「すごく綺麗な花だね」

 遊女たちの居住区。三階の廊下を歩いていると、(もも)が花瓶の手入れをしていた。桃は明依(めい)の声にはっとして嬉しそうな顔をしたが、どうしたらいいのかわからないと言った様子を見せた。

「あの……明依ちゃん。松ノ位昇格、おめでとう……ございます」

 いつも通りに〝明依ちゃん〟と呼ぶのに、固い言葉で締めくくろうとする桃に、明依は思わず笑顔を浮かべた。

「やめてよ。いつも通りにしてて」
「そっか……そうだよね。どんな風にしていたらいいのかわからなくて」

 桃は困ったような笑顔を浮かべた後、身を引いて今まで触れていた花瓶を見た。

「珍しいね。いつもと違う」
「好き?」
「うん。好き」

 廊下の途中の窪んだ区画。いつもはそこに季節の和の花や枝物ばかりが飾ってある。数日で変わる為、思い出した様に花を見て楽しんでいるのはきっと明依だけではないはずだ。今回は名前は知らないが、おそらく洋の物と思われる花が和の花の中に上手く混ざっている。

 明依の返事を聞いた桃は、嬉しそうに笑った。

「なに?どうしたの?」
「愛されてるなーって思って」
「愛されてる?」

 いったい誰にと考えを巡らせてみたが、すぐには思い浮かばず桃の笑顔の意味が分からなかった。もしかすると、贔屓客の誰かからの贈り物だろうかといろいろ考えていると、桃は口を開いた。

「実はこの花ね、(よい)さんの指示なんだよ」
「宵兄さんの?」
「うん。珍しい花ですね、って言ったらね。明依ちゃんが松ノ位に上がったから、好きそうな花をって。本当は和の花以外は飾れないらしいんだけど、三階だったらお客さんは入ってこないし、バレないだろうからって」

 この洋と和の混ざった花束は宵からのもの。こんな心遣い、言われなければわからない。今までもきっと、こうやって気付かずに見過ごした宵の気遣いがたくさんあるのだろう。それと同時に、吉原の中で生きていくと決めた明依に対する、せめてもの想いの様にも感じられた。

 そう思えば、胸の内が温かくなる。たとえ利害関係が一致して一緒になろうとしているんだとしても、宵なら未来はそう暗いものではないのではないかと思わされた。

 それから二人で階段を降り、桃は二階へ。明依はさらに階段を降りて一階に向かった。

黎明(れいめい)さん、黎明さん!黎明さん!!」

 一階に降りてすぐ、明依に気が付いた(なぎ)が全速力でかけてくる。その目はもう、これでもかと言う程キラキラしていた。

「凪。おはよう」
「もう本当に!!何て言ったらいいか!!おめでとうございます!!」

 凪はそう言うと、自分の着物で手のひらをゴシゴシと拭って明依に差し出した。

「握手していただけませんか!!!」

 手を差し出すと、凪はその手を痛いくらいに強く握った。確かに松ノ位には昇格したが、凪からしたらよく見知った顔のはずだ。それなのにこんなに期待をいっぱいに含んだ視線を向けてくれるのかと、相変わらずの吉原オタクっぷりに明依はため息交じりに笑った。

「私、嬉しいんです」

 明依の手を握ったまま凪は俯いて、言葉に相反して少し悲しそうな顔をした。

「黎明さん、雛菊(ひなぎく)さんが亡くなってずっと黎明さんらしくなかったから。……でも今の黎明さんはすごく、黎明さんらしいと言うか。それも前よりずっと、ずっとずっと素敵に見えるんです!」

 そう言うと凪は、顔を上げていつも通りの愛らしい笑顔を浮かべた。
 まさか自分の事を素敵なんて言葉で褒められる日が来るとは思っていなかった。それは見知った凪からかけられた言葉だからこそ価値があるものだ。

「私は雛菊さんをよく知っているわけじゃないけど、雛菊さんは黎明さんの幸せを願っていたと思います。それは黎明さんも同じで、何も言わなくても周りの人に伝わるくらいお互いの事を大切に思ってる。お二人を見ていると、本当の友達ってこういう関係の事を言うんだろうなって」

 吉原というこの特殊な環境がそうさせたのか、日奈(ひな)とは確かに本当の友達だった。それよりも、寝食を共にしていたのだから家族に近かったのかもしれない。
 そんな人が死んだのだ。辛くないはずがない。あの時の自分は相当無理をしていたのだろうと、明依は他人事の様に考えていた。日奈や(あさひ)に対する思いが消えるわけではないが、今となって言えばあの苦しみは仕方がない事だ。大きな感情の渦中にいると、どうしてもわからなくなってしまう。

「……ごめんなさい。何が言いたいのか、分からなくなっちゃいました」

 今度は困った様に笑ったかと思えば、凪はまた最初のようにキラキラした顔をする。そして明依が何か言うより前に口を開いた。凪は本当によく表情が変わる。

「お礼が言いたかったんです。私はこの街が大好きだけど、黎明さんのおかげでもっと好きになりました。これまでこの街には一つの妓楼に二人の松ノ位がいた時期はありません。私はこんなに近くでそれを見る事が出来た。雛菊さんを含めたら、満月屋の松ノ位は黎明さんで三人目。もう本当に、言葉にならないです。……あ、そうだ!先代・吉野(よしの)大夫の着物を見せてくれたんだから、終夜(しゅうや)さんにも感謝しなきゃダメですね」

