「いやいや、いやァ。……悪いってェ。吉原の花魁さまに酌してもらうなんてー」
「いーからいーから」

 一杯ひっかけるにしては上等な店の個室内。調子に乗った口調でそういう時雨に、明依は上機嫌で酒を注いだ。
 どう考えても松ノ位の無駄遣い。松ノ位の安売りと言ってもいい。品格を落としている自覚はあるだけマシだと酔った頭で思っていた。

「松ノ位に上がってからの調子はどうだい、明依ちゃん」
「そりゃもう、絶好調ですよ」

 当たり前の顔をして、嘘をつく。
 絶好調のはずがない。モヤモヤと心の中がざわついている。もしも終夜にこんな感情を抱いていなかったら、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。

「いやァ。俺ァね、嬉しいんだ。明依ちゃん」

 一時間ほど飲み始めた頃、清澄は猪口を台の上にタン!と音を立てて置いた。

「明依ちゃんが強く生きてくれていることが!旭くんと日奈ちゃんが死んで、身体に傷までついた。それなのに、松ノ位に上がって……そこに、どれほどの努力と覚悟が……あるかと思うと……」
「おーいおいおいおい。泣くなよー。清澄さーん」

 俯いて目頭を押さえる清澄に、時雨が彼の肩を抱いて絡んだ。

「気持ち、分かるよー?胸が痛ぁーいくらい……。俺もさァ、アンタとさァ、同じ気持ちだァ、清澄さァーん」
「時雨くんならわかってくれると思っていたんだ。さあ、飲もう……!今は何もかも忘れて!」

 絵に描いた様な酔っぱらい特有のやり取りを繰り広げ、二人は酒を注ぎ合っていっきに口から流し込んだ。
 この二人は主郭が推している宵だけではなく、終夜にも気をやっている。だから間もなく夏祭りが終わる状況に思う所がある事は間違いなかった。

 みんな、平気な顔をして酒を飲んでいる。誰も互いのついている嘘に触れない。だからせめて、酒を飲む事で少しでもこの現実を忘れてしまえたらいいのに。そう思っていることさえ、口にはしない。

「清澄さん、ごちそうさまでした」
「ごちそうさん」
「また付き合ってくれたらそれでいいよ。時雨くーん、明依ちゃんを頼んだよー」

 店を出てすぐ清澄は左に、時雨は右に身体を向けた。明依はフラフラと時雨の方へ歩く。気持ちよく酔っていて、今すぐに眠ってしまいたい気分だった。

「任せろ。じゃーな清澄さーん、気ィつけろよー」

 時雨は清澄に背を向けたまま、少し声を張ってそう言う。男性同士の別れというのは本当にあっさりしたものだ。

「はいはーい。宴もたけなわー」
「おー。宴もたけなわー」

 まるでそういう挨拶のように交わされる、明らかに間違った〝宴もたけなわ〟にツッコミを入れる程の冷静さは今の明依にはなく、心地よさとこれから歩いて帰らなければいけない面倒くささを抱えて時雨の隣を歩いた。しっかり酔っていても、しっかり送ってくれるところが時雨らしいなんて思いながら。

「お前さァ、明依ー」
「なにー?」
「宵と一緒になんのー?」
「なるよー」
「だよなァ。そうなりゃさすがにもう手ェ出せねーわ。……いや、俺まだ一回も抱いてねーじゃん」

 酔ってまともではない頭でもしっかりとその結論に至るらしい。それから時雨は舌打ちをした。

「クッソ、宵。邪魔しやがって」

 今度は今まで散々宵に邪魔されたことを思い出した様で悪態をついた。
 宵の正体を知ったからこそ言える事だが、仕事とはいえ自分がターゲットとしている女と友達が、仕事とはいえ一線を越えました。はさすがに勘弁してほしい所だろう。

 そんなことを考えながら歩いていた明依だったが、時雨の気配を感じずに立ち止まって振り返った。
 時雨は何を思ったのか、少し離れた所で立ち止まって目を閉じている。風でも感じているんだろうかと、明依は口を開いた。

「時雨さーん、何してるのー?」
「今、理性と戦ってんだわ」

 やはりしっかりと酔っていた時雨に大した感情は浮かばないまま、彼を置いて明依は先を歩いた。
 いつもこんな様子で奥底を読めないだが、彼にも普段は他人に見せない感情があるのだろうと思うと、時雨の事を少し知りたくなった。

