「明日の夜、主郭の門の前で待つ様にって。高尾大夫から言付かっているよ」
「……わかった」

 本当は、何もわかっていない。どうして主郭の前にいなければいけないのかとか。明確に何時だとか。だけど、そんな事にすら頭が回らないくらいに明依は自分の感情の中で迷子になっていた。

「帰ろうか」

 宵がいつもの様子に見える様に考慮している事は、なんとなく理解できた。
 終夜の事が頭の中をぐるぐると巡っている。でも、なるべく足音を立てない様に注意を払いながら宵の背中を追って三浦屋から外に出た。
 終夜と見た時よりも傾いた月を、ただぼんやりと眺めた。

「うそつき」

 数歩前を歩きながら、明依にもはっきりと聞こえる声で宵はそう言った。戯けたようにも聞こえる声色に、不服を隠さずに混ぜて。宵の放ったその言葉の意味が、病室で自分が『信じて』と言った言葉に対してだと気が付けば、脳みそはあっという間に終夜という人間への考えを投げ捨てて目の前の宵へと意識を向けた。

「ごめんなさい」

 明依は俯いたままそう答える。それから、何も返事をしない宵の背中を見た。

「でも宵兄さんは私に騙されたふりをした。それは、どうして?」
「終夜の裏側で何が動いているのか、確認しておきたかったから」

 宵が潜入捜査官だと知っていた。それを明確に認識したのがいつかと言われれば、今だと明依は思った。宵の淡々とした口調はとても事務的な響きがあって、それは明依の知っているどんな宵の顔とも違っていた。
 終夜は宵を〝日本が誇るとびきり優秀なエージェント〟と表現していたが、その鱗片を見た様な気がする。それなのに心の内に浮かぶのは、ちゃんと仕事してるんだな、なんて他人事のような感想だった。

「さっき終夜を追いかけただろ。見つけたのか?」
「うん」
「じゃあ明依が何を考えたのか、当てていい?」

 何を考えたのか。吉原を解放する手札が終夜にあるのだとしても、宵との関係は継続させる事。そんな自分達によく似あう偽装的なものの内側だろうか。

「日奈の事」

 明依は思わず歩みを止めて宵の背中を見つめた。

「……なんで」

 もう、恐ろしくもあった。心の内側を覗かれたとしか思えなくて。宵は立ち止まってから振り返ると、唖然としている明依を見た。

「日奈の様子を見ていたらわかったよ。終夜に対してどんな感情を持っているのか。明依と終夜の最近の距離感から考えると、難しい話じゃない。だから日奈の顔が浮かんだ。それがどういう意味なのかも、わかってるつもりだよ」

 どういう意味なのか。わかっているなら教えてほしいくらいだ。そんな上辺だけの感想が浮かんだあと、明依はため息を吐いた。嘘だ。本当は自分が一番よく分かっている。
 終夜という人間に対して、自分がどんな感情を持っているのか。

 だけどその一歩を踏み込む日は、来ない。
 あの男のいい所を一つ言う為に息を吸う一秒よりも短い間に、心の内には十の悪行が浮かぶ。
 曖昧な一過性の感情に振り回される程、遊女として初心(うぶ)ではないし、この感情の先には何もない事なんて考えなくてもわかる。
 友達が恋をした相手に同じ気持ちを抱いている。それは倫理観の欠如にも思えるのは、当然の事だ。
 これだけの理由がある。あと一歩を踏み込む日は来ない。
 今は、その事実だけでいい。

「錯覚だよ、こんなもの。すぐに消え失せるって断言してもいい。人の感情は、すぐにかわるから」
「そうだね。恋なんてどうせ、最初は脳の錯覚だ。……でも明依は俺にその錯覚すら見なかった」

 だからこれ以上、この話をしないで。
 そんな明確な線引きをしているつもりで、明依は宵にそう言った。
 それなのに、どうして。
 人間というのはどうしてこうも弱い生き物なのだろう。

「なんで?」

 宵は押し付けるような口調で、そう問いかけた。

「なんで、なんだろう」
「わからない?」
「……わからない」
「……そうか」

 宵に話したいと、暴いてほしいという気持ちが顔を出している。一体いつまで、宵という幻に甘えるつもりなのだろう。

「悔しいな。本当に」

 宵はそう言うとゆっくりと顔を近づけて、触れるだけの優しい口付けを一つ落とした。
 宵は多分、拒絶する時間を与えたんだと思う。だけど、拒絶するつもりはなかった。
 そんな自分が、大嫌いだ。こんなに側にいるのに。これから先もずっとこんな関係なのに。気持ちが交わることはないのかもしれない。それはおそらく、孤独よりもずっと孤独な事だ。

「終夜の側にいたい?」

 宵のその質問は、何を答えたらいいのかと検討する余地さえ与えない。宵はまるで、明依の反応を最初から知っているかのように冷静だ。

「でも、ごめんね。それは叶えてあげられない」
「……どうして?」
「どんな手を使っても吉原を手に入れるのが、俺の仕事だから」

 うそつき。
 そう言ってやりたい気持ちになった。
 宵の言葉はかわらず凛とした響きを持っている。そのどこかで少し混じる寂しそうな音に気付かないだろうと思われているのなら随分舐められたものだと、心の端から端までムラなく染められていたくせに少し反骨的な気持ちが顔を出した。

