「よく頑張った。おかえりなさい、明依」

 いつも通りの穏やかな口調に、いつも通りの柔らかい笑顔に、涙が溢れそうになる。気を抜いていいと言われているような気がして。吉野の雰囲気はやはり、日奈と似ている。だから余計に泣きたくなるのだろう。

「まだ眠れそうにないんじゃない?」
「どうしてわかるんですか?」
「私もそうだったから。お披露目の花魁道中の夜は、自分が松ノ位に上がった実感なんてないのに気持ちが(たかぶ)ってしまってなかなか眠れなかったの。……だから少し、私とお話はどうかしら」

 吉野の提案に頷いて、二人は明依の自室の中に入った。
 いつもの自分の部屋のはずなのに、吉野がいるだけで時間が穏やかに流れている気がする。吉野は障子窓を開け放った。空にはぽつりと月が一つ浮かんでいる。

「雪の愛らしい雰囲気は、なんだか日奈に似ていると思わない?」
「はい。さっきの着飾った雪を見て、私もそう思いました」

 海の言葉を借りるなら、これこそまさに満月屋の系譜だ。雪は育つ環境さえ整えば、日奈や吉野のような立派な人になる。

「吉野姐さまはどうして、私を世話役にしてくれたんですか」

 宵が引いたレールの上を歩いていた。しかしこれについては、吉野が拒絶すれば全て叶わなかった話だ。吉野に限って宵の提案を断れなかったから。というのはありえない話だろう。しかしそうなると、自分を世話役にするメリットが吉野に何一つない。あの頃の甘ったれた自分に、何か価値があるとは到底思えなかった。
 状況が落ち着いた今、自分の中で気持ちの整理が出来た今だからこそ、そんな疑問を持っているのだろう。

「行雲流水。その流れに身を任せてみようと思った。だけど、何も考えずに宵さんの話を受け入れたわけじゃない。流れずにとどまった水は、やがて腐ってしまう。思い切って混ぜてみないと、新しい色は出来ないの。あなたはこの満月屋に新しい風を入れてくれた」

 新しい風、というのはそうかもしれない。満月屋の系譜と呼ぶものを黎明という遊女は良くも悪くも大きくはみ出している事は事実だから。
 自分らしさというものの全てを理解しているわけじゃない。でも、この方向で間違っていないと胸を張って言える。皆に、この街に認めてもらえた事はあの花魁道中の様子から察することが出来た。
 満月屋の系譜を受け継ぐ日奈と、大きくはみ出した自分。雪の中には明らかに日奈の教えが生きていて、これから黎明という遊女の教えを吸収する。雪は一体、どんな大人になるのだろう。それが楽しみと思えるのは、自分が大人になったからだろうか。

「吉野姐さまは、どんな子どもでしたか」
「要領のいい子だった。私は生まれてすぐに吉原に売られたから、甘えるという事を知らなかったのね」

 要領がいいというのは想像に難くない。何の理由もなしに吉原に売られるはずがない。だから子どもは、外界の人間よりも大人びた雰囲気を持つのだろう。

「施設の様子を見たでしょう。みんな、両親に会いたいって泣くのよ。でも私は親の顔も名前も知らない。だから、泣くことすら出来なかった」

 雪の様にきっと、吉野もそうだったのだ。
 親の顔を知らない。それは一体、どんな感覚なのだろうか。

「この街で働いて知った。愛情には条件がある。私は親を知らなかった。それは条件のない無償の愛を知らないという事。本当に私を愛しいと思ってくれる人がどんな笑顔を向けてくれるのか。どんな風に抱きしめてくれるのか。それに私は何を感じるのか。私は、愛情というものを何もしらなかった」

 愛情には条件がある。
 確かにそうだ。
 人間は、誰でもは愛せない。
 
 明依の両親は早くに亡くなったが、〝無償の愛〟を知っている。その両親がたくさんの愛情をくれたという事はよくわかっている。子どものころから両親が自分を大好きなことは言わなくても伝わっていたから。それは確かに、暗い夜を照らす光。
 しかし吉野は、それを知らない。
 それを知らない感覚がどんなものなのか、明依はわからない。
 幼少期を吉原で過ごした人と話をするたび、恵まれた環境で泣き言ばかりを口にしていた自分に嫌気がさしてくる。

「幸せを知っている人間がそれを失って感じる地獄とは、また別のものなんでしょうね。私の場合は、どうして売られたのかわからない。だから、苦しいの。物心がつく間に両親の気に障る様な事をしたんじゃないか。例えば、よく笑わなかったとか、手間がかかる子だったとか。身体がもっともっと丈夫だったら、もっと綺麗な顔で生まれていれば。私は愛されていたんじゃないかって。顔も知らない両親の事を考えては、そんな〝もしも〟が、ずっと消えてくれなかった。……でもそれってよく考えたら、私には関係のない事なのよね」

 吉野の言葉に考え込んでいた明依は、最後のあっさりと放たれた一言に呆気に取られて吉野を見た。当の本人はいつもの様子で笑っている。

「私にはどうしようもない事だった。そう割り切って考えて、今を精一杯生きる様にしているの。だって誰が何と言おうと、私は幸せ者だから」

 身請け話が無期限の延期になった時でさえ、吉野は幸せだと言っていた。
 もし自分が今、同じ立場に立っていたとしたら、同じことが言えるだろうか。いや、きっと言えない。

