高尾は宵から視線を外すと、今度は終夜を見た。

「たまには他人の力を信じてみる気にはならないか」

 高尾のいう『他人の力』というのは自分の事だろうか。明依はちらりと終夜を見ると、彼は俯いて盛大な溜息を吐き捨てていた。それは諦めの様な、ふてくされている様な、そんな態度だった。

「自分の能力の範囲外を過信するなんて、バカのやる事だ」
「人は一人では生きていけない。お前は暮相に、そう教わったはずだ」

 終夜はしばらく俯いたままでいたが、重い腰を上げたといった様子でゆっくりと立ち上がって出入口に向かって歩き出した。

「これ以上は時間の無駄だね。もういいよ、それで。(らち)が明かないから」

 『人間は弱い生き物だよ。誰かに触れてもらわないと、自分の形が見えない』
 終夜はいつか、そんな話をした。その認識がある中で孤独な道を生きるというのは、どんな感覚なんだろう。慣れて麻痺してしまうんだろうか。

 終夜の姿が見えなくなったと同時に、明依は走った。しかし廊下にはもう、終夜の姿はなかった。
 なぜか、諦める気にはなれなかった。そんなに遠くには行っていない。必ずまだ、この妓楼の中にいる。そう思うとなぜか、無性に泣きたい気分になる。明依は廊下を走りながら、必死になって終夜の痕跡を探した。

 終夜が吉原解放に尽力する。しかしそれは、宵の頭領の件とは関係のない事だ。宵との関係性は元に戻る。いや、戻らなければいけないと強く思っていた。そうじゃなければ、終夜を庇う後ろ盾をなくしてしまう。それに幸か不幸か、お互い利用する関係になる為に一緒になる約束を、じゃあやめましょう。と一方的に打ち切る傲慢さは持っていない。でも、それで構わないと思った。終夜が生きていられる可能性が少しでも上がるなら。
 これではまるで宵が悪者の様な扱いになるが、心というのは本当に白か黒かでははっきり出来ないものだと明依はつくづくそう思っていた。

 あの時、宵が吉原に来る可能性を作ってくれていなければ、自分は人を殺していたかもしれない。それは紛れもなく事実だった。以前終夜も言っていたが、救ってくれた事に変わりはないのだ。それは視界が明瞭になった今でも変わらない。きっと誰も、愛の定義を説明できない。だからただ、収まるところに収まるだけだ。

 だからどうか、今だけ。まだこの行動が許される、曖昧な今のうちに。
 そんな、縋るような願いだ。どこまでも贅沢で、どこまでも傲慢な、そんな願い。

 少し襖の空いた座敷を通り過ぎた。直感のようなものが働いて、それから足を止めてから考えるより先に襖を開けて中に入った。
 そこには、開け放った障子窓の前に立った終夜がいた。思わず終夜を後ろから抱きしめるが、彼は抵抗することも、何かを言う事もない。明依は自分が今とんでもないことをしていると認識して、しかし離れるまで頭が回らないまま軽くパニックになっていた。

「あのー、あれ。あの状況はさ、ぐうの音も出ないってやつだね。いろんな方向からフルボッコ、」
「殺されたいの?」

 終夜は本気か冗談かわからない口調でそういう。多分冗談なんだろう。と無理矢理収める所に収めた。いつか自分の事を煽り属性なのではないかと疑ったことがあったが、本当にそうなのかもしれないと不安にすら思った。

「私が宵兄さんと一緒になろうって思った理由の一つには、終夜を守りたかったからだって、終夜は気付いてる?」

 こんなことを言って、一体何になるのだろう。それを終夜が知って、一体何になるのか。口を衝いて出た言葉こそまさに、終夜のいう〝承認欲求〟というものだと明依は理解した。

「なんだ。媚び、売れるじゃん」

 あっさりとした口調で、さらりとした感情を乗せて終夜は言う。違うとか、そうじゃなくてとか。脳みそはそんな否定を口にさせるより先に終夜の表情を想像した。もう難しい話じゃない。おそらく終夜は、あの無表情をしているという、直感。

「俺がこの場からアンタをさらって、無理矢理吉原から出すとは考えないの?」

 そう言われて心の中に浮かんだ言葉はいたってシンプル。……確かに。という一言だった。

「考えてなかったんだ。本当、危機感バグってるよ」

 ちょっと危機感がおかしくなっているのかもしれないと、自分の生い先が不安にはなった。しかしそれが〝終夜だから〟という言葉でまとめてしまえばしっくりくるのだから、本当におかしな話だ。分かり合える何かなんてないと、言われたばかりなのに。

「無理矢理さらわれるなら、その後の私の待遇はどんな感じなの?」
「ド田舎の旧家の豪邸でのびのび暮らすか、夜景が一望できるビルの最上階を独り占め」
「いいね、それ。そういうのも悪くなかったかも」
「まあどっちにしても内側から鍵は開かないし、万が一の為に身体にはマイクロチップを埋めるけど」

