まさに一触即発という雰囲気があったはずの終夜と梅雨の間には、互いに何の感情も無さそうに見える。拳を交えたという言い方が正しいのかはわからないが、そういう人間同士にしかわからない何かがあるのだろうか。

 無表情で終夜を見ていた梅雨だが、『代わるよ』という終夜の言葉を聞いた瞬間ほんの少し、でも明らかに、確実に、嬉しそうな顔をした。

「梅雨ちゃん」

 明依は、まさかね。という気持ちを込めて念を押すようにそういう。
 先ほどまでのほんの少し打ち解けた雰囲気など微塵も感じさせない様子で、梅雨はあっさり踵を返した。
 聞こえなかったに違いない。
 例えこの距離での言葉だったとしても。

「梅雨ちゃん!!待って!!お願いだから待って!!」

 一人にしないで。という渾身の願いも虚しく、梅雨は明依に見向きもせずに歩き出す。

「本当に、本ッ当に!私を一人にしていいの!?」

 いつか認めさせてやると言った気持ちに偽りはない。ただ、あの花魁道中の時にしっかりと一線は引くけじめをつけたのだ。これ以上変に()()()を増やしたくない。

「この男のやった事、すぐ側で見てたでしょ!?またそうなるとは思わないの!?」

 泣きそうになりながらそう言ったが、梅雨はあっさり明依の事を見捨てて去って行った。
 嘘だろ。と梅雨の背中を見ていると、悪魔の様な男は楽しそうに笑っていた。

「俺が護衛してあげるって言ってるんだから、もっと嬉しそうな顔できないの?」
「私、アンタの被害者なんですけど」
「そうだっけ。もう忘れちゃった」

 もうお前、マジで嘘つけよ。と明依は思った。
 胸の中央から肩にかけて出来た痛々しい傷痕を見せてやろうか。と思ったが、それはつまり着物と一緒に恥も脱ぎ棄てなければいけないので思い留まった。

 もうさっさと帰るしかないと思って明依が先に歩き出すと、終夜もそれに続いた。

「松ノ位に上がったんだからさ、もう少し危機感持って行動しなよ。一人で挨拶回りに行くなんて、ありえないと思うけど。その世間知らず、治らないの?」

 先ほど高尾に言われて、一人で出歩くのは控えた方がいいという事は分かった。そもそも、挨拶回りには宵が付き添う予定だったが、お世話になった人たちと自分のタイミングでゆっくり話がしたかったので遠慮してもらったのだ。

「これから先ずっと世間知らずで結構です。もうそろそろ、それを売りにしてもいいくらい」
「本当に可愛くないね」

 早くこの男から離れようと思っているのに、この友達の様にテンポよく進む会話に馴染んでいることも事実だった。
 終夜とこうやってまともに会話ができる機会は、一体あと何度あるのだろう。

「そういえば、吉原を解放したいって気持ちはまだ変わってないよね」
「変わってないけど」
「じゃあ明日。頭領への挨拶があるだろ。その時、はっきりそう言った方がいいよ」

 終夜の言う通り、明日は裏の頭領、(あかつき)へ松ノ位昇格の挨拶をするために主郭に行く予定になっている。

「どうして?」
「話のタネになるから」
「……話のタネって何……?怪しすぎて言う気になれないんだけど」
「怪しいって、何が?」
「それをいう事で、裏の頭領が怒って私を晒し首にするとか」
「それいいね、時代劇みたいで。俺にやらせてよ。綺麗に切るから」

 綺麗に切るって何だよ。やっぱりこの男は異常性癖所持者だ。もしくは頭がおかしいんだ。と結論付けて明依は終夜を見たが、彼はいたっていつも通り。飄々とした態度でいるだけだった。

「松ノ位が頭領に直接言う事で確実に周りから固めたいだけ。勘繰(かんぐ)り過ぎじゃない?何かあったの?挨拶回りで勝山大夫と夕霧大夫にいじめられたとか」

 一ミリの狂いもなくあっさりと当てられた事に驚いている明依に、終夜は「わかりやす」と言って笑った。

「明日、裏の頭領に言えばいいって事ね。わかったから、もういいでしょ。帰って。私も帰るから」

 そう言って歩くスピードを速めるが、終夜は当然難なくそれに追いついてくる。

「いいじゃん、もう少し」
「よくない」
「なんで?」

 そういう終夜はなぜか楽しそうだ。やっぱりこの男は他人の嫌がる事をして喜びを感じる嫌なヤツなんだ。という気持ちと、これ以上考える事が増えたらどうしてくれるんだ。という恨みを込めて明依は終夜を睨んだ。

