言いたいことは山ほどあったが、それより先に焦りが浮かんだ。
 今日は宵と二人で裏の頭領に挨拶に行く予定だ。それが終わった後は終夜と話をしなければいけない。

「準備しなきゃ」

 明依は誰に言うでもなくそう呟いて立ち上がった。
 しかしよく考えれば、〝この部屋から出る〟という行動が今日の最難関ミッションかもしれない。朝一番に起こったとんでもハプニングのせいで、だ。

 どんな顔をしてこの部屋を出ればいいんだ。しれーっとした顔をしておけばいいんだろうか。それとも少し恥ずかし気にしておくべきなのだろうか。

 いや、まだ噂はそこまで広がってはいないだろう。いつも通り宵に用事があってちょっと部屋にいただけですよ。という顔で出よう。

「準備してくるね。お邪魔しました。ありがとう」

 明依はそう決意して足早に歩き、執務室を通り抜けて廊下に続く襖に手をかけた。

「宵兄さん、また後で」
「うん。またおいで」

 宵の〝またおいで〟はなんかエロいな。と思ったが、一切顔には出ていない自信がある。朝から何考えてるんだと、考えなかったことにして襖を開ける。

 宵は明依のその手を握った。それに驚いて振り返ると、宵は明依の額に触れるだけのキスをした。

 誰かに見られたらどうするの!!という主張が頭の中に浮かんだが、それを口にできる程冷静ではなかった。
 唖然としている明依の前で宵は笑顔で手を振って、襖を閉めた。

 逆終夜じゃん。
 嫌がらせじゃなくて愛情表現で圧力かけるタイプじゃん。と、咄嗟の言い訳がましい何かが浮かんだが、ドクドクうるさい心臓を無視して溜息を吐き捨て、進行方向に向き直った。

 イケメンがすぎる。
 ほら、やっぱり好きとかっこいいは別だ。
 こんな完璧人間と一緒になれるなんて、女の夢を体現しているのでは?と終夜という存在から一線を引いた外側で、早々に宵に染まりつつある明依は一歩踏み出しながら顔を上げた。

 そこには顔を真っ赤にして立っている桃がいた。

「あの……桃ちゃん。これは、違くて……」
「宵さん、明依ちゃんの事が好きなんだろうなって思っていたんだけど。……両想いだったんだね」

 最初から最後まで宵の手のひらで踊らされている桃に、どんな言葉をかけていいのかわからなかった。

「誰にも言わないから!」

 桃は嬉しそうな顔をして、捨て台詞の様に口にして去っていった。おそらく桃は本当に誰にも言わないだろう。しかし、もう手遅れだ。噂はすぐに広まるだろう。

 だいたい、桃は何でそんなに嬉しそうなんだ。と思った所で日奈を思い出した。
 日奈も他人の幸せを自分の事の様に感じられる人だった。

 それはやっぱり、懐かしい気持ちで。それからほんの少し、切ない。それから先に感情が追いつく前に、明依は部屋に向かって歩いた。

 入院していた時に医者にもらった着物に袖を通す。
 本当に上等な着物で、裏の頭領への挨拶へ行く機会でさえ何のためらいもなく着る事が出来る。

 衣擦れの音を聞きながら、終夜の事を考えている。

 『じゃあ、明日の夜。迎えに行くよ』
 『ちゃんとした理由を作ってあげる。だから今度こそ、内緒にしてて』

 終夜はどんな〝ちゃんとした理由〟を作って迎えに来てくれるのだろう。
 ほら、〝迎えに来て()()()〟なんて。また無意識に期待している。
 果たして今の自分は、日奈に顔向けできるだろうか。終夜の言葉に一喜一憂している自分が。

 日奈の言いそうな事なら、大体わかる。当たっているという自信もある。
 でも終夜の事に関して、事実を知った日奈が何というのか。明依には何一つ思い浮かばなかった。

 それに、宵にまた嘘をついた。
 でもそれも、今回で最後。

 そんなことを考えていると、あっと言う間に時間は過ぎた。

 宵と二人で満月屋を出るときも、ひそひそとにぎやかな噂話が聞こえた気がするが、聞かなかったことにした。

「足元、お気をつけて」

 約束の時間をほんの少し過ぎて主郭の中に入り階段を上がろうとすると、案内役の男が固い声色でそう言った。「ありがとうございます」と返事をしたが、竹ノ位の時との対応の違いすぎていて驚いた。

 この人だからなのか。と思ったが、おそらく違う。
 竹ノ位の頃は思い切り押されて石段から転がり落ちた事をチクってやりたい気持ちになった辺りで、自分の小ささに呆れた。
 いや、でもやっぱり。階段から突き落とすのはやりすぎだと思う。