 へー、終夜もそんな冗談言うんだー。たまには、えーじゃあ夜景でー、って感じで話に乗ってあげようかなー。
 なんて、馬鹿みたいに能天気になれるほど自分の脳みそが腐っていない事にも、それでも幸せでいられると思うと豪語する感性がなかったことにも心底安堵した。

「絶対やだ。そんな生活」
「ここも大して変わらないだろ。たまにはその籠から逃げ出してみたらいい。どこにいても見つけ出してあげるよ。マイクロチップ埋めるから」
「怖い怖い怖い」
「あと心拍数とか体温とか、諸々の情報からアンタの心を推測してから行動してあげる。ほら、もうマイクロチップが最適解だ」

 どんだけマイクロチップ推しなんだよ。そんなに推すならまずお前が埋めろよ。と思った明依だったが、どちらが小指を切るか話した時の様に多分また飄々とした態度でかわされる事だけは分かっていた。

「それだけ情報があれば騙されている事にも気付かないくらい上手に騙してあげるよ。女が男に求めてるものって、極論そういう事だろ」
「いや、極論すぎ」

 時雨といい終夜といい、どうして吉原に染まっている男は一本ネジが外れているのだろう。この環境がそうさせるのかと考えてみたが、まともな人間がいる事も確かだった。ちょっと今すぐには思いつかないが。
 多分終夜という男は、人間の心をどこかに落としてきたんだろうと明依は推測した。

「でもさ、そうやって騙しておいて自分だけ先に死ぬって言うのは、無責任だよね」
「……俺に騙されてるみたいな言い方」

 終夜のその口調は平坦だが、指摘するような響きも同時に持っていた。

「終夜はさ、どうして吉原を解放したいの?」

 答えてもらえるなんて、最初から思ってはいなかった。

「これは私の考えだけど」

 そう言って間を開けるが、やはり終夜はなにも喋らない。

「吉原を解放するって事は、この街が自由になるって事。だから、裏の頭領が独占して持っている権利を分散させるって事だよね。もしも宵兄さんが裏の頭領になった時、国が吉原を手に入れた時の為に。……その時に自分が死んでいたらって、終夜は考えてる」

 終夜の腹部に回している腕が、ゆっくり大きく動いた。終夜が大きく息を吸ったことが原因だった。しかし、終夜は何も言わない。

「何か、言ってよ」

 なんだか無性に泣きたくなって、明依は唇を噛みしめながら終夜を強く抱きしめた。

「……人間なんて、どうせいつかは死ぬ。早いか遅いかの違いだけだよ」
「そんな寂しい事、言わないでよ」
「めんどくさ。何か言えって言ったの、アンタだろ」

 確かにそうだ。終夜の言う通り、女というのはめんどくさい生き物だと女である明依自身もそう思った。
 夕霧や高尾の言う通り、女を理解できる気になるのは傲慢な事なのかもしれない。自分自身が作った感情に溺れて自分を見失ってしまうくらい、複雑なんだから。
 明依は話を変えようと大きく息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。

「終夜、ありがとうね」
「……なにが?」
「私がこの街にいるより外にいる方がいいって思ったから、こんな傷をつけたんでしょ」
「やっぱイカレてるよ。危機感、バグってる」
「この傷跡は、凄く優しい。私もうちゃんと、知ってるから」
「でた。その都合よく解釈する癖、やめなよ」

 都合のいい解釈なんかじゃない。この仮説は、終夜という人間をよく知る医学のプロから教えてもらったんだから。
 明依が何も言わない事を確認するように間を開けた後、終夜は身体中の空気を抜くみたいにゆっくり息を吐き捨てた。

「恨み事の一つくらい吐けよ」

 息を吐きながら、小さく震えた声でそういう。終夜は今、どんな顔をしているんだろう。

「こっち向いてよ」
「やだ」
「またあの顔してる?」
「そう言われるから、いやだって言ってる。これ以上べたべたくっつくなら金払ってくれない?」
「……どちらかと言えば、それは私のセリフじゃない?」

 例え吉原という街にいる全員が終夜を悪人だと言っても、終夜を庇う事が罪だと言われても、きっと庇ってしまう。
 もしかすると今、日奈と同じ感情を持っているのかもしれない。
 そう認識した直後に流れてきた感情は、決して温かいものではなかった。

 日奈が好きだった終夜を、自分が抱きしめている。

 明依は思わず、腕に込めていた力を緩めた。

「明依」

 潜めた声で呼ばれた名前にビクリと肩を浮かせて、反射的に終夜から手を離して入り口の方向を振り向いた。
 冷静になった後、廊下に小さく響いていた声から宵とはまだ距離があるとやっとの事で認識する。

 安堵した様な不思議な感覚の後、明依は終夜の方へと振り向いた。

 視界を埋め尽くしていたのは、締め切られた障子窓だけ。そこにはまるで最初から外の景色も、終夜もいなかったかのようだ。

「明依。頼むから、もう少し危機感を持って行動して。何かあってからじゃ遅いって、もうわかってるはずだよ」

 座敷の中に入ってきた宵にそう言われて、やっと冷静にならなければと思考が働く。それなのに、宵の言葉にたった一言返事をする余裕さえ、今の明依にはなかった。