉原解放のリスクなんて負えない』って言った。俺はアイツが吉原に残ることを諦めると思ったんだ。それなのにアイツは、『だったら吉原で生きる覚悟をした信頼できる人間を連れてくる』って言うんだよ。自分に変わって吉原を任せられる人間を連れてくるって。あの世渡り下手に信頼できる人間なんかいるはずがない、どうせはったりだと思って『じゃあやってみろよ』って挑発したんだ。絶対に無理だって高を括ってた。……そしたらさァ、黎明大夫。終夜はここに、アンタを連れてきた」

 心臓が打ち付ける様に鳴っている。一度にたくさんの事を考える頭は、まだ感情というものが伴ってはいなかった。

「こっから先は俺の考えだから、テキトーに聞き流してくれて構わないけどな。……おそらく、アイツは賭けたんだ。そしてアンタがその賭けに勝った。だからここへ連れてきた。そして本心を言えば、今もまだアンタを吉原に縛り付けようとしている自分との折り合いはつけられてない。って、俺は考えてる。難儀なヤツだろ?」

 『それじゃあ、賭けようか。明依』
 『俺とアンタの人生を賭けた大博打といこう』

 終夜はあの時、確かにそう言って花魁道中をさせた。
 そして何の賭けにもならないというと、終夜はこう言った。

 『だって俺はもう、この選択に人生も命も賭けてるんだから』

 あんなに前から終夜は、自分の行末を考えていて。それを絡めて黎明という遊女を見ていた。それがどこまでも終夜という人間の用意周到さを思い知らされて、それでいてどこまでも悲しい気持ちになる。

「ああ見えてアイツはきっと、誰よりアンタを信用してるんだぜ。……それから、アンタの信用してる時雨サンもな。そうじゃなきゃ集団行動大嫌いなアイツが、大嫌いな人間に監視される事を我慢してまで、アンタらをここに連れてきたりしない」

 時雨はため息ついて、頭を抱えた。
 明依はゆっくり息を吐きながら俯く。宵も終夜も、一歩だって身を引かない。

「その後の事は何でもする。一生面倒を見たっていいとさえ思ってる。……だから、一度だけでいい。アンタから終夜に話をしてみてくれないか。頼む、黎明大夫」

 『〝悩んでいる〟状態って言うのはね。思考してないって事だ』
 『悩むんじゃなくて、考えな』

 そういう勝山の言葉を思い出す。
 やっぱり終夜と話をしなければ、何一つ先に進まない。

「はい。私も、そのつもりですから」

 明依がそう言うと、鳴海は安心したのか息を吐きながら笑った。でもなんだか少し、悲しそうでもある。おそらく藁にも縋る思い、というヤツだろう。可能性がほんの少しでもあるのなら。きっと、そんな気持ちに違いない。

「なんだ。やっぱり終夜くんと結構近い関係なんだ」
「違います」

 赤城の言葉を、明依ははっきりそう否定する。

 でも、終夜に信用されている。という事実は、他人から聞いた言葉でも堪らなく嬉しくて。こんな状況にも関わらず、明依は思わず笑顔がこぼれた。

 鳴海は切り替える様にゆっくりと息を吐くと、先ほどの辛気臭い雰囲気を全て吹き飛ばして意地悪な笑顔を作った。

「こっちにこいよ。面白いもんがみられるぜ」

 そう言いながら立ち上がり、終夜が去っていった方向に歩く鳴海に、明依も続いた。鳴海は明依が側にいる事を確認すると少し障子窓を開けた。

 明依は思わず息を呑んだ。
 初めて吉原を見た時のような、心を掴まれる感覚だった。

 終夜はどこかぼんやりとしながら、船縁に座って紫煙を(くゆ)らせている。すぐ側にぶら下がっている提灯の暖色に包まれて、風に柔らかそうな髪が揺れている。

 人々が吉原に魅了される感覚を、確かに思い出していた。
 吉原に来た日もこうやって、暖色に包まれた光景を綺麗だと思ったから。

「タバコが体に悪いって、常識だろ?」

 少し声を潜めてそういう鳴海の声に、明依は我に返った。

「アイツはさ、そんなアバウトなことじゃなくて、身体のどんな部分に何がどんな風に作用して身体に悪いのか、ちゃんと調べたらしい。脳に作用して感覚が鈍る事も、体力に影響してそれが仕事柄命にかかわることもわかってる。なのに、どーしてもそれに頼ってふっと息を抜きたい時があるんだと。……俺はアイツのたまに見せる、そういう人間臭い所が好きなんだよな。なんだ、終夜もやっぱ普通の人間なんだなって思えてさ」