「時雨さんにさー、本命の女性っているの?」
「いねーな」
「時雨さんの誰か一人を選ばない生き方って、寂しくなったりしない?」
「人間生きてりゃさ、どうやったって折り合いのつかない感情の一つや二つ生まれて来んだろ」
「誰か一人と幸せになりたいとは思わないの?」
「それがさァ、性分に合わねーんだわ、残念なことに。誰か一人と幸せになるって事はさ、誰か一人を幸せにしなきゃダメだろ。そんな甲斐性は持って生まれてこなかったらしい。……言い方変えりゃ、全員本命なんだよ。俺の時間を買っている女の側にいるとき、俺はその女だけを愛してるんだから」
「自分の性分に合ってるかどうかが自分でわかってるって、それで納得できるって、凄い事だよ」

 世間一般的な考え方だけが、自分の中の正解とは限らない。それを自分らしいと思える事は、本当に凄い事だ。やっぱり時雨も松ノ位と同様に、自分の中にブレる事のない軸をしっかりと持っている。

「お前はまだ若いからだろ。俺もお前くらいの時は、大人になってもずーっと暮相と女の尻追っかけまわしてるモンだとばかり思ってたよ。明日の事も考えないで、ただその瞬間を楽しんでた。ま、若いころだから出来た事なんだろうな」
「時雨さんはそうでも、暮相さんには〝笑ってほしい女の子〟がいたんじゃないの?」
「それとこれとは話が別だろ」

 え、別なの。と思った明依だったが、すぐに旭の事を思い出した。旭の好きな人は日奈だった。だから、笑ってほしい女の子=好きな人。は成立しない。

「暮相さんの笑ってほしかった女の子って、誰なのかな」
「さあ。高尾大夫か、吉野大夫か。それかもしかするともう、この街にはいない誰かか。……何にしてもさ、あの男が好きだったからこそこの街にかかった呪いは、本当に解けるのかもしれないな」
「どうして?」
「終夜だよ。兄と慕った男が遺した方法で、吉原解放を進めてる」
「終夜が吉原を解放しようとしている事、時雨さん知ってたんだ」
「俺はなーんでも知ってんだよ」

 少し先を歩く時雨は、戯けた様な口調でそう言った。
 本当に時雨は何でも知っている。しかし気を付けないと、今まで何度も時雨との会話で口車に乗せられて情報を引き出された。と思ってはいるものの、酔った頭でそこまで対策ができるほど優れた脳みそは持っていなかった。

「終夜は宵を殺す」

 時雨は何の感情も乗せずに、はっきりとした口調でそう言い切った。
 心臓が掴まれた様な錯覚。何となく触れないようにしていたその話題を、時雨が急に口にしたから。

「そうなったら、お前はどうする?終夜を許せるか?」

 もし本当に終夜が宵を殺したら。
 いや、〝もし〟なんかじゃない。
 終夜は確実に、宵を殺そうとする。

「……死んでほしくない」
「そういう星の元に生まれてるのかもな。この街にあの二人は共生できない」

 『もしも、俺か終夜か。どちらか一人しかこの吉原に存在することが許されないとしても』
 そう言った宵の言葉は、正しかった。
 宵の事も終夜の事も、やっぱり理解できない。好きでもない女と身を固めるなんて、比にならないくらい。二人の目的は、命を投げ打ってでも成し遂げないといけない事なんだろうか。

「俺はさ、宵にこの街から逃げろって何度も言ったよ。だけど、まともに聞き入れちゃくれなかった。アイツの人生だ。これ以上俺がどうこう言える立場じゃない」

 諦めた様な言葉を吐く時雨の声は、悲しそうに聞こえる。

「希望に縋るのが悪い事とはいわねーよ。ただ、一緒になろうとする男の選ぶ道だ。その末路は、覚悟しておけよ」

 意味のない逸る気持ちだけが波の様に押し寄せてくる。
 今すぐにでも終夜と話がしたかった。主郭に行けば会えるのだろうか。終夜の普段の姿を、明依は何も知らなかった。
 どれだけ気持ちが逸っていても、明日の夜まで待つ以外の方法を明依は知らない。

 時雨と満月屋の前で別れた後、今すぐ横になりたい気持ちを抑えて風呂に入った。
 徐々に人通りが減っている妓楼の中を通って、部屋に戻る。
 それから布団も引かずに畳の上に寝転んだ。

