明依は少しの間、宵が〝嘘だよ〟とか〝冗談だよ〟とかそんな言葉で一連の出来事を戯れとして処理するのを待っていた。
 しかし、宵に訂正する気はないらしい。それどころか、返事を待っている様にさえ見える。そこに圧倒的な大人の余裕を感じた。

 男と女が一つの部屋にいるんだから、例え優等生だろうが、人格者だろうが、どれだけ徳が高かろうが、一切気持ちがぶれないなんて悟りを越えた領域だ。人間の所業じゃない。

 女だって他人事じゃない事は、こんな仕事をしているんだからよく知っている。宵みたいな男はそうそうお目にかかれない。鉄のパンツを持参したつもりになっていても、記念に一回だけいいですか。となる可能性がないとは言い切れない。それが人間というものだと明依は変な思考に入り込んでいた。

「よろしくお願いします」

 考えていたってどうにもならないので、明依はとりあえずそう言ってぺこりと頭を下げた。

「なに、それ」

 そう言うと、宵はどこか無邪気な顔をして笑う。
 それは、あの夜桜の日に見せた顔だ。きゅんとする、というのはこういう感覚に違いない。こんな気持ちになるのに、終夜に抱いている感覚とは全く違うのは、騙されていたという不信感がぬぐえないからだろうか。

 宵に触れられたら、終夜への思いが薄れて消えたりはしないだろうか。終夜を守りたい気持ちだけそのままで、その他のいらない感情の全てが何か別のものに変わってはくれないだろうか。

 男性に触れられることなんて慣れているし、別にもったいぶる事でもない。
 ただ源氏名ではなく、〝明依〟と呼ばれて触れられるその先に今ならどんな感情を抱くのか。ほんの少し、そんな好奇心も持っていた。

 嫌じゃない。
 全く嫌じゃないのに、終夜に抱いている気持ちとは違う。
 もしかすると宵に抱いている感情が本当の〝好き〟なのだろうか。と考えたが、なんだかそれも違う気がする。 

「なんか久しぶりに、こうやってまともに話してる気がしない?」
「そうだね。短い時間に、いろんなことがあったからね」

 明依の振った話に、宵はいつも通りに返事をする。
 終夜とキスして裏切った様な気になって、距離感を掴み損ねて、十六夜の事もあった。思い返せばやっと関係性は落ち着いたのかもしれない。
 そう考えてから少し、肩の力を抜いた。

「ねえ、宵兄さん。こういう事聞くのはあれなんだけどさ。……宵兄さんは、私を落とせるって自信、あった?」
「なに、そのどう答えても俺に得のない質問」

 明依の無茶苦茶な質問に、宵は笑いながらそういう。それから瞬きをひとつして、優しい優しい笑顔をつくった。

「明依は強くなったね」

 それは本当に身近な人間の成長を喜んでいるような、しみじみとした声だった。

「まさか明依と、こんな割り切った話をする日が来るなんて夢にも思わなかったよ」
「私は結構、こういう感じの方が遠慮しなくて好きだよ」
「うん。俺も好き」

 おそらく何気なく発したであろう宵の言葉に、胸を射ぬかれたのかと思うくらいきゅんとした。
 こういえば語弊があるかもしれないが、宵は心臓に悪い。もしこれを意図してやっているのだとしたら、もういっそ全部丸め込んでほしいくらいだと、明依はバカげたことを思っていた。

「で、私の質問の答えは?」

 あと一歩のところで正気に戻った明依がそう言うと、宵は声を漏らして笑った。

「まあそうだね。あった」

 はっきりとそう言う宵に、〝ですよね〟。という言葉以外見つからなかった。

「あったよ。めちゃくちゃあった。だから本当の事を言うと、こんな感じで明依と一緒になるって事に納得できていない」
「負けず嫌いだね」

 終夜でさえ異性から見た目線では宵の事を褒めるのだ。もう宵は吉原一のモテ男を自称してもいいくらいだと思ったが、それには人気者、時雨という高い壁があることも事実だ。

 やはり、一緒にいる空間は嫌いじゃない。寧ろ好きだ。一緒にいると心が安らぐ感覚が、確かにしている。
 それならこの感情があと一歩のところで不明確になる理由は、終夜の存在なのかもしれない。
 それでももう、後戻りできないところまで来ている。

「もう寝ようか」

 そういう宵の提案に、心臓は大きな音で規則的なリズムを刻んでいる。

「仕事は?もういいの?」
「うん。終わってる」

 その会話はなんだか、本当に心を許したカップルの様だ。

 宵は立ち上がると、隣の部屋の襖を開けた。それに釣られて、明依も緊張を隠して立ち上がった。
 事務室として使っているこの部屋の隣は宵のプライベートな空間。立ち入るのは初めての事だ。