 『女は宵みたいな男が大好きだろ。つまり宵はこの街で、女を選びたい放題って事。それなのにどうして自分を選んだのか。疑問に思わない程思い上がりの激しいバカじゃないって、俺はアンタをそう評価してる』

 冷静になってみても、やはり終夜の言葉に完全に同意する。
 だったらどうして、宵は明依という駒に必要以上に構うのか。無理矢理こじつけるなら、自分がなんでもできるから、なにも出来ない人間に惹かれたとか。そんなことを考えて、さすがにそれはないか。と堂々巡りで結論に至らない事を知った。

 でも、一つだけ確かなことがある。
 あの時。病室の中で状況を教えてくれないと守ることもできないと言った時。素直に終夜の事を口に出していれば、彼と高尾が繋がっていた事は知りえなかった訳で。それはつまり宵にとっては大損害。その可能性があったのにあんなことを口にしたのはどうして。あの甘ったるい雰囲気を意図して作ったのは、どうして。
 もしも、それまで自分を騙そうとしての事だったら。もう完敗だと思った。

 せめて生涯気付きませんようにと無意識の中で祈るくらいしかできる事はないだろう。明依は案外自分という人間を知っているなと思った。知らない方が幸せなこともあるのは事実。でもそれを目の前に出された時、渇望する程に知りたがる。それが自分の性分だ。真実が知りたい。本能に近い所でそう思っている。

 本当の宵は、どこにいるんだろう。

 どんな場所にも収まらない感情がしばらく漂った後では結局、とにかく期待するなと本能が警告を鳴らして、自分の意志でその思考を止める。
 それは今、いやこれから先、考える必要のない事だ。

「宵兄さんは、吉原は国が管理した方がいいと思ってるの?」
「思わないな」

 淡々とした口調でそういう宵は、優しさよりも凛とした強さがある。やはり今まで見たどんな宵とも違う。

「吉原がこの形になってから国は何度もこの街に人を送ってきた。その結果のほとんどが、終夜が楪達に下した処遇と同じ。だけど今まで、国に直接的な被害は出ていない。つまり、お互い干渉するのはやめましょう。と言う事だ。この街には充実した施設と機能があって、ライフラインが確立している。いわば、独立国。だけどもう、引くに引けないんだよ」

 宵はそう言うと、まるで終夜がいつもする様に吉原の街を眺めた。

「その気持ちはよくわかるよ。……ここまで深く吉原に入り込んだ人間は、俺以外にいない。もし俺がしくじる事があれば、国も諦めが付くのかもね。〝やっぱり吉原奪還は無謀だった〟って」

 ドクリと一度、心臓が嫌な音を立てる。
 終夜か宵か。お互いに敵対している限り、どちらかしかこの街にはいられない。それはつまり現状で一番可能性が高いのは、どちらかが死ぬという事。
 『しくじる事があれば』。それは、宵が死ぬという意味だ。

 たくさんの時間を一緒に過ごしてきた。もしも全て造られていたのだとしても。そう簡単に嫌いになれるはずなんてない。大切だと思う気持ちは今も変わっていないんだから。

「そんな顔しないで」

 心配させるような悲痛な顔をしていただろうか。宵はそう言うと明依の頭に優しく触れた。

「俺は自分の選択が間違っているとは思ってない。きっとそれは、終夜も同じだ」

 宵も終夜も、きっとどちらも正しいのだろう。
 終夜は自分の領域(テリトリー)の内側。味方が一人もいない状態でも、自分が正しいと思う事をしている。終夜の内側は〝孤独〟というたった一言で片付くものなのだろうか。
 宵は自分の領域(テリトリー)の外側。社会の裏側に足を踏み入れて、極限の精神状態を何年も続けているのだろう。
 明依はふと、終夜に殺された楪を思い出した。深く刻まれた隈。仄暗く不気味な印象。あれはもしかすると、道理に反した生き方を選んだ生き物の、極めて自然な防衛反応だったのかもしれない。

 結論を言えば、終夜や宵の事を細部まで理解することは出来ないだろうと思った。その後、きっとそれはお互い様なのだろうという所に落ち着いた。
 人間という枠組みの中で理解できない。いやきっと、生物学的な分類が別だから理解できない。よく酒に酔った客の言う『男と女は理解し合えない』という最たるもの。明確な脳の作りだとか、もっとぼんやりとした感性だとか。
 そうではないと説明が付かない事もあると思うのは、心を読み解いているとしか思えない終夜や宵さえ、松ノ位の考えている事にはあと一歩及ばないからだ。

 どんな地獄を見るんだとしてもこの街に残りたい。それをどんな理由であれ尊重しようとしてくれる宵には感謝しないといけない。

 ただもうどんな幻を魅せられてももう、宵の手のひらの上では踊らない。
 そう思うのに、宵のもの寂しい雰囲気に絆されてしまう気持ちまではきっと、宵にも解き明かせないだろう。

「少しだけ遠回りして帰らないか」

 宵はそう言うと、空に浮かぶ月を見上げた。

「今日の月は、とても綺麗だから」

 先ほどよりももっと傾いている月は、やはり高尾の髪の色によく似ている。
 明依が頷くと、宵が明依に手を差し出した。明依はその手を握り返した。

 松ノ位の遊女だったら、こんな時どんな感情になるのだろうか。きっとうまく自分の中で気持ちの整理をつけるのだろう。いつか時間が解決してくれるのだろうか。いつかという時間が、必ず訪れる保証なんてないのに。

 いろいろな感情が揺れて惑って、収まる場所を探している。