その日は、灰色の空から霧雨が絶え間なく降り注いでいた。


 まるで私の心を映し出しているかのように。


 カラン、と入り口の鈴が控えめに鳴って扉が開いた。


 私はそちらの方に顔を向けずに、窓の外を眺めるふりを続けた。


 近づいてくる足音、そして……。


「北村美咲さん、ですか?」


 やや低めの柔らかい声が聞こえて、私は早すぎず遅すぎず、計算された動きで振り返る。


 その拍子に、緩く巻いた栗色の髪が肩で揺れた。


 背広姿の若い男が遠慮がちな笑みを口元に浮かべ、私を見下ろしていた。


「はい。……そちらは、藤川さんで?」


「ええ、藤川涼司と申します。初めまして」


「どうぞお座りください」


「ありがとうございます。失礼します」


 男──藤川涼司は営業マンのような礼儀正しさを見せるが、私は警戒心を緩めなかった。


 膝の上のスマホをお守りのように握りしめる。


 藤川はスマートな動きで店員にアイスコーヒーを注文すると、私がホットココアに手をつけていないのを見て、冷めないうちに飲むように勧めてきた。


「……藤川さん。私が今日お呼びした理由、お分かりですよね?」


 彼の善意を無視して、私は鋭い声を出した。


 本来は魅力の一つであろう甘さのある端整な顔立ちが、胡散臭く見えて仕方がない。


「お父様のこと、でしょうか」


「お父様? 普段あなたが呼んでるように言ってもらって大丈夫です」


「……では、遠慮なく。修吾さんのことで呼ばれたのは、承知しています」


 実際に父を名前で呼ばれると、精神的なダメージがあった。


 これは嫉妬? 分からない……。


 私はため息をつきたくなるのを堪えながら、目の前の【災難】に立ち向かおうとした。


「パ……父とは、どういう関係なんですか?」


「美咲さんもご存知の通りです」


「じゃあ、父との不倫を認めるんですね?」


「……だって、認めざるを得ないでしょう?」


 そこで、藤川の表情と声のトーンが変わった。


 冷淡な笑みを見せながら、やや砕けた口調になる。


 開き直るつもり?


 私は嫌悪感を隠そうともせず、眉根を寄せた。


「修吾さんの娘さんからメールで話があるって連絡があったときから、覚悟はしてましたよ。あぁ、バレちゃったな……ってね」


 フフッと笑って髪をかきあげ、アイスコーヒーにストローをさす仕草に不覚にも色気を感じてしまう。


 私も喉の渇きを覚えて、冷めかけたココアに口をつけた。


 カップに薄く口紅の跡がつく。


「……その楽しそうな感じ、ムカつくんですけど」


「ごめんなさい。でも、馬鹿にしてるわけじゃないんです。超然としたところがあるねって、修吾さんにも言われてたことがあって」


「パパに?」


「そういうところも好きだよって」


「……」


 私は唇を結び、惚気ける藤川をじろりと睨んだ。


 好きだよって、こいつのことが本気で好きなの? パパ……。


 遊びでもショックなのに、もし本気だとしたら立ち直れないかもしれない。


「ねぇ、美咲さんってファザコンでしょ?」


「はい?」


「僕もね、ファザコンなんです。でも、早くに亡くして。修吾さんに父の姿を重ねてるのかもしれない」


「自分のお父さんをそういう目で見てたの? 気持ち悪い……」


 つい、本音がこぼれてしまった。


 一瞬だけ、藤川が少し悲しそうに、いや苦しそうに顔を歪める。


 自分の言葉が相手を傷つけたことに少し罪悪感を抱いたが、その一方で自業自得だとも思った。


「修吾さんは、そんな言い方を絶対にしない。僕の全てを優しく受け入れてくれる」


 その言葉は私の胸に突き刺さり、まんまと仕返しをされた気分だった。


 父に愛されて育ってきたつもりだけど、父の秘密に触れた今、その自信が揺るぎつつあった。


 2人の間に長い沈黙が下りる。


 私は返す言葉を探しながら、彼の手元に目を落とした。


 組まれた長い指がゆったりとしたリズムを刻んでいる。


 先に口火を切ったのは、藤川だった。



「仲良くしましょうとか、許してくださいとか、そんな言葉を言う権利は僕にはない。でも、一つだけ言いたいことがあります」


 そこで言葉を切ると、彼は真剣な表情で居住まいを正した。


「……美咲さんは間違いなく、お父さんに愛されています。僕に向ける愛とは、種類や次元が違う。だから、僕は美咲さんが羨ましいし、同時に妬ましくも思う」


 何を言われるのかと身構えた私は少し拍子抜けするとともに、この対面は間違いだったかもしれないと思い始めた。


 なぜか、鼻の奥がツンとする。


「僕は見ての通り男だし、修吾さんに結婚を迫ることもできない。だから、2人だけのささやかな時間がすごく大切なんです」
 

 不倫をしているくせに、まるで純愛のように語る。


 しかし、私は何も言うことができなかった。


 それどころか胸が詰まって泣きそうだった。


「……最後に一つ、いいですか」


「どうぞ」


「父の、どこが一番好きですか?」


「目、かな。温かみがあって、くっきりとした強さもある。……美咲さんも、同じ目をしていますね」


 藤川が子供のように屈託なく笑いかけてきた。


 その言葉を聞いた途端、私はなぜ父がこの男と不倫をしているかが分かったような気がした。


 これ以上責める気になれなかったのは、初対面の彼に惹かれてしまったからかもしれない。



 もし私が望んだら、彼は私を抱いてくれるだろうか?


 そして、それは父への裏切りになるのだろうか……。



 私は後ろ髪を引かれる思いで喫茶店の前で藤川と別れた後、ふわふわとした高揚感に包まれながら駅に向かって歩いていた。


 魔性という言葉は、女だけのものではないのだと思い知る。


 ……いや、ダメだ。この不倫を美化するわけにいかない。ママのためにも。


 そんな理性とは裏腹に、私は内側から沸き起こる感情を抑え難くなっていた。


 恋は理屈じゃないものね、と耳元でもう一人の自分が囁く。


 彼に、もう一度会いたい……。


 ふと、街のショーウインドウの前で立ち止まる。


 私はハッとするほど恋する女の顔になっていた。


 連絡先は知っているから、その気になればいつでも連絡することができる。


 しかし親子で泥沼にハマるなど、あってはならないことだ。


 ……それだけは、絶対に。


 私はこの恋心を誰にも知られてはならないと、心に固く誓った。 



 父の秘密が、私の秘密になった瞬間だった。 





【父の秘密・完】