扇屋・夕霧(ゆうぎり)大夫

「おかげさまで無事に松ノ位に昇格できました。これからもよろしくお願いします」

 明依はそう言うと、夕霧に向かって丁寧に頭を下げた。

「別に挨拶なんてよかったのに。……それよりどう?終夜とは」

 そういう夕霧に、興味を隠す様子はなかった。

「何もありません」
「何もないって事はないでしょ?男と女が二人きりになった末路なんて、どれも似たようなものだわ」

 それはそうかもしれないが、例外もあるわけで。夕霧の様に魅力たっぷりの女性が相手であれば、男性側が先に我慢できなくなるのかもしれない。そうなら夕霧も夕霧でそのことが分かっているから、前もって覚悟が出来ているだけの話だろう。

 終夜曰く、どんな男も自分の身体で興奮すると思っているのは自意識過剰らしい。まあ夕霧の美貌で謙遜されても嫌味なだけだからこれくらいの方が丁度いいのかもしれないが。

「キスくらいしたでしょ」

 夕霧はあっさりとした様子でそう問いかける。
 明依は蕎麦屋の二階で主郭の人間を騙す為にした口付けと、それから茶屋の座敷で客を装い薬を飲まされた時の口付けを思い出した。
 あれは〝キス〟なんて可愛い名前で呼んでいいものなのだろうか。

「必要だったからほぼ無理矢理……。事故みたいなものだから、何とも思っていないです」

 何とも思っていないというのは嘘だ。思う所はいろいろあるに決まっている。いつもいつもしてやられて悔しいだとか、ゾクゾクと背を這い上がってくる様な罪悪感だとか、気恥ずかしさだとか。灯る程度の明るい気持ちだとか。
 しかし夕霧は眉間に皺を寄せて嫌悪感を露わにした。

「信じられない。そこまでいいように利用されて悔しくないなんて。女としてのプライド、ないわけ?」

 確かにそうだが、ではあの終夜相手に一体どうすればいいのかという話になる。あの男の頭脳や身体能力に追いつこうなんて遅すぎるにも程があるし、それなら堂々としている以外に何ができるというのだろう。

「手練手管の限りを尽くしてでも、快楽のどん底に堕としてやろうとは思わないの?」

 思わないです。
 そんな淫魔の様な思考に至るのは多分あなただけです。

 という言葉が喉まで出かかったが、明依は必死に飲み込んだ。

「いや……。私にそんな手練手管はないです……多分」

 ユーモアの欠片もない至って普通の回答しか出てこなかったが、夕霧は表情を変えて薄く笑った。それはどこか、意地悪な笑顔にも見える。

「終夜が好きなの?」

 そして楽しそうにそういう。ここまではっきりと聞かれると、逆に緊張もしないものだ。嘘をついた所でいい事はないだろうし、すぐにバレる自信がある。

「気の迷いです」

 はっきり言い切ると、夕霧はさらに楽しそうな顔をした。

「終夜はこの街からあなたを出そうと躍起になっていたのよ。終夜も時機にこの街から命を狙われる。それならこんな街はさっさと捨てて、一緒に外界に逃げるなんて結末はどう?なんだかロマンチックじゃない」

 展開としてはロマンチックかもしれないが、夕霧に終夜の気持ちを考慮するという考えはないらしい。
 終夜が何の理由も感情もなく動いているわけではないと思う。しかし、なにかしら思う所はあるのだとしても、異性として恋愛として意識して行動しているとはとてもではないが思えない。

「一時の気の迷いに、人生なんて賭けられないですよ」

 やりたい事の全部はこの街にある。(ゆき)や双子の幽霊、(そら)(うみ)の様に、子どもでいる事を許されない子どもも、許されないまま成長した大人も、この街にはたくさんいる。
 今まで存分に他人に甘えてきた自分が変えなければ。過酷な状態で夢も希望も見えない名前も顔も知らない誰かの代わりに。吉原を解放して少しでも明るい未来を見られるなら。