 酒飲みすぎて感情がぼやけている状態でも、この先にある虚しさを感じてしまう。
 現実から目を逸らしている暇なんてないのに、少しでもこの苦痛が和らいでくれればと考えている。

「何やってんだ、私」

 そう呟いて溜息をついた。その途端、
 スッパーーーン!!と清々しいほど大きな音を立てて襖があいた。
 明依は思わず横を向いてダンゴムシの様に身体を丸めて頭を守った。

 驚きすぎて声すら出ず、軽くパニックになっていた。銃撃戦でも始まったのかと本気で思って、状況が理解できないまま出入り口の襖を見た。
 そこにはいつも通りの空と、ゴミを見る様なそれはそれは冷たい目で明依を見下ろす海がいた。

「あなたは本当に頭が悪い」

 そういう海に文句の一言すら口に出せず、何事もなかった安堵とやり場のない気持ちで「あぁ……もう……」という情けない声しか出なかった。
 それからやっとの事で這う様に上半身を起こす明依をよそに、二人は部屋の中に入ると、ぴしゃりと襖を締めた。

「松ノ位に上がった自覚がない」
「えぇ……いやでも……勝山大夫も似たようなもの、」
「昔、努力して松ノ位に上がった遊女がいた」
「私の話は……?」

 海は明依の言葉が聞こえていないかの様に、話を続けようとする。
 明依は体制を整えて、その場に座った。

「だけどその遊女は、自分に自由がない事を嘆いていた。松ノ位に上がった事で、目の色を変えて近寄ってくる男にも嫌気がさしていた。だから夜な夜な見世を抜け出して、酒を飲みに出かけていた。注意すると機嫌が悪くなるから、妓楼の人間はみんな見て見ぬふり。その妓楼はその遊女が稼ぐ金に全て頼りきりだったから」

 淡々とした口調で昔話をする海は、不気味な雰囲気がある。

「その遊女が馴染みにしていたのは、大衆に向けた居酒屋。居心地がよかった。誰も自分が松ノ位という事に気が付かない。ある日、遊女の隣に少し年の離れた男が座った。聞けばその男は、吉原の店と外界を行き来する卸業者だった。それからその遊女の隣には、決まって、その男が座った。遊女は親身になって話を聞く男にとうとう心を開いて、自分の境遇を話した。すると男は不憫に思って遊女に言った。『荷台の箱に入れ。俺が外に出してやる』って。世間知らずの遊女は、何の疑いもなく男について行った」

 なんでついて行くんだ。世間知らずにもほどがあるだろ。と思った明依だったが、今まで散々〝世間知らず〟と言われてきた自分も他人事ではないのかと、固唾を飲んで海の言葉の続きを待った。

「箱から出た先は自由な世界。とんでもない。遊女は男に騙されて、金持ちに売られ道楽道具にされた。でも彼女にとって幸運だったのは、主人がその遊女を溺愛していた事」

 なんだ幸せな話なのかと、明依はゆっくりと息を吐いた。

「生きていれば、いずれは老いる。何年も過ぎ去った。吉原ならとっくに年季が明けて自由になっている頃。遊女は若いころの美しさを保てなくなっていた。……それからその遊女は、どうなったと思う?」

 含みを持たせて問いかける海に、明依は無意識に身体に力を入れた。

「彼女は剥製(はくせい)にされた。一番美しい頃の姿を模して。その剥製は今も外界のどこかに飾られ、彼女は死んでもなお金持ちの道楽道具にされている」

 血の気がさっと引く感覚を味わっている明依を気にする素振りもなく、海は再び口を開いた。

「きっと彼女は死ぬ直前まで嘆いて、そして後悔した。医療技術が発達した現代では、江戸の頃の吉原の様に性病で死に至る事は少ない。それならどうして、年季が明けて自由になるまで耐えられなかったんだろう。どうして吉原の中が幸せだと思えなかったんだろう。って」

 光を反射しているだけの海の目に、底知れない恐怖を感じる。

「そうして彼女の魂は成仏できないまま、吉原の街の中を彷徨っている。松ノ位をなくして経営が傾きお取り潰しになった存在しない妓楼を、帰る場所を探して。その遊女からしたら、あなたの様な人間はさぞ恨めしいはず。何も知らずに能天気に出歩いても守ってくれる人も送ってくれる人もいて、帰る場所があるんだから。……私がもしその遊女なら――」

 ゆっくりと瞬きを一つした海と視線が絡む。

「――今夜、あなたを呪い殺しに来る」

 明依は思わず息を呑んだ。