「ねえ、明依」

 いろいろと考えていたところに穏やかな声が聞こえて視線を移すと、吉野は月を眺めていて視線が絡むことはなかった。

「私たちはあと何度、満月を見ることが出来るかしらね」

 自分の姐さんは一体何が言いたいのだろうと思って黙っていたが、吉野は明依に気をやることもなくただ月を眺めていた。

「暑い夏の感覚をあと何度、健やかに感じる事ができるかしら」

 そう言うと吉野は、月から視線を逸らして明依を見た。

「私たちはあと何度、こうやって向かい合って話をすることが出来て……」

 吉野の手がゆっくりとのびて、膝の上に置いている明依の手に重なった。

「あと何度こうやって、手を握ることができるかしら」

 その言葉にはっとして、吉野が何を言いたいのか理解した。それは同時に悲しい気持ちを連れてくる。

「この部屋で二人で月を眺めるのは、きっとこれが最後。眠れない短夜に話をするのは、きっとこれが最後。……あなたの姐さんとして話をするのは、これが最後」

 今日をもって吉野とのこの関係は解消されて、これからは同等な立場として扱われる事になる。終夜に中断される事なくあの身請け話が成立していたなら、吉野はもう吉原にはいなかっただろう。
 後どれくらい、一緒にいられるんだろう。その疑問は今までの分を取り戻そうとするかのように、明依を急かしている。

「もし私が身請けていただいたとして、毎年数回会う事ができるのならそれは凄く幸せな事よね。だけど今、吉原の同じ妓楼にいる私たちは、たった数か月でこれから先の一生分の時間を超える事ができてしまう」

 手を握る事なんておそらく片手で足りる。触れられた手が温かくなった気がした。
 今この瞬間が、奇跡の様に思えて仕方がない。

「何事にも必ず終わりはある。それなのに人間は、いつも永遠に続くと思っている。何もかも、無限にあると思ってしまう。だから限りのある時間を自分の為に使ってくれた人に親切に、誠意をもって接しなさい。そして、全ての事に感謝を」

 何事にも終わりがあることを知っていた、はずだった。旭が死んだときにも日奈が死んだときにも同じことを思って、終わりがある事を知ってなんていない事を理解した。
 吉野との関係に区切りがついて、吉野とすぐに顔を合わせる状況にも終わりが来る。この状況になってやっと、本当の意味で何事にも終わりがあるという事を理解する。
 やはり偉大な人だと思うばかりだ。
 〝最も優れた人格者〟と言われた先代の吉野大夫の影を、それを見た気がした。

「だけど覚えておいて」

 先ほどよりもどこか固い口調でそういう吉野は真剣な表情をしている。明依は一言一句聞き漏らさないようにと、息を潜めた。

「自分に悪意がある人間の言う事を、いちいち丁寧に受け取ってあげる親切心はいらない」

 吉野の発したのは、あまり彼女らしくない言葉だった。

「心はいつでも自分だけのものよ。だから、他人の悪意のある言葉を素直に受け取って、傷ついてあげる必要はない。耳から入ってくる声も目から入ってくる態度も、心の中に入れる情報は全部あなたが選んでいいの。私たちは本来、みんなその権利を持っている。知らなければいけない事は、この人は私を傷つけようとしているのかもしれない、という不確かで一方的な事実だけ。それだけで充分よ」

 優しいを具現化したような吉野だが、確かにその優しさは無条件のものではない。それを体現している。吉野が他人に大きく感情を動かされる様を見たことがない。それはきっと、今聞いた事を実践しているからだ。

 吉野は直接関係があると言わないが、捨てられた自身の経験からその考えに至ったに違いない。
 松ノ位は皆、辛い過去を持っていて、その時の自分と比べて成長を実感している。糧にしている今だから、自分に圧倒的な自信を持ってる。だから堂々としている。それに自分の心が自分だけのものである事を、よく知っているのだろう。

 『俺が見ている限り、松ノ位に上がる事が出来る人間のパターンはある程度決まっている。規則性があるんだよ。この人は何も満たしていない』
 満月屋の座敷の中でそう言った終夜の言葉を、今なら余すことなく理解できている。
 確かにあの時の自分は、何ひとつ満たしてはいなかっただろう。

「だからどんな時も、胸を張っていなさい」

 柔らかい笑顔でそういう吉野に、胸の内が温かくなった。もう、いつも明依を信じてかけてくれた言葉だという事を理解していたから。その吉野の様子は、この瞬間に世話役としての役目を終えるのだと、認識させているようにも思えた。
 吉野は重ねていた明依の手から手を離すと、少し向き直った。

「あなたを育てられた事を、本当に誇りに思います。おめでとう」

 思わず目に涙がたまった。明依は唇を噛みしめた後、吉野と少し距離を取って膝の前に手を付くと、深々と頭を下げた。

「お世話になりました」

 この一区切りは自分の成長に違いない。
 そう分かっているのに、たくさんの感情が入り混じってぽろぽろと畳にシミを作る涙は止まらなかった。