 明依はちらりと鳴海の顔を盗み見た。その顔は、なんだか兄が手のかかる弟を見守っているような。本当に大切に思っている事が伝わる様な顔だった。

「明依」

 ふいにそう呼ばれて、ほとんど無意識に声の方へ顔を向けると、ベシッ!と音がして、何かが額に当たった。

「おい、大丈夫か」
「見世物じゃないんだけど」

 明依にそう問いかける鳴海に、大した感情も含めずにそういう終夜。
 ポトリと額からはがれる様に落ちたのは、タバコの箱だった。
 ふつふつと心の内側から、今までの怒りが湧いて出てくる。

「ちょっとアンタ!!いつもいつもいっつも!!遊女の身体を何だと思ってんの!!本当にムカつく!!」

 腹が立った明依はタバコの箱を拾うと握りつぶした。海に捨ててやろうと大きく振りかぶって投げたが、終夜は座ったまま、少し背伸びをしてあっさりとキャッチする。

「へたくそ。ここに向かって投げるんだよ」

 終夜はタバコの箱をキャッチした手の人差し指と中指で、トントンと自分の胸の真ん中を叩いた。
 明依は思い切り障子窓を閉めて、大きく深呼吸を繰り返した。
 本当に、どうしてあんなヤツが好きなんだろう。

「アイツ、やっぱ男としては底辺だな。……なんか安心したわ。あれで女の扱い上手かったらいろいろキモイもんな。天は二物を与えずを体現してるタイプの人間だな」

 鳴海は終夜の新しい一面を知って、なんだか嬉しそうだ。
 いや、こっちは全然嬉しくないんだが。
 むしろ、被害しか被ってないんだが。

 そんなことを考えていると、人間の底辺がなんて事のない顔をして戻ってきた。

「じゃ、出るか」
「まだついていないんじゃないですか?」

 自分の目の前を通る鳴海を視線で追って、天辻は時計を確認した。

「いいからいいから」

 鳴海は叢雲たちがいる方の出入り口を開けた。

「すみませんね、お待たせして。もう終わりましたんで」

 鳴海が炎天たちにそう声をかける。全員が外に出ると、エンジン音が段々近づいてきた。

「いや、皆さんに見せたくてね。最近ハマってるんですよ。水上バイク」

 そこには水色と白の横ボーダの決して素敵とはいいがたいマリンスーツに身を包んだお兄さんがいた。満面の笑みを浮かべているお兄さんの笑顔は、守ってあげたいと思うほど爽やかだ。
 所々から入れ墨が覗いてはいるが。

「ほー。こりゃ立派ですな」
「わかります?結構金かけてましてね」

 感心した様に身を乗り出す炎天に、鳴海は上機嫌でそう返事をした。

「ねえ」

 多分風の仕業だと思い、聞こえないふりをした。

「ねーって」
「……なに?」
「こっち向いて」
「……なに?」

 明依はしぶしぶ、終夜の方へと顔だけを向けた。

「違う違う。身体ごと俺の方を向いてって事」

 何だコイツ。
 とうとう頭おかしくなったのか。と思ったが、こんなところでもめても仕方がないので、明依はしぶしぶ水上バイクに背を向けて終夜に向き直った。

「で、なに?」
「なんかさァ。俺が約束破ったみたいになってない?」
「なってるよ。約束破った()()()じゃないの。破ったでしょ?」
「心外すぎてムカつくんだけど」
「ムカついてるのは私の方ね」

 テキトーに返事をして、終夜に背を向けようとしたが、ふいに終夜に抱きしめられた。というより、身体全体で強く押されたと言った方がいい。

 バランスを崩した。ヤバイ、海に落ちる。と思い、思わず終夜にしがみついた。
 爽やかな笑顔のお兄さんが「うわあーー」と演技じみた声を上げた後、自ら夜の海に落ちた。

 想像していた水への落下の衝撃は来ないまま、背中に固い何かが当たって目を開ける。

「夜はこれからでしょ?」

 すぐ側には終夜の顔がある。それもまるで、押し倒されている様な体勢で。
 状況を理解するより前に、空回りするエンジンの音がして、凄いスピードで船から水上バイクが離れようとしていた。
 みんなが唖然としている中、鳴海はニヤニヤと笑って、明依に手を振っていた。