「何があっても、俺は栞のこと離さない。約束するよ」


 あれは、付き合い始めた三年前のことだったか。

 彼がひどく真剣な顔でそう言うものだから、私は思わず小さく笑ってしまった。


「お、おい……笑うことないだろう? 俺は本気で言ってるんだからな!」


「分かってるわよ、拓也。ありがとう。その気持ちだけで嬉しい」


 素直に頷いて見せると、彼は急に照れくさそうに頭を掻いた。


 忙しい仕事の合間に時間を作って会ってくれたり、記念日には必ずプレゼントを用意してくれたり……。

 本当に優しくて自慢の彼氏だった。


 ──ごめんね、拓也。


 物思いに耽っていた私は、そっと目を開けた。


「おい栞、何を考えてたんだ。もしかして、昔の男のことか?」


 隣りに寝転ぶ男が八重歯をチラリと覗かせながら、茶化したような口調で笑う。


 どうして私は、真面目な拓也とは正反対の女好きのチャラ男を選んでしまったのだろう。


「……さぁね。亮介には教えなーい」


「つれねーなァ。俺が浮気したこと、まだ怒ってんの? あれはただの遊びだって言ってるだろ」


 無言で寝返りを打ち、亮介に背中を向ける。


 遊びだからと言って、裏切り行為には変わりない。バレても反省せず、開き直るのはタチが悪すぎる。


「……はぁ。最近仕事が上手くいかないし、彼氏は浮気性だし。良いことないなぁ」


「おーい。心の声、ダダ漏れしてるぞ?」


 亮介がせせら笑うのを聞き流しながら、再び目を閉じた。


 もうすぐ誕生日がきて30歳になってしまう。私はかつてない焦りと不安を覚えていた。


 30歳までに結婚をして、子供を持つのが夢だった。


 でも、亮介との未来は考えられない。なのに、ズルズルと惰性で付き合い続けている……。


 ──何があっても離さない、か。


「……嘘つき」


「ん? 何か言ったか?」


 離さないと約束したのに。何で離れてしまったの?


 分かりきっている答えを何度も追い求める。


 そのとき、スマホに着信があった。知らない番号だ。


「出なくていいのか? お前こそ、浮気してんじゃねーだろうな?」


 液晶画面をぼんやりと見つめる私に、亮介がからかうような口調で追討ちをかけてくる。


 私は弾かれたようにベッドから起き上がると、手早く服を身につけた。


 怒らせたと思ったのか、彼は黙って煙草を吸いながら私を見ている。


 ──行かなきゃ。あの場所に!



「……おい、栞!?」


 驚く彼の声も耳に入らなかった。


 私は夢中で走った。息を弾ませながら、何度も転びそうになりながら。


 人気のない夜道を全速力で走る姿を誰かに見られたら、通報されてしまうかもしれない。


 髪を振り乱し、何かに取り憑かれたように走り続けた。


 河原にたどり着いたとき、私は息も絶え絶えに砂利の上に膝をついていた。


 目の前の川が真っ黒な渦となって呑み込まれそうな錯覚に陥る。

 でも、不思議と怖くはなかった。


「拓也……。ずっと来れなくてごめんね」


 振り絞るように、かすれた声を出す。


 拓也は一年前の今日、この川に飛び込んで亡くなった。溺れた見知らぬ子供を助けるために。


 幸いにも、子供は一命を取り留めた。


 あまりにも辛すぎて、この場所に来ることをずっと避けてきた。


「……拓也のバカ。私を置いて死ぬなんて……ううっ」


 やるせなさと悔しさが胸に押し寄せ、涙が溢れて止まらない。


「約束したじゃない。何があってもっ……離さないって……!」


 地面に突っ伏しながらくぐもった声で泣き叫ぶ。


「栞」


 ふいに、懐かしいその声が私の名前を呼んだ。


 拓也……!?


 私は嗚咽を堪えて顔を上げ、必死に拓也の姿を探した。


「こっちだよ、栞。俺はここにいる」


 優しい囁き声に導かれるままに、ふらつく足取りで川の方へ近づいた。


 どこなの? 早く姿を見せて……。拓也!


 気づけば私はくるぶしまで川に浸かっていた。冷たさは感じない。


 もっと前へ、前へと進もうとする。


 彼に会いたい一心だった。


「約束は忘れてないよ。ずっと、栞と一緒にいたい」


「私も一緒にいたい……。お願い、拓也。顔を見せて?」


 祈るような気持ちで両手を広げながら、ゆっくりと川の中を進んでいく。


 後戻りできないところまで私を連れて行って、拓也……。


 どこまで行けば会えるの?


「……おい、何してるんだよ、栞ッ!!」


 突然、そんな怒声とともに強い力で引き寄せられた。


 身体のバランスを崩しかけた次の瞬間、私は誰かの腕の中に包まれていた。


「た、くや……?」


「バーカ! ちげぇよ、亮介だ! お前……何で川なんかに入ってんだよ? 身体すげー冷たいぞ!」


「なーんだ、亮介か……」


 落胆すると同時に脱力しそうになる私を、亮介がしっかりと抱き上げてくれた。


 部屋から飛び出した私の後を追いかけてきたのだろう。肩で大きく息をしている。


「ごめん。ごめんな、栞……。ここまでお前が思い詰めてるなんて知らなかった」


 彼はいつになく真面目な口調で謝った。

 その口調が拓也と重なり、ギュッと胸を締めつけられる。


 ──違う、亮介は関係ないのに……。


 心底疲れ切ってしまい、声にはならなかった。

 亮介は自分の浮気のせいで、私が入水自殺しようとしたと思っている。


「栞、俺もう浮気なんてしないから。お前だけを大事にする。約束するよ」


「……約束?」


 その言葉に私はビクッと反応した。


 約束。それが果たされないことを私は身を持って知っている。


 なぜ人は、簡単に約束したがるのだろう。
 
 自分自身の戒めのためか、それとも相手を繋ぎ止めておきたいからか。


「ほら、このままだと風邪ひくぞ。一緒に戻ろう、栞。歩けるか?」


 私の手を取り、柄にもなく優しい声音を出す亮介。


 ──約束なんかいらない。でも……。


 本当に薄情な男なら、私を追いかけてもこなかっただろう。

 それは、亮介なりの不器用な優しさなのかもしれない。

 今なら少しだけ、彼の言葉を信じてもいいと思った。


 それにしても、あの電話は誰からだったのか。

 拓也の命日に、呼ばれた気がしたのだ。


 時々、後ろを振り返りたくなることもあるだろうけど、生きている限りは前を向いて歩いていかなければならない。

 それが、この世に残された私の使命……。


 川からそっと目を逸らした私は寒さに身体を震わせながら、亮介に肩を抱かれてゆっくりと歩き出した。


 いつの間にか拓也の声は聞こえなくなっていた。



【約束・完】