「ねえ、なんで避けるの?まだ宵に誤解されるのが怖いとか?」
「違うけど」
「じゃあなんで?」

 なんで?なんで?って。子どものなぜなぜ期かよ。なんで?はこっちのセリフだ。なんで?このタイミングでグイグイ来るのか疑問だし、なんで?軽く息が上がりかけている自分と相反して、余裕の様子なんだと腹が立つ。
 しかし、頼むから勘弁してくれ、という願いは残念ながらこの男には届かないだろう。
 明依は諦めて、歩くスピードを落とした。

「先に私を避けたのは終夜なんじゃないの」
「あれ、そうだっけ。被害者と加害者の主張は、いつだって食い違うものだよね」

 明依は盛大な溜息をついた。
 本当にこの男は、ひらひらとかわして確信を遠ざける。

「俺にしときなよ」
「俺にするってなによ」
「俺と組まない?ってこと」
「組むってなに?」
「宵としている取引をなかったことにして、俺と契約しない?って事。つまり、宵と一緒になるのをやめて、俺と一緒になろうって事」

 仮にも。本当に仮にも、好きな人から言われるプロポーズもムードのかけらもなければ心ひとつ動かないんだな。と明依は心のどこかで冷静になっていた。

「それは終夜に何のメリットがあるの?」
「俺へのメリットは大してないよ。俺の評判の悪さは、松ノ位と一緒になったくらいじゃ回復しないだろうから」
「自分の事、そんなに客観視出来てたんだ。……じゃあ、なんで?」
「宵が松ノ位と身を固めないデメリットがかなり大きいから。あそこまで言っても宵を選ぶんだもん。利用できそうなら――」

 息継ぎよりも短い時間に、人の気持ちが揺れるなんて知らなかった。
 脳は明依が意図して考えるよりも先に、その言葉の続きを予測した。言葉という形ではなくて、汚い色をした感覚で。

「――誰でもいいんでしょ?」

 やっぱり汚い色をしていると思った。

 終夜は何も悪くない。これは終夜の意見で、彼の思考が形になったもので、他人の介入する余地は少しだってあるはずがないんだから。
 こんな感情を終夜に抱いていなかったら、何気なく発した終夜の言葉を聞き流していたと断言してもいい。

 それなのに
 ムカつく。軽く見られて、扱われている様な気がして。
 悲しい。そんな言われ方をされて。
 呆れる。頭がいいくせに、こんな簡単な事が分からないことに。一体どんな想いで、誰の為を想ってか、気付きもしない事に。

 本当に人間は理不尽で面倒だという結論。
 自分で責任を取る覚悟はできていると断言できるのに。この期に及んで、まさか()()()ほしかった、なんて。

 自分の責任。
 自分が悪い。
 全部、全部わかっているはずなのに。
 やっぱり、この色は汚い。

「人生を賭けて吉原の安泰の為に好きでもない女と身を固めようなんて、凄いね」

 『人生を賭けて国の安泰の為に好きでもない女と身を固めようなんて、凄いよね』
 宵の正体が潜入捜査官だと知った終夜が言った言葉をそのまま口にする。

 終夜はそれに気が付いた。
 だからこれを挑戦状だと受け取って、表情の一切を消したのだと思う。

「誰でもいい訳ないでしょ」

 好きだからこそ、今、この男が本気で憎い。
 もうどうなってもいいから、このぐちゃぐちゃした感情を全部ぶちまけてしまいたいくらい。

「私は、宵兄さんと一緒にいるの。だからもう、邪魔しないで」

 やっぱりもう、無駄に関わることは金輪際やめにしたい。
 心が揺れて、仕方ないから。

「……へー」

 呟いた終夜の声色には、興味の色が滲んでいた。

「忘れてない?」

 そういう終夜の声は、背筋をなぞる様な不気味でいてどこか色を纏った音をしていた。
 張り付けた様な笑顔。
 恐怖の対象としてみていた時の様な、あの感覚。

「宵は死ぬんだよ」

 また存在を示す様に、ドクと心臓の音が鳴った。

「俺が殺すんだから」

 そうだ。こういう人間だった。どうしてこういつもいつも忘れて、自分の都合のいいように真実を捻じ曲げてしまうんだろう。
 恐怖心が混ざった嫌な感覚を、明依は確かに思い出していた。
 
