「悪趣味じゃない……?」
「だって前、聞きそびれてるもん。ほら、屋根から落ちそうになった時」
「……何でそんなに聞きたいの?」
「この辺で立場ってものを分からせておこうと思って」

 絶対に言いたくない。しかし言わなければおいて行かれる。
 そこまで考えて思った。

 なんでこんなヤツの事が好きなんだろう。

 どう考えても宵の方がいい男だ。騙されていた事もお互いに利用関係であることを差し引いても、やっぱり宵の方がいい男だ。
 それなのにどうしてこんなヤツが好きなのか。

 〝好き〟という感情が自制が利かず、心の深い所から生まれてくるものなら、自分の存在自体を疑いたいレベルでわからない。

「……ちなみに、どうやって助けてくれるの?」
「俺が抱えて上がる」
「……本当にできるの?その言葉が聞きたいだけで嘘ついてるとか、」
「じゃあ全部脱いで自力で上がりなよ」

 そう言うと終夜は、わざとらしく梯子を掴む音を立てた。
 視覚が役に立たない今では、その音一つにも敏感に反応して不安が煽られる。

「待って待って!おいて行かないで!!」

 明依はそう言って手探りで終夜を探すが、彼には触れられなかった。
 こんな暗闇の中で迷わずに梯子を掴めるなんて人間の仕業とは思えない。

「……ねえ。目、見えてるの?」
「見えてるわけないよ。どんな特殊能力?それ。……音の反響で距離を測ってるんだよ。だからほら。ここが顔で」
「痛っ」

 急に終夜の手が明依の頬に触れた。それも手のひらで軽くビンタするくらいの力で。
 絶対わざとだと思うが、変にこの男を刺激すると本当において行かれるので明依は舌打ちしたい気持ちを堪えた。

「ここが手」

 ためらう様子もなく手首を握る終夜に、明依は若干引きつつあった。

「……どんな特殊能力?」
「で?言うの?言わないの?」
「待ってって。心の準備がいるの」
「ちゃんと自分の言葉には責任持つって誓ってよ」

 どうせいつもの戯れで、言葉だけそういえば終夜は満足するのだと今の今まで思っていた。

「もう俺に逆らわない。俺の言う通りに行動する」

 しかしその言葉で、風向きが変わる。終夜はその言葉をただ言わせたい訳じゃない。

「アンタはこれから始まる吉原の地獄で、然るべき場所でおとなしくしておく。見知った人間がすぐそばで戦っていても、誰かの断末魔が聞こえても、目を閉じて耳を塞いでおく」

 肝心な所は何もわからないくせに、やっぱりこの男のこういう所だけはよく知っている。
 この男がこの状況でこんな事をいう。それはつまり、これから先そういう状況に遭遇するという事だ。

 監禁してマイクロチップを埋めると突拍子もない事を言っていた時、終夜は〝心拍数や体温から心を推測する〟と言っていた。

 そして会話の流れで自然に掴んでいるこの手。
 おそらく今、終夜は脈を測っている。
 嘘をついていないかどうか、確認しておきたいから。

 終夜が宵を殺すのか。
 誰かが終夜を殺すのか。
 そんな状況にさせないために終夜と話をしようとしている。
 本当なら終夜の言葉を肯定して退路を断ち、終夜の説得に全神経を向けた方がいいのかもしれない。

「ほら早く。おいて行くよ」
「ねえ終夜。私ね」

 そう言うと明依は、自分の手を握っている終夜の手を振り払った。

「終夜の事が好き」

 もし脈を測る事で真偽を確かめる事が出来るならたまったものじゃない。
 心臓がバクバクとうるさい。このくらい極度に緊張しているなら、特別な知識を持ち合わせていない自分にだって真偽が分かりそうだ。

 終夜は黙っていた。どんな表情をしているのか、何を思っているのか。何一つわからない。
 ただ一つだけ確実なのは、この言葉を口にする事は二度とない。
 使い捨てで構わない。
 終夜が頼っているのは聴覚だけだ。だから声から情報を察することが出来ない様に、明依はゆっくりと息を吸って自分を落ち着かせた。

「恨んでも恨み切れない相手だろうと、さっき裏切られたばかりの相手だろうと、必要なら私は、どれだけ大切な言葉でもプライドを捨てて口にする。遊女はそうやって、男に嘘をついて生きてるの」

