「お久しぶりね、終夜」

 石段の下を覗き込むように見ていた終夜は、夕霧の声に振り返る。その顔にはいつもの貼りつけた様な笑顔があった。

「こんばんは、夕霧大夫。今日の夜は随分と綺麗ですね」
「あれから女の愛し方を改める気になったかしら」
「ヤるなら外じゃなくてベッドの中で、でしたっけ」
「あら、悪くないじゃない。たまにはそういうのも」

 軽妙な態度でさらりとそういう夕霧に、終夜は短く息を吐いて彼女に身体ごと向き直った。

「帯に仕込んだ盗聴器、どうしてわかったんですか?」
「気が早いのね。女との会話はゆっくりと楽しむものだわ」

 こうも上手くかわされては打つ手がないと判断したのか、終夜は喉元で笑うとこの状況を見回す様に身体の向きを変える。
 目が合うかもしれないとはっとして終夜から視線を逸らしたが、それは杞憂に終わった。終夜がこちらを見る事はなかった。いつも気まぐれに働く女の勘というやつをどうにかしたいと、明依は心底思っていた。終夜は目を合わせる所か、明依という女がここいる事にすら気をやっていない。

「主郭は今不安定なんだ。あんまりいじめないでくださいよ」
「アンタが主郭の肩を持つなんて、珍しい事もあるもんだね。終夜」
「だって、松ノ位に寄って集って詰め寄られるなんて悪夢ですよ」
「随分な言い方ね。いい女に詰め寄られる優越感にでも浸りなさいな」

 勝山の言葉にはっきりとそう言い切る終夜に、夕霧は息を漏らして笑った。

「そんな能天気なアホは、暮相兄さんくらいですよ」

 勝山と夕霧は終夜の言葉に呆気にとられたようで、目を見開いて彼を見ていた。おそらく高尾も二人と同じような表情をしているのだろう。

「やっとアンタ達から一本とれた」

 終夜はそう言ってどこか楽しそうに笑う。
 蕎麦屋の二階の様子からしても、昨日の夜の高尾の様子からしても、終夜は暮相の話題におそらく深く触れたがらない。この反応からして、松ノ位の三人はきっとそのことをよく知っている。

「いいよ。満月楼・黎明の松ノ位昇進は、俺が承諾する。気分いいから」

 さらりと自分の源氏名を呼ばれて、心臓は明らかに大きく音を立てた。そしてあっさりとそういう終夜に、蚊帳の外だった炎天が慌てた様子を見せた。

「終夜、何を勝手に。……一度持ち帰って話を、」
「前例はない。でも制度はある。それならここでグダグダ言ってたって仕方ないっていう、シンプルな答えでしょ。俺も他人の承認を待ってる無駄な時間は大嫌いなんだ。権限を持った人間と話がしたい。だから俺が承諾する。本来、組織の上に立つ人間がやらなきゃいけないのは、権限を使わないとできないそういう帳尻合わせだと俺は思うんだけどね」

 言葉を遮られた炎天は、終夜の言葉を聞いてぐっと押し黙った。

「今からこの事で会議を開いたら全体の責任になるよ。でも今ここで俺が承諾すれば、それは俺の責任だ。そういうの、好きでしょ。……遊女の機嫌を伺わなきゃいけないのは、なにも客の男だけじゃない。俺達だってそうなんだ。ここは男が造った、女の街なんだから」

 様々な角度から完全に相手の意見を抑えつける。この男は本当に、恐ろしいくらいに口がうまい。
 主郭の人間は、それぞれ松ノ位の三人を見た。

「吉原の利益の大部分は、松ノ位がいてこそ。姐さま方の機嫌を損ねて吉原潰されても知らないよ」
「お前は暮相と違って頭がいいな、終夜」
「反面教師ですよ。あんなのを側で見ていたら、俺は多少なりともまともに生きようって子ども心に思っただけ」

 高尾の言葉に、終夜は兄と慕った人間を『あんなの』呼ばわりする。それに勝山が短く笑った。

「あのバカ男に聞かせてやりたいね」
「聞きやしないわよ。あの世で鼻の下伸ばして、女の尻を追っかけまわしてるに決まってるわ」

 勝山の言葉に、夕霧は呆れた様な口調でそう言った。
 三人の言葉は辛辣だ。しかし、そこに深い温情を感じずにはいられなかった。

 暮相は高尾と吉野だけではなく、勝山と夕霧とも深く面識があったのだと認識するのは難しい話ではなかった。もう少ししっかりした人だと思っていたが、決してそうではないらしい。本当に終夜や松ノ位の言うような人なら、自殺するなんて思いもしないだろう。
 そんな人間が自殺した。だから、この街の舞台裏は大きく変わった。

「なんにしてもとりあえずは」

 そう言うと終夜は主郭を見上げた。

「あのジジィを引きずり降ろさなきゃね」
「お前はいつも、いつも!!どれだけ頭領に世話になったと思ってるんだ!!!」

 炎天は今にも終夜にとびかかりそうな勢いで終夜に怒号を飛ばした。

「自分で言うのもなんだけどさ、俺は働きアリとしては結構優秀だと思うよ。世話になった分ならもう、充分お返ししたはずだ」
「そういう問題じゃないだろうが!!俺はお前のような忠義を尽くさない人間は大嫌いだ!!」
「ガキのいう事にいちいちムキになるんじゃないよ」

 勝山は窘めるようにさらりとそう言ってからいつもの様に腰に手を当てて明依を見た。

「そういう事だ。アンタは今から松ノ位」
「はい。……いやでもそんな、急すぎて……」
「準備万全で構えている時にだけチャンスがやってくると思ったら大間違いだ。腹(くく)りな」