 何かに気付いた様子の宵は振り返り、明依の隣を通り過ぎて出入り口の方向へ進みながら口を開いた。

「待ってて。布団、もう一組持ってくるから」

 そう言って襖に手をかけようとした宵の背中を、明依はそっと抱きしめた。
 下腹部がきゅっと締め付けられたような錯覚を覚えて、それからまた、うるさいくらいに心臓が規則的に鳴った。

「別に、一組でいいんじゃない?一緒に眠れば」
「……ここは明依の座敷じゃなくて、俺のプライベートな空間。俺の部屋なんだよ、明依」

 明依の言葉を待った後、宵はどこか真剣な声でそう言った。

「……あの時みたいに、『ごめんなさい』でやめてあげられる自信はない」

 先ほど耳元でささやいた大人の余裕なんて、微塵も感じさせない様子で。

 布団が一組だろうが二組だろうが、辿る道も末路も同じ。
 それならこうやって渋っている時間は必要ない。
 自分は案外思いきりのある人間なんだなと、心臓がうるさいくらいなっているくせにそんな事を思っていた。

「そんな事、言われなくてもわかってるよ」

 明依から宵にしては生意気な言葉でそう言うと、宵は腹部に絡んでいる明依の手を握って腕を解いた。振り向いた宵は、明依が彼の表情を確認するより前に明依の額にキスを落とす。

 それから、宵に手を引かれた。宵は部屋の明かりの火を吹き消すと、隣の部屋へと移動した。
 既に布団が敷いてあり、枕元に置いてある行燈(あんどん)には既に火が入っていた。その様子から、おそらく宵はもう寝ようとしていたのだと思うとほんの少し申し訳ない気分になったが、そんなことを一切感じさせない宵の心遣いに心が温かくなる。

 明依の後ろで襖が閉まった。
 二人はどちらからともなく手を離して、どちらからともなく布団の上に座った。

「おいで」

 『おいで』
 以前、そう言って腕を伸ばした終夜の映像を脳裏が見せる。

 どうして、今。
 頭のどこかでそんなことを思いながら、そんなことを微塵も態度に出さずに宵を正面から抱きしめて、自分から彼の首筋に口付ける。

「明依」

 優しい声で宵が名前を呼ぶ。
 胸が高鳴る。
 それなのに思い出すのは、終夜の顔ばかりだ。

 なんて最低な女なんだろう。
 そう思いながらやはり、そんなことを微塵も態度には出さない。

 舌が絡む感覚にさえ、終夜を思い出している。
 でも、これから先の終夜を知らない。

 ゆっくりと身を横たえるこの感覚の中に、終夜の面影はない。

「宵兄さんはどうして、私を抱きたいって思うの?女だから?」

 ムードのかけらもない。しかし、至極純粋な疑問だった。
 こんな形で結婚するとしても、異性であることには変わりないわけで。だから湧き上がってくる性欲の捌け口だとしても別に構わない訳だが。
 それならどうしてこんな事を聞きたいのか、自分でもよくわからなかった。

「好きだから」

 明依が何か返事をするより前に宵は唇を重ねて、思考を止めさせるように宵の手が腹部に触れる。

 その言葉は嘘か、それとも本当か。疑心暗鬼になるくせに、聞きたがる。

 あるのはただ、心地よいぬるま湯に身を晒している様な感覚と。高揚感と。それから、自分はなんてバカな女なんだろう。そんな感想だけ。

「嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ」

 明依がそう言うと、宵はまた唇を寄せた。
 愛しくて、暖かくて、それでも一点だけ拭えない虚しさはきっと、終夜のせい。
 この一点さえ消えてしまえば、もう少し素直に宵に身を委ねられるかもしれないのに。だから今日これから、その一点さえ――

 ガタン!!
 先ほどまでいた隣の部屋で何かが倒れる音がして、思わずビクリと肩を浮かせた。
 宵はゆっくりと明依から身を離して襖の方向を見た後、短く笑った。

「さすがに、やめておこうか」

 どうして笑っているのかわからない明依に、宵は視線を合わせて口を開いた。

「明依の事が心配だったのかもしれないね」

 その言葉で、隣の部屋にいるのが空と海という事に気が付いた。
 それなら先ほど耳元で聞こえた〝私の目はどこ?〟という声もあの二人だったに違いない。もしかすると剥製の遊女の噂の声は、あの二人が面白半分で遊女たちを怯えさせていたのではないか。という考えに至ったが、さすがにそれは無いか。と信じたい気持ちと、あの二人ならやりかねないという不信感が明依の中でせめぎ合っていた。

 どちらにしても、胸を撫でおろした事は確かだ。
 それが剥製の遊女の声の正体が分かったからか、宵の放った一言が原因か。
 宵は明依の隣に寝転ぶと、ゆっくりと息を吐いた。

「夏祭りももう終わる。仕事も落ち着いた。だから明日の夜、食事でもどう?」

 明日の夜。
 明日の夜は、終夜との約束がある。

 終夜と話をしてくる。ただそれだけの事だ。
 素直に言ってしまった方がいい。

 本当にそうだろうか。こんな雰囲気になった直後に、言うのはマナー違反なんじゃないだろうか。もしもこの関係性が逆転していて、この雰囲気の後に自分が食事に誘って〝明日の夜は十六夜と約束しているんだ。ただ、話をするだけだよ〟といわれたら、かなり嫌な思いをするだろう。