 何階分も階段を上がる。最上階に上がるとそこには式台、廊下と続いていた。
 主郭は土足のまま入りはするものの、妓楼と似た造りだと思っていた。しかし、この階だけ玄関口の様に靴を脱ぐ仕組みになっている。
 改めてここが裏の頭領の居住区である事を認識させられた気がした。

 案内役の男の少し後ろを歩く。そして、到着した襖の前に宵と共に座り、ほんの少し息を整える。この状況でも、宵に緊張している様子は全く見られない。
 勝手は普段の座敷と一緒とは言え、やはり緊張するものだ。しかし、なるべく堂々としている様に努めた。

「よろしいですか」

 やはり固い口調でそう問いかける案内役の男に「はい」と返事をすると、彼は少し声を張った。
 明依は最後に一度、深く深く息を吸う。

「暁さま。黎明大夫がお見えです」

 中から返事は何もない。しかし案内役の男は「どうぞ」と小さな声で言って手のひらを襖の方へ向けた。

「失礼いたします」

 明依はそう言って襖に手をかける。触れる指の角度、手首の動き、身体の位置。なるべく美しく見える様に細心の注意を払う。
 第一線で張っている緊張感の内側で、勝山の事を考えていた。
 粗暴な気質にも見える勝山は、一体どのようにしてこの襖を開けたのだろう。そんな、取り留めのない疑問だった。

 開け放った部屋の中は大座敷になっていた。
 畳は水を含んだ様に濃い色をしている。日の光だけを頼っているこの大座敷の畳に反射した光。ほのかに暗い雰囲気。
 日本人特有の美的感覚、〝()び〟を存分に表現していた。

 正面に座っている裏の頭領、暁と目を合わせる。たった二人だけの世界に放り込まれた様な錯覚。
 おもわず恐縮してしまいそうな程の存在感。威厳と言う体感。

 勝山は以前、〝会話は個性と個性のぶつかり合い〟と話した。
 会話をしなくてもわかる。きっと暁に比べると自分の個性は、かき消えてしまう程弱い。

 不思議なことに、それらから感じる事は〝(うれ)い〟だった。
 性別も違う。年齢も違う。それも、分かった上で。

 これほどまで自ら叩き上げて確立しなければいけない〝自分〟に、一体どれほどの覚悟があったのか。

 もしもその材料が孤独なら、今の頭領は終夜という男の行きつく先の様な気がして仕方がなかった。

 それからまた、錯覚。ふっと視界が晴れた様な。
 暁から意識を逸らせば、彼の隣に終夜が立っていることにはじめて気が付いた。相変わらず笑顔を張り付けている。
 予想外の状況に心臓は音を鳴らしたが、冷静でいる様に努めた。

 いつもの座敷では当たり前になった事を、改めて心の中で繰り返す。畳縁を踏まないように、細心の注意を払って歩いた。

 明依が立ち止まると、暁は浅く一度頷いた。おそらくそれが座ることを許可されたと認識した明依はゆっくりと丁寧に腰を下ろした。

「お招きいただきありがとうございます」

 きちんと言い終えて、頭を下げる。
 そうしてやっと、久しぶりに所作を意識した事に気が付いた。
 日本人の定めた所作には、きめ細やかな心遣いがちりばめられている。これからはもっと大切にしよう。なんて、この場にそぐわない事を考えていた。

「よく来た」

 暁の声に顔を上げた。
 先ほどの威圧感はもうない。しかし暁はやはり、凛とした雰囲気で佇んでいた。

「一介の遊女である私に、道中を許可していただいたこと。いつか直接お礼をと思っておりました」

 じっと言葉の続きを待っている暁の様子に怯みそうになる。しかし明依は短く息を吸い込んで、自分を奮い立たせた。

「頂いた機会で恐縮です。おかげ様で松ノ位に昇格する事が出来ました。お心にかけていただいて、ありがとうございます」

 終夜に利用されていたとはいえ、この人が許可しなければ松ノ位への昇格は出来なかっただろう。
 お披露目の花魁道中で感謝を伝えられなかった分、明依は精一杯の気持ちを込めて丁寧に言葉にして、それから深く頭を下げた。