「あなたもしかして……宵と一緒になるつもりでいるの?」

 思わず目を見開いて夕霧を見た。彼女はどこか読めない表情をしていて、何も答えられない明依をみてふっと笑った。

「なーんだ、そうなの。それもいいかもね」

 あっさりとした口調でそう言った夕霧は、続けて口を開く。

「それをあなたが幸せだって思うなら」

 何気なく口にした言葉だったのかもしれないが、その一言が今の明依には妙に引っかかって仕方がない。
 〝幸せ〟
 いつか自分の幸せを願う事が出来るのかもしれないとつい先ほどまで思っていたくせに、それがまた揺れていた。

 頭がパンクしそうになって、甘いものでも食べようと目の前に置かれた茶菓子を見ると、同じタイミングで夕霧が自分の前に置かれた茶菓子に手を伸ばした。

 甘いものが食べたい。という欲求の次に出てきたのは、先ほど勝山に茶菓子を食べられた恨みだった。
 もしかすると夕霧は自分の分も狙っているのではないかと変に勘ぐった明依は、今回こそはと自分の分を食べようと自分の茶菓子に手を伸ばす。しかし夕霧は、自分の茶菓子の入った皿を少しだけ明依の方へと移動させた。

「このお菓子、美味しいのよ。よかったら私の分もどうぞ」

 美味しいのに他人にあげるのか。と先ほどの勝山から茶菓子を食べられたことを根に持っている明依は自分を騙そうとしているのではないかと、読めるはずのない真意を探ろうと夕霧の綺麗な顔をじっと見た。

「その顔はなに?」
「……夕霧大夫、食べないんですか」
「だって太っちゃうもの」

 スタイル抜群の夕霧にそう言われて、明依は思わずうっと言葉に詰まった。

「食べないの?」
「……いらないです」

 明依はなけなしの理性を振り絞って自分の茶菓子から顔を逸らした。

「あら、残念。じゃあ、いただくわね」

 夕霧は何事もなかったかのように手を伸ばして、明依の前にある茶菓子を食べた。 
 え、太るんじゃなかったの?と呆然としている明依の前でさも当然と言った様子で今度は自分の分もぱくりと口に入れた。
 お茶を飲んだ後、懐紙で口元を上品に抑えている。

「甘いわね」

 夕霧は妖艶な笑顔を浮かべている。
 詰まる所、夕霧の手のひらで踊らされたという事だった。





 三浦屋・高尾(たかお)大夫

「今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げて、それから顔を上げた。高尾の顔は見えないが、やはり妓楼の中も高尾自身にも落ち着く雰囲気があった。「そんなに畏まらなくていい」という高尾に甘えて、明依は肩の力を抜いた。
 相変わらず梅雨(つゆ)は、少し離れた所に立っている。

「あの、高尾大夫」
「なんだ」
「吉原を解放するには何が必要なんでしょうか」
「いろいろな要素が必要なる。大きな所で言えばまず、吉原の雇用形態をどうにかしないといけないな。今は売られたと同時に働く期間が決められ、いくら稼いでもその期間より先に吉原から出る事はない。可能性があるとしたら身請けくらいだろう。運営に問題がない程度の適切な金額を設定しつつ、その金額を越えた後は本人に任せるというのが理想だろうな。後は、一般社会に出る為の教育システムの構築。それから、吉原解放の情報が出回らない為の根回し。吉原には敵が多いからな」

 吉原解放を真剣に考えていたつもりではあったが、そんなところにまで頭が回らなかった。早速頭がおかしくなりそうな程難しい話だ。

「吉原が解放されたとしても、最終的に意思をまとめる役割としての裏の頭領という立場は無くなることはない。だから外界と繋がりのある宵が裏の頭領になったとして、段階を経て吉原を解放することは可能だろう」

 どうして明依と宵の利害関係を知らないはずの高尾から、その話が出てくるのか。偶然にしてはその言い方は、何もかも知っているのではないかと思える様子だった。

「もしかすると、その方が吉原という街は安定するのかもしれない。ただ、宵一人が誰にも介入されずに秘密裏に準備を進める吉原解放が、本当の意味で何の規制もされていないかはわからない。一代でどこまで進められるかも不明確だ。私の準備した方法なら、様々な方向から適度な圧力をかけてシステムを構築することが出来る。だから吉原解放の一件は、全て終夜に任せたいと思っている」

