炎天は言葉も出ないようで、口を開けたまま唖然としている。

「胸を張れ。黎明」

 きっと自分も炎天と似たような顔をしているのだろうな。とほんの少し冷静になったところで高尾はそういう。そう言われても、驚きすぎて胸なんて張れるはずもない。

 自分がこの人たちの隣に並ぶ。
 頭の中には宵と終夜の顔が浮かんで、それから嫌な汗が背を伝う感覚を味わっていた。

「おい、ちょっと待て。どうして急にそんな話に……」

 混乱している様子の炎天に、夕霧は羨む気すら湧かない程に上品な色気を纏いながら挑発的な様子で綺麗な笑顔を浮かべている。

「だって一度も使われた事がないんでしょ?埃をかぶった制度を使うなんて、面白いじゃない。大々的に外界の人間に発表するといいわ。松ノ位が選んだ松ノ位だ。って」
「一応挨拶をと思っただけさ。道中同様、これも松ノ位の特権らしいじゃないか。アンタらの許可は必要ない。ただ首を縦に振ればいい。簡単な事だろ」
「……前例がない事を、今すぐに判断できるはずがないだろうが」

 夕霧に続き勝山のさも当然と言った態度に押されたのか炎天は明らかに困った様子を見せたが、夕霧は被害者です。と言わんばかりにわざとらしく眉を潜めた。

「今からなんの役にも立たない会議でもするって言うの?こんなクソみたいに暑い所で私たちを待たせて。冗談でしょ?」

 『クソみたい』なんて汚い言葉を使ってもそれすら魅力に見えるのだから、本当に松ノ位というのは、いや夕霧という女は恐ろしい。

「異例も異例。だけどそういう制度がある事は事実。アンタらも黎明の昇格を検討している所だったらしいじゃないか。決められないってんなら、何が違うのか説明しな」

 勝山は腕を組んで、彼女にしては珍しく冷静な様子で炎天にそういう。

「事は一刻を争うのでな。申し訳ないのだが今すぐ認めてほしい。吉原の利益の大部分を失いたくないのなら」

 猪突猛進の炎天でさえ、三人の言葉を追いかけるだけで精一杯という様子だ。傍から見ていたって炎天に分が悪い事がわかる。そもそも、この三人を相手にして状況をひっくり返すことが出来る人間なんているはずがない。
 もしかすると、叢雲が生きていればもう少し違う形になっていたのかもしれない。以前までこういった対応の全ては叢雲が行っていた。そう思えば今の炎天は、少しらしくない。

 この花魁道中。
 この状況。
 それが全て自分の為のもの。
 そう認識すると、堪らなく怖くなった。怯えたみっともない表情を誰かに見られる前に、明依は俯いた。

 感情が明らかに揺れたと感じたのは、昨日の夜の事。終夜という人間の本質に堪らなく触れてみたくなった。それから頭の中には日奈が浮かんで、宵がそれを言い当てた。だから、宵に全部見抜いてほしいと思ってしまった。自分が欲しかった言葉はきっと〝それでいい〟だ。このままでいいと正当化してほしくなった。

 これを甘えと言わないで、何というのか。
 自分はこんな立派な人達に認めてもらえるほど出来た人間じゃない。昨日そう、明確にわかってしまった。

「これは、明依ちゃんの気持ちをちゃんと考慮しての事かい」

 清澄はいつになく真面目な、それでいてほんの少し苦しそうな顔をしながら三人に向かってそう問いかけた。

「少しでも明依ちゃんの中に思うものがあるのなら、俺は賛成できないね」
「明依、どうなんだ」

 清澄の言葉を聞いて、炎天が先ほどよりも随分と柔らかい口調でそう問いかけた。

「……私」

 たったその一言が、喉元で震えた。
 そんな自分が、大嫌いだ。

 あれだけなりたいと本気で思っていたのに。本当に怖くて、堪らない。明依は手を強く強く握った。それなのに、感覚がない。
 昨日の夜、終夜の事を追いかけなければこの場で強がってでも笑っていられたかもしれない。追いかけなければよかったのだろうか。

「私は、こんな……。本当はあなた達みたいな凄い人に評価してもらえるような人間じゃないんです」

 吉原解放を協力する条件と引き換えに、明依をこの街に残す。その時点で違和感があった事は明らかだった。明らかに、過剰評価されている。それが、昨日終夜と関わり、その内心を当てられた事で明確に形になってしまった。
 これは自分の弱さだ。
 今回ばかりは何か弁解してほしい訳でも、庇ってほしい訳でもない。
 本気でこの人たちの隣に並びたいと思うのに、気持ちがついて行かない。
 自分の中でこれが過不足のない結論だった。

「私はまだ、松ノ位を名乗れ、」
「つまりお前は、私達三人の判断が間違っていると、そう言いたいのだな」

 高尾は雰囲気を払う様な圧のある口調でそう言った。

「そんなつもりは、」
「あなたの言っている事は、そういう意味よ」

 夕霧に視線を移すと、彼女は意地の悪い言い方で薄い笑顔を浮かべながら明依を見ていた。勝山はどこか他人事のように読めない表情で明依を見ているだけだった。

「黎明。私を見ろ」

 そう言われて反射的に高尾に視線を移した。彼女は顔を隠していてもやはり凛とした雰囲気がある。それは決して、怒りを表している様子ではなかった。

「お前には、私が自分の全てに自信を持ち、全ての判断を誤らない人間に見えるか」

 高尾の雰囲気に押されて、返事は出来なかった。ただ高尾の言ったことは、完全に明依の中で正しいものだ。松ノ位の人たちならこんな気持ちをどうするのだろうと、昨日の夜に考えたばかりだ。