 〝時に、言葉は欺く。態度は嘘をつかない〟

 嘘を吐いた。絶対に気付かれない嘘だ。
 これが明るい場所なら、終夜はきっとすべてを見透かしていただろう。

「そんな簡単な言葉が、本当に聞きたいの?」

 本当に人間の感情は複雑で、めんどくさい。
 終夜が吐き捨てたため息に明依はびくりと肩を浮かせた。

「本当にいつか殺してやりたい」
「わっ!!」
「ほら。持ってこれ」

 急に体が浮いた。状況を理解するより前に、何かを手渡されて思わずそれを握る。
 何かに座っている感じがして手探りで掴めるものを探すと、腹部のすぐ横に頭があった。
 
 つまり今、終夜の肩に座っている。終夜は明依の膝のあたりに腕を絡めると、やはり明依に配慮することなく梯子を上った。

 明依は両手で必死に終夜の髪を掴む。

「髪、痛いんだけど。手燭も。当たってる」
「待って、お願い!!もっとゆっくり!!怖いから!」
「怖いだけで済んでよかったね。あんまりうるさいとうっかり落とすよ」

 この男の発言なんて今は取るに足らない。暗闇で視界は役に立たないが、明依は気休め程度にぎゅっと目を閉じて、帯が邪魔をしているが許される限りの力で終夜にしがみ付いた。

 しばらく肩に乗っていて気が付いた。
 安定感が凄い。
 これは別に怖がる必要はないのでは、と肩の力を抜いた辺りで頭上がほんのり明るくなる。

 終夜は息一つ乱さずに梯子を上り終えると、軽々と明依を下ろした。暗闇に慣れていて目がしばしばする。

 どうやら機械室に出たらしい。
 どこもかしこも触るとケガをしそうな灰色の機械で、どれが何のために動いているのか何一つ検討も付かない部屋だ。
 床も壁もコンクリート造りで、何となくぼろ臭い。

「ありがとう」
「どーいたしまして」

 テキトーな口調で終夜はそう言いながら、重たそうな鉄の板を引きずる。それにはハンドルが付いていて、それを下にする形で穴を閉じた。
 その鉄の板には、表からみると取っ手どころか一ミリの隙間もない。

 その場から動く終夜に晴朗が続いて、それからぞろぞろとその場を移動した。

 機械室から出て、薄暗い廊下をしばらく歩く。
 南京錠のついた部屋の前で、終夜は懐から何かを取り出した。

 それは明依が以前終夜から奪おうとして失敗した、ストラップ替わりに擦り切れた布が巻き付けてある鍵の束。迷う事なくその中の一つを南京錠にさすと、音がして鍵が外れた。

「この場から動いたら足抜けとみなすから」

 終夜はそう言いながら明依から手燭を取ると、主郭の面々と共に部屋の中に入っていく。時雨と明依の二人は部屋の前に取り残された。

「だったら交代でいけばいいのに」
「アイツ、なんだかんだ信用してるよな」

 気にも留めていなかったが、確かにそういう考え方もあるのか。時雨といると、なんだかプラス思考になれる気がする。

「お前も苦労すんなァ、明依」

 時雨の言葉が何を指しているのか、何となくわかっていた。
 時雨はおそらく、明依が終夜に対してどんな感情を抱いているのか勘付いている。

「別に苦労なんて思ってないよ。私はこの選択の方が自分が納得できるってものを選んでるだけだから」
「それってどーしてもお前がやらないとダメか?」
「次いつ、吉原にそんなチャンスが来るかわからないでしょ」
「確かにな。……じゃ、お前。その気持ちどうすんの?」
「どうにもしないよ。ただ、心が死ぬのを待ってるの。……なんか、その言い方は語弊があるかも。宵兄さんとなら、私は幸せになれるって思ってるって事」

 それに、時雨が何か返事をすることはなかった。
 それからすぐに扉が開き、和服からスーツを身に着けて六人が出てきた。普段和服ばかり見慣れているからか、なんだか違和感があった。違和感はありながらも胸が高鳴っているのは事実で、見慣れないからだと明依は必死に自分自身に言い聞かせた。

「なんで俺だけこの格好なんだよ」
「逃げてもすぐに見つけられるように」

 終夜はそう言うと、ネクタイを整えながら歩き出す。その後ろに晴朗が続くが、彼はスーツでもしっかり刀を一本手に持っていた。
 
 みんな、スーツの左襟には同じバッジをつけている。
 炎天と終夜のバッジは金色。他の四人は銀色。役職の違いかと一人でいろいろと考えていると、先頭を行く終夜が扉を開いた。