 終夜に任せるというのは、一体何を任せるんだろう。全く見当もつかなかった。卑下するわけではないが、本当に自分は身体を売る以外はなにも知らないのだなと思い知っていた。

「私の考える吉原解放には具体的な計画があった。そしてその具体的な計画には、くだらないしがらみが絡みついていた。お前がそれを断ち切ってくれた。だから望み通り、この街に残した。お前はいわばこれから推し進める吉原解放のシンボルだ」
「私が……吉原解放のシンボル、ですか」
「そうだ。お前が最初の花魁道中で着た白い着物。姐さんの遺したあの着物の名も〝黎明〟という。知っていたか」
「はい。知っていました」
「新たな物事が始まろうとする事を、〝黎明〟という。これほど縁起のいい名はない」

 確かに黎明という言葉にはそういう意味がある。とっくに慣れてしまったが、初めて吉野から源氏名を聞かされた時は違和感があった事を今でも覚えている。

「吉野が決めたのだろう」

 布に隠れた向こう側の表情は分からないが、いつも以上に穏やかさを感じる口調だった。まるで愛しい何かを思い出すような。もしくは、思い出に触れるような。
 勝山、夕霧、高尾の花魁道中の後、吉野と高尾は二人で話をしていた。仲直りしたのだろうかと思っていたが、それにしては二人に変わった様子はない。

「この街にとどまる理由を、考え直す気にはならないか。黎明」
「……それは、どういう事でしょうか」

 高尾に問いかけ返す。どこまで知っているのかはわからないが、その言い方からして高尾には宵との関係に察しがついているのだろう。

「お前はそれで、幸せか?」

 存在を示す様に、トクンと確かに心臓が音を立てた。

 吉原を解放したとして、それは一瞬で終わる出来事ではない。それなら現状、頭領に一番近い宵の側にいる事が明依には合理的に思えた。
 終夜が覚えているかどうかは分からないが、松ノ位に上がることが出来たら真剣に話を聞いてほしいという約束の内容を聞き入れてくれれば、危険な目に合わないかもしれない。

 ただ、主郭が宵を推している限り、彼を味方にしておけばこの街で立ち回りやすい事は確かだった。宵は終夜を殺さない事を約束した。終夜の生存は絶望的な現状に比べれば、約束がなかったことになったとしても、最悪の状況にはならないかもしれない。
 ただそれが本当に自分の幸せかどうかは、考えてもわからない。
 もしも、終夜を選んだら宵は遠慮なく明依という駒を切り捨てるのだろうか。それともそもそもそんな判断を下すより前に、何か手を打つのだろうか。

「すまない。余計な事だな。……ゆっくりしてくれ」

 高尾はそう言いながらお茶と茶菓子を勧めるように手のひらを向けた。
 明依はひとまず考える事をやめて、丹楓屋でも扇屋でも食べる事が出来なかった茶菓子を口に入れた。
 白あんがほどけるように溶けて、甘さが口の中に広がる。触感にも味にも一切の食べ辛さを感じない、上品な味がした。

「おいしいです。……凄く」
「そうか、それはよかった。私の分も食べるといい」

 高尾はそう言うと、先ほどの夕霧と同じ様に茶菓子の入った皿を明依の方へと少し移動させた。

「どうした。食べないのか?」

 もしかすると先ほどの夕霧の様な結末が待っているのではないかと、受け取らずに警戒の色を見せる明依に高尾は不思議そうにそう言った。

「……本当に食べていいんですか」
「いいと言っている。……ああ、勝山大夫と夕霧大夫にいじめられたのか」
「勝山大夫にも夕霧大夫にも私の分のお茶菓子を取られました」

 コテンパンにしてやられた様子を想像したのか、高尾は声を漏らして笑った。
 笑いごとじゃない。たくさん考えて脳みそが甘いものを欲していたのに、自分の分を目の前で取られた悔しさをみっちりプレゼンしたい気持ちになった。

「たくさん食べろ。まだ必要なら、私が用意するように頼もう」

 そういう高尾に甘えて、明依は彼女の分まで茶菓子を食べた。
 他愛もない話から吉原解放の重要な話まで。居心地のいい環境に甘えて、長々と居座った結果。吉原の花盛りを少し過ぎた時間になった。