「もしそう見えるのなら、それはお前の勘違いだ。当然、そう思う理由を説明することもできる」

 何が勘違いと言うのだろう。相変わらず返事をする余裕もないまま、ただ高尾を見ていた。

「なぜなら、私がそう見えるように努めているからに過ぎないからだ。……私は他人の意見を尊重して生きてきたつもりだ。暮相が自ら命を絶ったと聞いたあの時も。しかしどうだ。私は強く成し遂げたいと思った事にまで怖気付いて尻込みしていた。これは、私の心の弱さだ」

 暮相と夢見た、吉原の解放。
 もうあんな思いは二度としたくないと、確かに高尾はあの時そう言った。それが高尾の心の弱さ。
 高尾は今、心の弱さを共有しようとしてくれている。

「どうしてお前を松ノ位に上げる気になったのか。その理由も説明しよう。……お前が自分の現状に満足できない人間だと知ったからだ」

 一体どういう事だと、明依は息をすることも忘れて耳だけに意識を集中させた。

「お前は確かに優柔不断な所があり、すぐに騙され、とびぬけた美貌もなければ、とびぬけた知性もない。自己肯定感が低く、自分を許すことが出来ない。心配性ですぐ不安になる。だからすぐに周りに流され、この上なく都合よく利用される」

 ……あれ、もしかして悪口?
 と思ったのは仕方のない事だと思う。淡々とした口調でありとあらゆるダメな所を指摘してくる高尾に自分の感情が迷子になった明依は、とりあえず彼女の言葉の続きを待った。

「しかし、お前はそれを自分でわかっている。わかっているから、改善しようともがいている。現状に満足する様な人間に未来などなければ、そんな人間を松ノ位に推薦する程、私たちは他人に優しくはない。現状維持は衰退と同義。貪欲に自分を磨く努力をする。女の街の頂点。松ノ位は、そういう人間でなければいけない。……だから胸を張れと言っている」

 相変わらず高尾の表情は見えないが、その口調はいつも通り。凛としていて川の流れの様な穏やかさのある様子だった。

「私たちはあなたにそれができると思った。女って厄介よね。自分で作った感情に溺れて不安で眠れない夜がある。大きくなった不安に飲まれて、自分で自分をダメにしてしまう。そんな夜に必要なのは相性のいい男でも、相槌を打つだけの女友達でもない。自分の中に実績を積み上げてきた、自分だけ。そう教えたはずよ」

 夕霧は相変わらず薄い笑顔を浮かべているが、先ほどのような意地悪な様子はない。その眼差しはどこか見守られているような、そんな温かさを感じた。

「異論は必要ない。私たち三人の意見だ。どれだけ強がっていたって、みんな怖いのさ。だからこそ、明確な理想を自分の中に持っている人間が、勇気をもって一歩踏み込む人間だけがチャンスを掴む。誇れ、黎明。その心の弱さを含めて、私達がアンタを認める」

 吐いた息が震える。それと同時に、ぽたぽたと涙が地面に落ちた。
 嬉しいなんて、むるい言葉じゃ到底足りそうにない。心から尊敬する人から、本当の意味でこのままでいいんだと認めて貰えること。
 これ以上の多幸感はきっともうないだろう。

「あの状況でもはっきりと自分の意見を言ってのける。覚悟を持ち旭と雛菊の意思を継ごうとするお前に、私は勇気をもらった。決別したいんだ。ずっと尻込みしているだけの私とは。……悲劇の渦中には飽きてしまった事だしな」

 高尾はどこか戯けた様な口調でそういう。
 それは、高尾の強がりだと今となっては手に取る様にわかった。きっとこの人達は、そうやって他人に自分の弱い所を見せない様に〝そう見えるように努めている〟。自分の中に理想を描いて、それに近付く事が出来る様に。

 宵が旭殺害の容疑をかけられて主郭に連行された日。吉野も全く同じことをしていた。
 きっと誰もが臆病で、そんな自分を偽って生きている。やはり、松ノ位と呼ばれる人たちは圧倒されるばかりだ。
 しかし、底が知れないと思っていた松ノ位の底に、ほんの少し触れた気になった。

「あの男は……。暮相という男はこの街の希望だった。それが今は、強い呪いに変わっている。私も、お前たちも、この街も」

 炎天と清澄、それから叢雲はその責任を感じて頭領候補からも辞退。暮相が死んで吉原をより良くしようと思った叢雲は、それを言い出せずに旭を手にかけた。それを調べようとした日奈が朔に殺されて、叢雲は自分の行いを悔いて自殺した。それが原因で炎天は、慣れない仕事をこなそうと必死になり、周りが見えなくなっている。それを清澄が何とか側で支えているのかもしれない。

 この連鎖は、まさに呪いだ。

「私たちはもう、充分悔いた。そろそろ自由になってもいいのではないか」

 終夜にも、暮相という人間の呪いがかかっているのだろう。
 蕎麦屋の二階での終夜の様子。あれは明依を脅す方向に誘導する為ではなくて、終夜の本心。
 終夜はきっと、心の底から暮相の事を慕っていた違いない。

「うわ。凄いね、コレ」

 その声に明依は思わずびくりと肩を浮かせた。

「随分と派手な祭りだ。絶景絶景」

 終夜は主郭の人間が避けた道を笑顔を浮かべて歩きながら、楽しそうに吉原の景色を見回している。

 一番会いたくなかったはずの男。
 それなのに顔が見られたことが、堪らなく嬉しいなんて。