 いくら何でも急すぎないか。そもそも、こういう事は最初から本人に報告しておくものじゃないのか。
 心の準備が全く出来ていないままの明依に、勝山は活を入れるように言い放つ。

 ふいに終夜が石段の下に視線を移した。それを見た松ノ位の三人がそちらへ視線を移して、それから明依も同じ方向へと視線を向けた。

「吉野姐さま」

 石段の上に立っていた人が避けた道を、吉野が上がってくる。吉野は明依にいつも通りの温かい笑顔を向けると、明依を背に立った。それから深く深く、松ノ位に向かって頭を下げた。

「本当にありがとう」

 そういう吉野に、明依も慌てて頭を下げて「ありがとうございました」と上擦った声で伝える。

「いいのよ。面白そうと思っただけだから」
「私がそうした方がいいと思ったからそうした。アンタの為じゃないよ。顔を上げな」

 明依が顔を上げると、夕霧は怪しさを含んだ綺麗な笑顔を浮かべていて、勝山はいつものように腰に手を当てて笑っていた。
 吉野はしばらくしてゆっくりと顔を上げて、それから動きを止めた。高尾と吉野は少し離れてはいるが、確かに向き合って顔を合わせていた。

「久しいな」

 高尾の声は、作った様にどこか堅苦しい。

「本当ね。あなたはあまり、表に出ないから」

 吉野の凛としている声には、少しの寂しさが混じっている。

「満月楼・黎明」

 一体どうなるのだろうと二人の様子を見ているとふいにそう呼ばれ、視線を向ける。終夜はあの無機質な表情とも違う冷静な表情で明依を見ていた。

「松ノ位への昇格を承諾する」

 絡む視線に感情が追いつくより前に、彼はそう言う。それから薄ら笑いを浮かべた。

「承諾はする。でも、俺はアンタを認めちゃいない。〝忖度〟ってヤツだよ。松ノ位は吉原の顔。頑張らなくていいけど、この街の評価を下げないくらいには上手くやってよ」

 どこか嫌味を含んだように言い放つ終夜に、勝山は盛大な溜息を吐いた。

「本当にアンタはどこまでも可愛げのない男だねェ、終夜」
「そういう役割の男は、この街に掃いて捨てるくらいいるでしょ」

 勝山の言葉に、終夜は飄々とした態度で答える。

「自分が特別だって、そう言いたいの?」
「適材適所、って言いたいんですよ。男に慰めてほしいなら、誰かの一晩を買えばいい」

 夕霧の言葉にも、やはり飄々とした態度で答えた。

「万人に好かれるように動けとは言わないが、お前の態度は女に嫌われるぞ」
「いいよ、それで。好かれるくらいなら嫌われてた方がいいし」

 心臓が主張するようにドクリと音を立てた。
 終夜はただ、高尾の言葉にもいつも通り、飄々とした態度で答えただけだ。

 そういえば以前、宵を助ける為に主郭の地下に入った時。終夜は確かに『好かれるくらいなら嫌われてた方がいい』と言った。何とも思わなかったはずじゃないか。さらりと聞き流したはずだ。それなのにどうして今になってその言葉を思い出して、今の感情で評価しているのだろう。そしてそれに対して傷ついているなんて、本当におかしな話じゃないか。

 終夜に対する気持ちの先には希望なんてなければ、未来だってないのに。
 言い終えた彼は、他人の気も知らないでさっさと主郭の中に引っ込んでいく。

「終夜!!」

 何を思って呼び止めたのか、自分でもよくわからない。
 でも終夜は、主郭の人間が避けてできた道の間でピタリと動きを止めた。

「諦めないから、私」

 そう言うと心の内側で色が変わった。先ほどまでの湿った気持ちを払いのけて、自分らしさが戻ってきた様にも感じていた。

「〝認めます〟って言わせてやるんだから」

 その〝いつか〟を、必ず。終夜が死なない未来を必ず見つける。どうせ叶う事も伝える事もない自分の想いなんて、どうだってよかった。日奈と旭だったらきっと、同じことをする。

「それまで絶対、諦めないから!」

 『大嫌い』と吐き捨てた同じ背中に、生涯伝える事のない想いを全部込めて。
 終夜は半身をひねって振り返った。その顔は挑発的で、でも年相応に見える笑顔だった。

「物好きだね。また俺に遊ばれたいの?」

 そう言うと終夜は今度こそ、主郭の中に入っていった。

 もしも、日奈と旭が生きていたら。
 吉原の深い部分をこんなに知ることはなかっただろう。

 自分をこんなに好きになることもなければ、松ノ位になることもなかった。
 終夜にこんな想いを向ける事もなかったはずだ。

 もしも、もしも今もまだ旭と日奈が生きていたら。二人が描いた未来にたどり着く事は容易ではないかもしれないが、もしも全部乗り越えて、終夜も含めた四人でその未来にたどり着いていたとしたら。
 その時、今と同じような想いを終夜に抱いたのだとしたら。
 それを殺して生きるのだろうか。
 今と同じ様に。
 旭の時と、同じ様に。

 本当に笑いが出るほど馬鹿げていて気分が悪くなるくらい、無意味な仮説だ。

「吉野大夫、場所を変えないか」

 高尾は至っていつも通りの様子で、終夜が去った方向に視線をやったままそう言った。
 高尾は吉野との(いびつ)な関係に終止符を打つつもりなのだろうか。そんなことを考えている明依を他所に、高尾は吉野に向かって視線を移した。

「ビジネスの話をしよう」

 高尾は凛とした、事務的な口調でそういう。吉野はまるでそれを知っていたかのように表情一つ変えずに頷いた。