 そこは地下駐車場だった。広いその場所には複数の車がとめてある。
 久しぶりに見る車と、吉原との雰囲気の違いに明依は思わずきょろきょろと視線を移した。

「黎明大夫と時雨殿はどうぞこちらへ」

 今まで喋らなかった監視役の男の内の一人がそう言って、二人を一台の車に案内した。
 そこには黒塗りの周りの光をすべて反射しているのかと思う程、ピカピカに磨き上げられた車があった。

「狭くてすみません、黎明大夫。あまり目立てないもので」

 そう言いながら、後ろのドアを開く。明依は周りの車を見回した。
 別に狭くない。いたって普通の広さ。周りとは比べ物にならないくらいピカピカに磨かれた、いかにもな車。この車は本当に外界では目立たないのだろうかと明依は疑問に思っていた。

 広い車って逆になんだ。
 あのダックスフンドみたいに胴の長い金持ちの代名詞みたいな車の事なのか。

 明依は時雨の手を借りて車に乗り込んだ。逆のドアから時雨が乗る。前に主郭の二人が乗ってエンジンをかけた。
 という事はつまり、もう一つの車には終夜、晴朗、炎天が乗っていて、おそらく主郭から来た監視役三人の内一人が車を運転しているんだろう。

 彼は賭け事で負けたか、罰ゲームをさせられているに違いないと思った。

 そしてふと、最後に車に乗った時の事を思い出す。
 中学を卒業した時。旭と一緒に車に乗って吉原に来た。

 あれからもう五年以上時が流れた。早いようで、短かった。
 ちゃんと意識していなければ、こうやって時間はあっという間に流れていくんだろうなと、どこか他人事の様に思って。それから吉野の(おし)えを思い出し、しみじみと時の流れを感じていた。

 久しぶりに見るものに、明依は忙しく視線を動かしていた。
 吉原とは違って洋服を着ている人たち。しかしなんだかみんな、無表情だ。吉原に来る人はみんな、楽しそうに笑っているのに。

「着きました」

 そう言われて外に出ると、豪華な屋形船が暗い港に泊まっていた。障子窓からは光が漏れている。
 外には若い二人の男が立っており、一人はサングラスかけてスマートフォンを操作していた。
 広い海に屋形船。明依は物珍しくて視線をきょろきょろさせた。

 先に到着していた終夜達と合流する。やはり、運転していた男はげっそりとした様子で疲れ果てている。あのメンバーだ。疲れないはずがない。

「お前らはここで待っていろ。何かあれば連絡する」

 炎天にそう言われた監視役の三人は、それぞれが返事をする。結局船へは、終夜、炎天、晴朗。それから明依と時雨の五人で乗ることになった。

「お前さァ、終夜」

 サングラスをかけた男は画面から視線をずらすと、不服そうに終夜に向かって言う。スーツの首元からは、入れ墨が覗いていた。

「あんな場所に長いこといるとボケんのかね?サツに顔割れちゃマズイ人間がいるんだから、少人数行動。常識だろ?」
「連れて来たくて連れてる様にみえる?」
「で、どこまで中?」
「ここ二人」

 終夜は時雨と明依を顎で指した。

「じゃ、皆サンは外で待っててください」

 男はそう言いながら踵を返した。敬語なのに全く口調に重みがない。

「張ってろよ」
「はい」

 側にいた部下の様な人にそういうとサングラスをかけた男は踵を返した。
 その二人のスーツにも、色は違うが同じバッチが付けてある。
 もしかすると、世間的にヤバイ感じの人たちは皆、こういうのをつけるのかと思った。

 バレないと思ったのか。時雨は中に入ろうとはせず、炎天と晴朗の隣にしれっと並んでいたが、「時雨」と終夜に呼ばれて「なんで俺まで」と言いながら至極めんどくさそうにそう言って終夜に続いた。

 サングラスをかけた男を追って三人で中に入ると、既に三人の男が座っていた。その中に一人、見覚えのある男がいた。その男はノートパソコンを操作している。

「天辻さま?」

 明依がそう言うと、男は手を止めて画面から明依へと視線を移した。

「どうも。お久しぶりです」

 淡泊で寡黙な印象を受ける男は、吉野を身請けする予定だった男、天辻だった。

「じゃ、とりあえず自己紹介でもする?」

 どうして天辻がここに。この人たちは誰だと思っている明依をよそに、男はそう言いながらサングラスを外した。
 ちょうどそのタイミングで、屋形船が大きく揺れて出港した。