 〝終夜〟という言葉に、明らかに心が反応する。
 なかなかうまくいかない。花魁道中で一線を引く覚悟をしたが、まだまだ気持ちがついて行かない。もしかすると、強制的にこうやって抑え込むとかえって悪い結果になるのではないか。

「どうしました?」
「別になんでもない。ちょっと考え事」
「終夜さんと喧嘩でもしました?」

 凪はごく自然に。〝今日、朝ごはん食べました?〟くらいの感じで聞いてくる。
 明依はぽかんと口を開けてしばらくその言葉をロードして、それから大きく首を振った。

「違う。してない。私たちはそもそも、喧嘩するような関係でもないから」
「えー。嘘ですよ!だって黎明さんが張見世してた時の終夜さん、凄く楽しそうにしてたし」

 そりゃそうだ。あの男は誰かが自分の手のひらで思い通りに踊るのを見て楽しむという異常性癖所持者なんだから。あの時は少しばかり反抗したが、おそらく思い通りの展開から少し逸れた事が面白かったに違いない。

「私見てたんですよ!黎明さんが終夜さんの顔に煙をかけて、終夜さんも同じ様に黎明さんの顔に煙をかけた。しかも!同じ煙管で!!それって、間接的に口付けてる訳で!!素敵だなーって思いました」
「どこが……?あの時私、思いきりむせてたじゃん」
「それも終夜さんの愛情表現の一種なんですよきっと」

 そんな過激な愛情表現はまっぴらごめんだ。終夜に変なイメージを持っている凪に洗いざらい全部話して目を覚まさせてあげたい気持ちになった。

「ごきげんよう、()()()()

 ありったけの嫌味を含んだ声に視線を移すと、そこには(かすみ)が立っていた。凪は「じゃあ、私はこれで」と霞の嫌味な様子にも気付いていない様子で去っていった。

「おはようございます。霞さん」
「昇格なさって、さぞ気分がいい事でしょうね。ご覧になっている景色がどんなものか見てみたいものだわ」

 その言い方。と思ったが、それに付随して思い出したのは、お披露目の花魁道中を終えた時の吉野(よしの)の言葉だった。
 時雨(しぐれ)と一緒に楼主の代理を務めてくれた時の様な意地悪な言い方はしない。高圧的な態度も取らない。でも、悪意のある言葉に、傷ついてあげない。

「夢を見ているみたいでつい浮かれてしまうから、気を引き締めないといけないなと思っています。そうだ、霞さん。お披露目の花魁道中、見に来てくれてありがとう。嬉しかったです」

 『自分に悪意がある人間の言う事を、いちいち丁寧に受け取ってあげる親切心はいらない』その言葉をうまく体現出来た様な気がした。

「そろそろ行かないと。じゃあ、また」

 何も言い返せないと思っていたのか、ぽかんと口を開けて立っている霞の横を通り過ぎる。
 決して打ち負かすような言い方をしているわけではないのに、随分と気分がよかった。それから明依は本日の一大仕事の為、満月屋を後にした。





 丹楓屋・勝山(かつやま)大夫

「道中見てからの挨拶周りなんて、何の意味があるのかねェ。省きゃいいのに」
「伝統ですから……一応」

 今日は本来、花魁道中の前に行われる松ノ位への挨拶回りの日だ。
 上座で胡坐をかきながら自分の前に置かれた茶菓子を指でつまんで口に入れた後、呆れた様な、というか面倒くさそうにそう言った。

「改めて本当にお世話になりました。これからもどうぞ、よろしくお願いします」
「アンタがもうちょっと酒がまともに飲める様になったら、考えてやってもいいね」

 何言ってんだ、酒乱モンスター。徳利に口をつけて酒を飲んでいたあの日の光景は一生涯忘れないぞ。と思った明依だったが、それと関連したからかふと十六夜(いざよい)の事を思い出した。

「十六夜さん、もうこの妓楼にはいないんですよね」
「ああ。私の世話をする人間が減った」
「……寂しいとか、ないですか?」
「なに。人間は環境に慣れる様に造られてんのさ」

 勝山はいつものように、あっさりとした様子でそう言った。しかしその声色にはどこか、悲しみの色がある。

「十六夜は最後までアンタの事を気にしてたよ」
「私の事を?」
「『幸せになってほしい』ってね」

 その言葉で、明依は十六夜と別れた日の事を思い出した。
 『幸せになって』と穏やかな口調で言われた。それには明らかに〝宵と〟という言葉が含まれていた。
 好きになった人から身を引いて、他の女に託すというのは一体どんな気持ちなんだろう。生半可な気持ちではない事だけは確かだ。十六夜は本当に宵の事が好きだったに違いない。

 十六夜の望んだ形とは違うかもしれないが、それに近い形になろうとしている。宵となら未来を見て、いつか自分の幸せを願う事が出来るのかもしれない。そう思うとなんだか、彼の顔が見たくなった。

 そんな事を考えている明依をよそに、勝山は明依の為に出された茶菓子に手を伸ばした。

「ああ!!それ、私の!!」

 時はすでに遅く。勝山はパクリと明依の分の茶菓子を口に含んで咀嚼していた。

「酷いですよ!!勝山大夫!!美味しそうだったから残してたのに!!」
「もったいぶって食べないからこうなるのさ。自業自得だ」

 初めて会った時同様、出鼻をくじかれて松ノ位への挨拶周りがスタートした。