 せっかく固まりかけているこの関係を崩したくない。

「明日は裏の頭領に挨拶に行くでしょ。もし長引いた時、約束しておいて行けないのも嫌だからまた別の日でもいい?」
「じゃあ、そうしよう」

 あっさりと引き下がる宵に、罪悪感を覚えた。
 やっぱり言ってしまおうか。

「楽しみにしてる」

 しかし、そう言われるとやはり、こんなにいい雰囲気の中じゃなくていい。そう思った。

 宵の手が明依の首に触れた。明依が頭を少し上げると、首と布団の隙間に宵の腕が滑り込んでくる。
 頭を擦り付けるように移動して宵の胸に顔を寄せると、宵に包むように抱きしめられる。
 それは、吉原のこんな状況の中で得ていいものなのかと思う程、途方もない安心感だった。

 幸せ者じゃないか。政略結婚なんて、互いを何も知らないこともあるのだ。幸せは比べるものでもないが、そんな状況に比べたらお互いが明らかに利用していると知っていて、それでもこうやって抱きしめあうことが出来る。

 ほらやっぱり、自分はどんな状態でももう自分の価値観に沿って幸せを決める事が出来る。

「一緒にいよう、明依」

 たった一点だけを除いて染まる様な幸福感の中で、明依はこくりと頷いた。





「あら……!あらァ」

 興味を隠す様子のない声に明依は目を覚ました。
 いつ眠ったのだろう。という疑問が一番に浮かんだが、それよりも隣に宵がいない事。何より襖を開けている遣り手の女の明るい声に明依は軽くパニックになっていた。

「まあまあまあまあ!!」

 そしてやっと状況を理解する。
 ここは宵の部屋だ。執務室として人を迎え入れる場所ではなくて、宵のプライベートの空間。
 その部屋の中で、一つの布団に女が寝ているなんて。つまりそれは、そういう事な訳で。

「ちょ……ま、違うんです!!」

 違う事は何もないが、違うと言えば違う。
 だって過ちは何も犯していない。いや、過ちってなんだ。別に男女の健全な付き合いは過ちではない。しかしこの状況で、本当に何もなかった、なんて言い訳がこの色街の人間に通用するわけがない。

「宵さんからねェ、そろそろいい時間だから、自分の部屋の中にいる女性を起こしてきてほしいって言われたんだけど……!こんな事初めてだったから誰かと思ってたのよぉ。アンタだったのかい、黎明」

 まさか宵の指示なのかと唖然としている明依に、女は手招きするように手首を曲げて困り笑顔で言った。

「大丈夫大丈夫!!誰にも言わないから!」

 嘘つけ。もう顔に、すぐにでも誰かに言いたいって書いてある。それから唖然としている明依を置いて足早に女は部屋を出て行った。
 それからすぐに、宵がそれはそれはさわやかな笑顔で部屋の中に入ってきた。

「おはよう。明依」
「ちょっと、宵兄さん!!どういうこと!?」
「やっぱりこんな感じじゃ満足できなくて。本気で欲しくなったから、もうこの際外堀から埋めようと思って」

 爽やかな顔でとんでもない事を言っている宵を、明依は唖然としてみていた。

「環境が整えば、人間の頭は錯覚するように出来てる。吉原の人間は噂好きだ。俺が明依を想ってるって種は事前に蒔いておいた事だし」

 桃が自分の為に宵からの指示で洋の花を飾っていた事を思い出した。おそらくそういう種を妓楼のいたるところに蒔いていたに違いない。
 爽やかな顔をして、悪魔の様な事をしていたという事だ。

「今の明依は終夜の事が好きかもしれないけど――」

 宵から聞く〝終夜〟という言葉にドキッとした。
 次に続く言葉を、全く想像することが出来ない。

「――これくらいのビハインドなら、まだ取り戻せる」

 お願い、ちょっと待って。ビハインドが何なのか知らないけど、多分遅れとかそういう意味だ。
 人の心を何だと思ってるんだ?終夜かよ。あれ、もしかして宵は本来終夜側の人間か?と明依はとうとう恩人を疑い始めていた。
 それからどういう経路をたどったのか知らないが、爽やかな顔をして平気で悪魔の所業をしてのける男に、悪くないじゃん。という感想を抱くという変な思考にはまっていた。

 終夜に連れ去られかけた夜のあのもの寂しい感じの雰囲気はどこ行ったんだ。

「どうせ一緒になるなら、ちゃんとお互いを大切にしようよ」

 言いたいことは分かる。
 わかるがおそらく今、この妓楼の中では自分と宵の噂が猛スピードで広まっているんだろうと思うと、溜息を吐くしかなかった。