 気持ちが伝わったのか、顔を上げて目を合わせると暁は浅く頷いた。彼の隣にいる終夜は「へー」と言いながら感心した様なおどけた顔を作った後、また薄い笑顔を張り付ける。

 この男、本当にどんだけ何も出来ないヤツと思ってんだ。と腹が立つ気持ちが浮かび上がってきたが、この状況でペースを乱されてはたまったものではないのでぐっと堪えた。

「黎明」
「はい」
「あの道中。あれは実に、見事だった」

 遊女にとって裏の頭領なんて本当にいるのかもわからない存在だというのに、こうやって向かい合ってそんな言葉をかけてもらえるこの状況に、本当に自分はとんでもない所まで来てしまったんだという実感がふつふつと湧いてきた。
 だから「ありがとうございます」という声は震えていて、頭を下げる事すら忘れていた。

 暁はそれを咎める事もせず、明依の少し後ろに座っている宵に視線を向けた。

「宵」
「はい」
「満月楼の様子はどうだ」
「おかげさまで、何事もなく回っています」
「まさか十五で入った遊女が、松ノ位に上がるとは思ってもいなかった。どうやらお前には人を見る目があるらしい」

 そういう暁に、宵は「ありがとうございます」と返事をした。
 この状況で〝恐縮です〟〝恐れ入ります〟と下手に小さくならない所が、宵の型にはまらない優秀さを表している気がした。

稀有(けう)な時代だ。丹楓楼の勝山も似たような境遇だ。いい時代になった。そうは思わないか」
「ええ。以前の吉原はもっと混沌(こんとん)としてたと聞いています」
「そう。混沌とした中でみんなが希望に縋っていた」

 〝希望〟。
 それはおそらく暁の息子、暮相の事だろう。

「そろそろ身を固める気になったか。……黎明と」

 唐突の質問に明依は明らかに動揺したが、宵からは焦りや躊躇いが一切見られなかった。

「仰る通りです。しかし、どうしてその事をご存じなのですか」

 理由なんて、暁の隣で薄ら笑いを浮かべている男以外にないだろう。事実、明依と目が合った終夜は表情を変えて楽しそうに笑った。

「知っていては都合が悪いのか」
「いいえ。ただ、人伝に暁さまの耳に届いたことを、心苦しく思っているだけです」

 暁は「そうか」と返事をすると、一度明依へと視線を向けた。それからもう一度、宵に視線を戻す。

「黎明とゆっくり話がしたい。宵。悪いが外してもらおう」
「承知しました」

 当然、宵ははっきりとした口調でそう言って立ち上がった。
 衣擦れの音、畳を擦る音が離れて行く。それがほんの少し、不安な気持ちにさせた。

「不安気だな、黎明よ」

 襖が閉まる音がしてすぐ、暁は笑い交じりにそう言った。

「慕った男がいない場は心落ち着かぬか」

 単純にこの場を楽しんでいる様な態度にも見える。
 しかし、少し見下げられているようにも感じる。

 ただ、試されていると思った。
 他の誰でもない、自分から。

「いいえ」

 思いの他はっきりと放った自分の言葉に勇気付けられるなんて、不思議な感覚だ。だからごく自然と、笑顔がこぼれた。

「今日を楽しみにしておりましたので。緊張しております。ご不快な思いをされたのなら、申し訳ありません」

 そういう明依に、暁は一瞬ふっと気が緩むような優しい笑顔を浮かべた。明依が驚いたのも束の間、暁は先ほどよりも柔らかいものの、笑顔とは呼べない無表情を浮かべていた。

「そんなに気を張る必要はない。終夜とは見知った仲だろう」

 ええ、見知った仲です。大事な大事な商売道具の身体に匠のような技術で見事な傷をつけられました。という盛大な嫌味が喉元まで出かかった。

「見知った仲だよ。なんてったって俺は馴染み客なんだから」

 遊女の身体に傷をつける客なんて絶対に馴染みになんかしない。その雰囲気を察しているであろう終夜は意に介さず明依を見た。

「ねっ、明依」

 何がねっ、だ。馴れ馴れしく本名を呼ぶな。という言葉がすらすら出るあたり、まだ救いようがあるのかもしれないと明依は少し安心した。

「暁さま申し訳ありません。この男が側におりますと失言してしまいそうですから、摘まみ出してはいただけませんか」

 本気で言ったつもりだったが、暁は喉元で笑った。

「この男もこれでいてなかなか気が回る」
「優秀な働きアリだからね」

 暁の言葉に、終夜は胸を張ってそう答えた。
 自画自賛かよ。という意味を込めて睨むも、やはり終夜は笑っているだけだ。

 終夜が暁を操っている。
 明依にはその噂が本当だとは思えなかった。

「終夜から話は聞いている。今後の吉原について思う所があるそうだな」

 その言葉で、先ほどの和やかだった空気がピンと張る。
 それは同時に、忘れかけていた緊張感を連れてきた。

「話を聞こうか」

 やはり終夜は、暁の隣で笑顔を張り付けている。