このたった一瞬の出来事だけで、わたしは…千隼くんに触れることすらできないの…?
「そういうことだよ、咲姫」
後ろから声がして振り返ると、乱れた制服を整える二階堂さんが立っていた。
「行けよ、咲姫。もう俺に関わるな」
「待って、千隼くん…!わたし――」
「行けっつってんだろ!俺も、ようやく慧さんの頼みから解放されて、清々してんだよっ!」
――その言葉が、わたしの胸に突き刺さる。
カオルくんは、千隼くんはわたしのことが好きだと言ってくれた。
だから、お父さんの頼みで仕方なくではなく、好きだからこそ守りたいと。
わたしもそう思いたかった。
――だけど。
やっぱり千隼くんは、わたしのことなんてなんとも思っていなかった。
むしろ、面倒な頼みをされて、お荷物くらいにしか思っていなかったんだ…。
…だって、わたしが二階堂さんに連れて行かれようとしているのに。
いつもみたいに守ってくれるどころか、一度たりとも目も合わせてくれないんだから。
わたしに背を向ける千隼くんの姿が、涙で滲む。
「泣く必要はないよ、咲姫。これからは、僕がずっとそばにいるから」
二階堂さんはわたしの肩に手を添えると、千隼くんから遠ざけるように、わたしを連れてその場を離れた。
その日、千隼くんは荷物をまとめると、202の部屋から出て行った。
二階堂さんに守られることとなったわたしのそばにはいれないと言って。
二階堂さんが千隼くんに、出ていくように言ったのか…。
それとも、千隼くんの意志で出ていったのかはわからない。
どちらにしても、千隼くんのいないこの部屋は、わたし1人だけで過ごすには広すぎて…。
天窓から差し込む月明かりの下で、わたしは寂しさに涙するのだった。
千隼くんを想えば想うほど、涙が溢れる。
そして、ようやく気がついた。
――ああ。
わたしは、千隼くんのことが好きだったんだ、と。
でも、今さら気づいたって…もう遅い。
わたしのそばから、いなくなってしまったあとからじゃ。
「…千隼!さっきのは、どういうことだよ!?」
俺の腫れた左頬に、痛いくらいの勢いで湿布を貼りつけるカオル。
ここは、慧流座のアジト。
他のヤツらがワイワイと遊ぶ中で、俺とカオルの周りだけ空気がピリついている。
「まあまあ、カオルさんも落ち着いてくださいっすよ…!」
この場の空気に耐えられなくなったヒロトが間に入る。
「千隼…お前っ、なに勝負に負けたからって、荷物まとめてあっさり引き下がってんだよ!」
「仕方ねぇだろ。勝ったほうが咲姫を守る。そういう決まりだったんだから」
俺は、勝負で二階堂に負けた。
もう、俺が咲姫のそばにいるべきではない。
そう思って、簡単な荷物だけをまとめて部屋を出た。
夏休みの間は、このアジトで過ごすつもりだ。
負けたほうは、咲姫から身を引く。
だから俺はそうしたまでだっていうのに、やけにカオルが突っかかってくる。
「もういいだろ。終わったことなんだから」
今さら、未練がましく「もう一度勝負させてください」なんて言うつもりもない。
「カオル、いい加減落ち着けよ。俺だって普通の人間なんだから、負けるときくらいあ――」
「嘘つけっ。…お前、わざと負けただろ」
カオルが、俺の胸ぐらをつかむ。
いつも忠実なカオルが、初めて俺を睨みつけた。
「…えっ?総長が…わざと負けた?」
ほら、見ろ。
状況を理解できてねぇヒロトは、混乱してるじゃねぇか。
「なに言ってんだよ。俺は、真剣に勝負して――」
「だったら、二階堂の足がふらついたとき、なんでそこを狙わなかった?あんな隙、オレでも見逃さねぇよ」
俺の胸ぐらをつかむカオルの手が震えている。
これは、俺に逆らった恐怖心からではなく、勝負の結果に納得できない悔しさからだった。
「お前が全力を出して負けたのなら、オレはなにも言わねぇよ。…でもな。わざと負けて、しかも咲姫をかけた大事な勝負だったっていうのに、…お前なにしてんだよ!!」
普段、物静かなカオルが…声を荒らげている。
肩でハァハァと息をするほど感情が高ぶっていて、こんなカオルの姿は初めて見る。
「…千隼。お前、咲姫に惚れてんだろ…?」
カオルが俺に訴えかける。
「初めて、好きになった女なんだろ…!?」
まるで、俺の心に語りかけるように。
俺は黙って、つかまれていた胸ぐらの手を振り解くと、カオルに背中を向ける。
――そうだよ。
カオルの言う通り、咲姫は俺が初めて好きになった女だ。
小柄で、どこか危なっかしくて。
だからこそ、目が離せなくて。
自分のことよりも、周りのために動いて。
だれにでも優しくて、笑顔がかわいくて。
そんなとき、慧流座の初代総長の慧さんが、突然俺の前に現れた。
そして、「娘の咲姫の用心棒をしてほしい」と頼まれた。
慧さんに紹介される前に、偶然にも咲姫とぶつかって再会したけど、咲姫は俺にまったく気づかなかった。
だけど俺は、昔と変わらない咲姫を見て、これまで募っていた想いが溢れ出した。
むちゃくちゃに愛してやりたいって。
でも、俺も人見知りだから、再会した咲姫に初めはどう接していいのかわからなかった。
慧さんに頼まれたから、咲姫を守るという使命はあった。
それが咲姫と過ごすうちに、徐々にそれ以上の感情に変わっていって…。
だれにも渡したくない、『俺だけの咲姫』という存在になった。
だから、彼女宣言もした。
『そばにいるために』なんて口実だったけど、本当は学校のヤツらにも、慧流座のヤツらにも、咲姫は俺の女だってわからせるために。
咲姫は困惑するだろうと思ったから、彼氏の“フリ”として。
でも、俺としては『本当の彼氏』のつもりだった。
俺の気持ちは、ずっと咲姫に一直線で。
咲姫も、俺と同じ気持ちだったらいいのにと、何度思ったことか…。
絶対、咲姫を惚れさせてやるって思っていたのに――。
自らの手で、咲姫を手放してしまったことが。
そうする方法しか思いつかなかったことが。
…悔しくて悔しくて、たまらねぇんだ。
俺は、ギリッと下唇を噛む。
「…ふざけんなよっ。お前、咲姫の気持ち知ってんだろ!?」
背中に浴びせられるカオルの言葉に、体がピクリと反応する。
ああ、知ってるよ。
――咲姫の気持ち。
俺に向いてないってことくらいな。
咲姫はここ数日、部屋にいないことが多かった。
「用事がある」と言って姿を消すが、…俺は知っていた。
二階堂の部屋に出入りしていることに。
初めは、パンフレットの撮影の打ち合わせで呼び出されているのかと思っていたが、それにしては頻繁に通っている。
それで、悟った。
咲姫が好きなのは二階堂で、2人はすでに“そういう関係”になっていたんだと。
そして、二階堂からの勝負を挑まれて確信した。
きっと咲姫は、俺よりも二階堂に守られることを望んでいる。
口には出さないだけで。
勝負のとき、二階堂がいつもと違うことはわかっていた。
動きだって鈍く、パンチやキックにも重みがない。
それに、決定的な足のふらつき。