「すみません、高尾大夫……。長々と居座ってしまって」
「楽しい時間を過ごさせてもらった。私を当てにして来る人間は少ない。時間があればまた寄ってくれ。……遅い時間になった事だ。梅雨に送らせよう」

 高尾の一言で、梅雨はそれはそれは嫌そうな顔をした。「梅雨」と高尾は窘める様に名を呼ぶが、当の梅雨は嫌悪感を隠すつもりはないらしい。

「いや、大丈夫ですよ。今までも何かあった事なんてないし。この時間は人も多いし」

 明依がそう言うと梅雨は、こう言ってますけど!とでも言いたげに高尾に視線をやった。
 あれ、そんなに嫌?えっ、もしかしてキライ?と不安になる明依をよそに、高尾はため息をついた。

「今まではそうだろう。ただ、お前は松ノ位に昇格した身だ。もう少し自覚を持った方がいい」
「自覚……ですか」
「もしもお前が囚われて裏社会で取引の道具に使われる事があれば、見たこともない桁の金が動く。側において愛でたいという人間なら幸運だが、そうとも限らないだろう。松ノ位というのは表社会では憧れの対象。裏社会ではこの街の裏側同様、()()()()見られ方をするのは当然の事。よくも悪くも、それだけ〝松ノ位〟という称号には価値があるという事だ」

 急に怖くなった明依は縋る様に梅雨を見た。同性に頼むというのがなかなか情けない気もするが。
 梅雨はやはり嫌そうな表情で明依を見たが、それから諦めたのかどこかふてくされた様な表情を作った。

 結局送ってもらう事になった明依は、梅雨の隣を歩いた。並んでみると身長はあまり変わらない。同世代の同性。それなのに、臆病な自分と違って終夜に怯まない強さに心から尊敬していた。

「あの……梅雨、ちゃん」

 どんなふうに呼べばいいのかわからずにそう呼ぶと、ギロリと人でも殺せそうな視線を明依に向けた。
 気安く話しかけるなという事だろうか。どんだけ嫌われているんだと思った明依は、ぎこちない笑顔を作った。

「けっ、怪我なかった?あの時」

 終夜が明依を吉原の外に出そうとしたとき、高尾を庇って終夜と梅雨は揉めた時の事だ。
 梅雨は口を開く素振りも見せず、こくりと頷いた。

「私と話したくないとかだったら。っていうか、違ったら申し訳ないんだけど。……梅雨ちゃんもしかして、喋れないの?」

 梅雨はちらりと横目で明依を見た後、視線を逸らしてまたこくりと頷いた。それから少しして梅雨の口が動いた。

 〝いまは〟

「今は……?昔は話ができたの?」

 梅雨はそれに、こくりとうなずいた。
 ストレスでは様々な症状が発症すると聞いたことがある。吉原で慣れない環境にさらされて精神的に限界を迎えたのなら、その可能性もゼロではないだろう。
 梅雨はそれからまた、口を開いた。

 〝なおる〟

 声を聴くことが出来なくても、梅雨と話が出来たという事が嬉しかった。
 
「そっか。じゃあ治ったら、いろんな話をしようね。私、楽しみに待ってるから」

 そう言うと梅雨は目を見開いた。何か変なことを言っただろうかと不安になる明依をよそに、梅雨は軽く笑った。

 〝いやだ〟

 戯けた様にそう口を動かして、明依の少し先を歩いた。

「なんでよ。私達、多分年齢変わらないよ。仲良くしようよ」

 それに梅雨は首を左右に振った。
 どんだけ嫌なんだよ。と思った明依の隣で、梅雨は立ち止まった。どうしたのだろうと梅雨の顔を見ると、じっと正面を見つめていた。

 その視線を追うと、そこには道の端でしゃがみ込む終夜がいた。

「お勤めご苦労様。自覚のない人間の相手は大変だろ、梅雨」

 予想外の人物に、心臓が痛いくらい鳴っている。

「護衛、代わるよ」

 終夜はふらりと立ち上がると、梅雨に視線を向けた。