お父さんが引っ越してからずっと1人だったんだから、なにも今日が初めての夜というわけではな――。
「確かにそう言ったけど、俺…、こうとも言ったけど?」
顔を上げると、千隼くんが優しく微笑んだ。
「『咲姫になにかあったら、すぐに駆けつける。ずっとそばにいるから、安心しろ』…って」
その言葉は、番号の書かれた紙をわたしに渡してくれたときに言ってくれた。
あのときは、ありがたいなぁくらいにしか思っていなかったけど…。
今この場で聞いたら、とても心強い言葉となった。
「咲姫になにかあったから、すぐに駆けつけた。だから、咲姫が安心するまで、ずっとそばにいていい…?」
わたしの目線の高さまで腰を落としてくれて、そう尋ねてくれた。
わたしの返事を待つ千隼くんの表情は、まるで飼い主からの号令を待つ子犬みたいな顔をしていて――。
そんな顔されたら、「ダメ」だなんて…言えるわけないよ。
むしろ、ずっとそばにいてほしい。
わたしがゆっくりと頷くと、千隼くんの口角が上がった。
「決まりだな」
そう言って、再びわたしを抱きかかえた。
そうして千隼くんは、外が明るくなるまでずっとずっと、わたしのそばにいてくれたのだった。
それから、数日後。
明日から、新学期が始まる。
本当だったら、新年度にわくわくするはずだけど、今のわたしはそんな気分にはなれない。
なぜなら、もし明日のクラス替えで、山根くんと同じクラスになったらどうしようと悩んでいたのだ。
同じクラスじゃなかったとしても、あんなことがあったばかりなのに、また山根くんに会うのは…ちょっと。
今度は、なにをされるかわからないという不安もある。
あれから、ちょっとそこまでの買い物でも、千隼くんに電話すると、すぐに駆けつけてくれた。
…でも、それは春休みの間だからできたこと。
明日から、わたしも千隼くんも学校が始まる。
学校には、千隼くんはいない。
つまり、わたしのそばにいて守ってくれる人がいないということだ。
お昼ごはんを食べ終わったあと、憂鬱になりながらも、明日の学校の準備をする。
すると、そのとき――。
ピンポーン
家のインターホンが鳴った。
出てみると、モニターに映し出されたのは千隼くんの顔。
…あれ?
今日は出かけることもないから、連絡もしてなかったはずだけど…。
玄関のドアを開けると、千隼くんの後ろから、青い髪のヒロトくんが顔を出した。
「ちーっす!咲姫さん!」
そのヒロトくんのあとに続いて、金髪、銀髪、緑の髪の人まで現れた。
「今日は、みんなどうしたの?」
千隼くんだけでなく、いつもの慧流座の4人もいっしょだ。
「なに言ってんすか〜。1人じゃ大変だと思って、手伝いにきましたよ!」
みんな腕をまくって、自慢の筋肉を見せつける。
ん…?
手伝い…??
「どれを運んだらいいっすか?なんでも言ってください!」
…と、言われましても。
わたし…、まだ状況が把握できてないんだけど…。
あとから、千隼くんからわけを聞くと――。
どうやらわたしは、…転校するらしいっ!
山根くんのことは、千隼くんからお父さんに伝えられた。
そうしたらお父さんが、「そんな危ない男がいる学校に、これ以上咲姫を通わせられるかぁ!」と言って、激怒。
急遽、転校の手続きをしたんだそう。
「千隼くん、山根くんのことはお父さんに言っちゃダメだよ…!絶対、怒って心配すると思ったもん」
「咲姫から、『黙ってて』とは言われてないし。もしそう言われたとしても、上に報告するのが俺たちの決まりだから」
さすが…千隼くん。
暴走族内での縦の礼儀をちゃんと心得ている。
千隼くんたちは聞かされていたみたいだけど、明日から違う学校に通うだなんて、わたしにとっては寝耳に水。
仲のよかった友達と、離れることになるのは少し残念…。
だけど、こわい思いをしたあとだから…これでよかったのかもしれない。
そのとき、わたしのスマホが鳴った。
画面を見ると、お父さんからの着信だった。
〈もしもし、お父さん?〉
〈咲姫か?この前、危ない目にあったことは千隼から聞いた。…で、お父さん考えたんだが、急ではあるが――〉
〈明日から、違う学校に通うんでしょ?〉
もう知っているのに、お父さんが言いづらそうにしていたから、思わずクスッと笑ってしまった。
〈…どうして、それを!?〉
〈千隼くんたちから聞いたよっ。今、家にきてくれてる〉
〈あいつら、仕事が速いなっ!さすがは、お父さんの後輩!〉
お父さんの自慢げな声が、電話の向こう側から聞こえる。
〈…で、『手伝いにきた』って言ってくれてるんだけど、なんのことだろう?〉
〈ああ、それはな〉
そのあとに続くお父さんの言葉も…また寝耳に水。
わたしの転校先の学校は、『皇蘭中学校』。
ここは、学校の敷地内に寮があり、入寮届を出すことで、寮に入ることができる。
なんとそれを、お父さんが転入手続きといっしょに、勝手に提出してしまったらしい…!
〈…わたし、これから寮に住むの!?〉
〈ああ。だって皇蘭中学は、今の家からじゃ少し遠いからな〉
スマホで調べたら、確かに通うには少し遠い。
とは言っても、通えないほどの距離でもない。
しかし、お父さんがわたしを寮に入れたい本当の理由は…。
〈通学中に、また変なヤツにつけられるかと思ったら…お父さんが心配だしぃぃ!〉
…やっぱりそっちだった。
いきなり寮に住むことになって、びっくりだけど…。
お母さんが入院している病院とは、今の家から通うよりも、寮から通うほうが格段に近くなる。
だから、まぁいっか。
〈それに皇蘭中学は、千隼も通ってるからな〉
〈そうなのっ?〉
電話をしながら、チラリと千隼くんのほうに目を移す。
すると、電話の内容がだいたいわかっているのか、千隼くんはわたしに向かってコクンと頷いた。
〈これで、わざわざ千隼を呼び出さなくたって、いつでも咲姫のそばにつかせることができるしな!〉
…その点に関しては、わたしもありがたかったりする。
千隼くんは「いつでも駆けつける」と言ってくれているけど、わたしは『今、大丈夫かな!?』『忙しくないかな!?』と、考えながら電話したりしているし…。
急すぎる転校だけど、皇蘭中学の校長先生は、快くわたしを受け入れてくださったよう。
なぜなら、そこの校長先生は、お父さんと昔から馴染みのある人なんだそう。
そして、わたしの入寮の準備で荷物をまとめないといけないから、慧流座のみんなが手伝いにきてくれたということ。
「千隼くんも寮に住んでるの?」
「ああ。あと、ヒロトも」
「うぃーっす!明日から、よろしくお願いしま〜す!」
とりあえず、寮で使うものをまとめて、その荷物は千隼くんたちが持って帰ってくれた。
わたしが明日、手ぶらで登校できるように。
いきなりだけど、この家で過ごすのも今日が最後となってしまった。
しばらくは戻ってこれない。
だから、わたしはできる限り、家を隅々まできれいに掃除したのだった。
そして、次の日。
わたしは新しい気持ちで、家のドアに鍵をかけた。
ほとんどの学校は今日から始業式みたいで、制服を着た人たちが通り過ぎていく。