「終夜。私との約束、覚えてる?」
「さあ、なんだっけ」
「私が松ノ位に上がる事が出来たら、私の話をちゃんと聞いてって言った事」
「そうだったけ。忘れちゃった」

 本当に嘘ばかり。
 この男は、遊女以上に嘘をついているに違いないと、頭の片隅でそんなことを思った。

「私は覚えてるよ」
「でも、俺は忘れたよ」
「じゃあ、私が思い出させてあげる」

 明依がそう言うと終夜は、お手並み拝見、とばかりに挑発的な顔で笑う。

「どうぞ」
「私が松ノ位に上がったら、私の話に耳を傾けて私の言う言葉の意味をちゃんと考えてほしいって言ったら」
「うん」
「終夜は私の言葉にこうやって返したの。『いいよ』」

 終夜の余裕は、もう息継ぎをする間もなく崩れる。

「『その時俺が、生きていたらね』って」

 終夜は思わずと言った様子で立ち止まった。
 明依は終夜の数歩先で足を止めて、それから振り返った。

「私の話を聞いて。……まだ、生きてるでしょ」

 終夜はふっと息を漏らしたあと、呆れた様な表情を作った。

「よく覚えてるね、そんな事」
「私にとっては、そんな事じゃないから」
「本当、遊女さまは人の心を弄ぶのが上手だ」
「アンタにだけは絶対、言われたくない」

 その言葉を聞いた終夜はニコリと笑った。

「いいよ、聞いてあげる。せっかくだから、ゆっくり話そうか」
「いつ?」
「いつか」

 自分に〝いつか〟の保障がない事なんて、知っているクセに。
 またこうやってはぐらかされて、何も得られないままなんだろうか。

「そのいつかは、本当に来る?」

 先ほどまでの憎しみは、一体どこに行ったんだろう。

「一緒になる男がいるクセに、他の男との〝いつか〟を待つんだ」

 確かにそうだ。利用する関係性とはいえ、宵とは一緒になるつもりでいるのだ。それなら目的を達成するためのこの行動ももう、裏切りになってしまうんだろうか。

「じゃあ、明日の夜。迎えに行くよ」

 しかし終夜は、あっさりとした様子でそう言うと踵を返した。

「ちゃんとした理由を作ってあげる。だから今度こそ、内緒にしてて」

 そう言うと終夜は一瞬観光客が過った内に居なくなった。
 視界を巡らせれば見慣れた景色。すでに満月屋の前にいた。

 今しがた夢現から抜け出した様な、不思議な感覚だった。
 一線を引くと、けじめをつけると思っていたのに、それを実践できていた自信は、残念ながら全くなかった。

 満月屋の中に入ると、時雨と清澄。それを見送るように宵が立っていた。
 宵を認識した瞬間、心臓が大きく跳ねる。この感覚は知っている。宵に対して後ろめたい事があるとき、この感覚がしたことを覚えている。

「本当にめでたいねェ。明依ちゃん」
「お前は凄いヤツだよ」

 清澄と時雨は明依を見つけると、嬉しそうな顔でそう言った。

「明日は頭領への挨拶だったね」
「そうです。緊張します」
「今日はゆっくり休めよ。酒の力でも借りて」
「時雨」

 清澄の言葉に返事をすると、時雨はすかさずそう言った。それを(たしな)める様に、宵は時雨を見た。

「どーせお前は誘っても来ないんだろ。明依、清澄さんと三人で一杯ひっかけに行こうぜ」
「うん、行く」

 明依がそう言うと、宵は呆れたように溜息をついた。

「本当に程々にしておくんだよ、明依」
「わーってるって。な、明依。一杯だけだよな」

 一杯だけで済むはずはないと思ったが、明依は当たり前という顔をして頷いた。

 不思議だ。宵の言う事が全てだった。そこから抜け出した。自分らしく生きる方法も、窮屈な檻の中でも幸せを見つける方法も、もう知っている。

 自分の幸せは自分で決められる。どこにいても自分は幸せだ。そう思っていたのに、終夜の近くにいると、自分の選ぶ道が本当に胸を張って幸せと言えるのかわからなくなる。

 好きだからだ。
 この気持ちはきっと、人をおかしくする。〝恋は盲目〟とは、よく言ったものだ。なんて他人事の様に考えている。

 やっぱりもう、無駄に関わることは金輪際やめにしたいと思った気持ちは、心が揺れて仕方ないと思ったあの気持ちは、この短い時間にどこに隠れてしまったんだ。

 酒を飲んで、一旦全部忘れたい。
 明日の緊張も、無駄に浮かれている気持ちも、全部。